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金と昌巳 3

 昌巳は布団に横たわっていて、金の顔を見ると幾分血色がよくなったその顔に安堵の表情が広がった。差し迫って具合が悪くなったようには見えなかった。
 「何だ? どこか痛いのか」
 「先生、どこ行ってたん?」
 先生、というのはこの街での金の仇名のようなもので、敬称ではない。ここいらに定住している人間で、先生という呼称に値する生業をなす者は、金以外には自称芸術家くらいしかいなかった。したがって、こう呼んだからとてそれだけで昌巳が急に殊勝になったということはできない。
 「下の病院だ」
 「誰も患者なんかおらんのに?」
 「ああ、お察しの通りの閑古鳥だから片付けて店じまいだ。で、どうした?」
 奇妙な短い間があった。
 「……便所……」
 「は?」
 「うんこ、したいねん」
 金の顔に笑みが広がった。
 「何だよ……トイレのドアはそこだ。まあ通じがあるのは健康の……」
 影になった昌巳の表情が漂わせるものを感じ、金の言葉と笑みは、うつ向いた昌巳の表情の闇に飲まれるように消えていった。
 「……立たれへんねん。さっきからなんぼがんばっても足に力が入らへん……先生、俺どうなるんやろ……」
 悲痛な声だった。金は勢いよく腰を上げた。今昌巳と目を合わせる勇気はなかった。そのまま昌巳の頭の方にまわってしゃがみ、昌巳の脇の下に手を差し入れて彼の痩せたからだを抱え上げた。
 「どうもならんさ。まずはクソしてから考えろ」
 軽々と昌巳の小さなからだを宙に浮かせたまま、金は大股に歩いて、トイレのドアノブに手をかけた。昌巳を洋式の便座にゆっくりと座らせると、彼のパンツに指をかけた。
 「それは、自分でできる……」
 昌巳の小さな手が、金のごつい手に重なった。
 「そうか、じゃ終わったら呼べ。閉めるぞ」
 「うん」
 金は軽くドアを押して閉めると、小さくため息を洩らした。
 敵意のない人間しかいない、シェルターのような狭い空間に守られたことを、昌巳の無意識が確認したとき、過度の緊張に隠されていた彼の本来の疲労と衰弱が表面にあらわれたのだ。その現実がどうであれ、あの幼さで、安息できる巣を持たない彼が、発熱やだるさくらいならいざ知らず、歩けないと実感した時の不安と絶望と悲しみは、想像を絶し、安易に同情することすらおこがましいように金には感じられたのだ。金は先ほど昌巳の目を見ることを避けた自分を、無力だと感じていた。

 昌巳はそう長くトイレでがんばっていたわけではないが、金は待つ間、昌巳の寝ていた、へこんだ敷き布団の四隅を直したり、昌巳の半ズボンを手に取ってみたり、落ち着かなかった。半ズボンは、寝かせるときゴワつくので穿かせないでいたのだ。その半ズボンのヒップポケットから、何か小さなものが畳の上に落ちた。
 「あっと」
 それは小さなメモ帳で、上部をスプリング状の針金で綴じたものだ。ベージュの表紙は、下の角が両方とも雨水が染みて変色し、中の紙と一緒に反り上がっていた。少し気が咎めたが、金はページをめくる。
 意外なほど几帳面な小さな文字で、人の名前と、電話番号らしい数字、何の目印もない四桁や五桁の数字が整理されず並んでいた。名前は、「井上」とか簡単な部分が漢字で、大部分はカタカナだった。記号のようだ。人名は記号だ。電話番号は最初の三桁が示すところ、大半が携帯か使い捨てのIPフォーンナンバーだ。目印のない数字は、桁数から考えて金額だろう。これは業務手帳のようなものだ。その業務は、少なくともこの数日はあがったりだったはずだ。脱げば病気が明らかである。目に見える症状が出る前でも、顔色や空気から、客が好んで買うとは思えない。ヤサにも居づらかったろう。メモ帳の入っていたポケットにはちびた鉛筆が一本。前のポケットには小銭。それ以外何もなかった。
 「すんだー。……先生!? 先生!」
 金が昌巳の声に気づき、我に返ったのは、トイレの中からくぐもった声で三度目に呼ばれてからだった。
 「おお、すまんすまん」
 金は必要以上に大きな声で返事し、メモ帳をヒップポケットに戻し、その半ズボンを布団の足下に置いてから、トイレのドアノブを回した。
 「もう」
 「ちゃんとケツ拭いたか?」
 昌巳が何か言う前に、金は彼のからだを抱え上げ、布団に寝かせた。
 掛け布団を昌巳のからだにそっとかける金を見上げる彼の目は、いつになく穏やかだった。
 「なあ先生」
 「ん?」
 「腹減った」
 金は笑った。
 「出すもの出したら、空きがでたな。いい傾向だ。ちょっと待ってな」

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