[0]Back
私はこのインタビューを見ていて、いろいろな疑問や感銘を受けた。青年は一応親に再会したものの、一緒に暮らすことはしなかったらしい。無論番組では青年はそんな部分は語らないが、上記のような十数年を過ごしてノーマルな性的嗜好が育つはずがない。そして、何をされてきたかは実父母にもおおよそわかっていることだ。そのように「変えられて」あるいは「歪められて」しまった我が子を、本人が望めば世間体から両親は受け入れるだろうが、おそらく複雑な感情、あるいは嫌悪感は禁じ得ないのではないか。「いっそ見つからなければよかった」と思っているかもしれない。そう、青年自身が感じたのだろう。
全米でのMissing Children(行方不明の子ども)は年間百万人とも言われ、あいにく簡単に見つかると思った最近の統計はネットで出て来なかったかったが、日本では警察に届け出のある行方不明者が年間8〜9万人ということで、まあ日本とは次元の違う数の子どもが毎年「消え」続けているのがアメリカということだ。ただ、誤解をしてはいけないのは、これが性犯罪者の犠牲になった子どもの数とは全く別のものだということだ。自ら家出した者、また離婚して親権を剥奪された者による誘拐といったケースの方がはるかに多い。そして、それでもやはり日本とは比較にならぬほど多くの子どもが、命を落とすほどの性犯罪の犠牲になっている。
正義感ぶってこうした事実を槍玉に上げ、「許せない」「私も戦いたい」というような論調は、昔からよく見かけた。たぶん近頃流行のブログでもいきりたっている輩が多いことだろう。彼ら(なんとなく彼女ら、の方が多い気がするがw)が省みなくてはならないのは、まず、「感情に流されていないか」、そして「視野が狭くなっていないか」ということだ。男だろうと女だろうと子どもだろうと大人だろうと、殺されたり痛めつけられたり犯されたりすればそれは被害者にとって果てしなく大きな苦痛であり、そのような危害を加えるのは憎むべき犯罪であることに変わりはない。「子どもに欲情するなんて」という嫌悪感が先に立っていないだろうか。
また、こうした犯罪の犠牲になるのは、すべからく社会的弱者である。「女」である、「子ども」である、という時点ですでに弱者だが、ここではそういうことを言っているのではない。米に暮らす知人がいるが、ワシントンのある地域の学校では子どもは必ず車で送り迎えするものであって、その「義務」を怠ったり、日本でよくあるようにパチンコをしている間「車に子どもを放置」などすれば、裁判所で親権を剥奪されかねないという。だが、全ての親が子どもを車で送り迎えなどできるはずがない。失業者の親を持つ子やスラムに暮らす子は、上層階級の親がそれほどの危機感を抱く「危ない社会」の中で、放置されている。実際に誘拐されたり性犯罪に遭う子も、そうした下層階級の子だ。アメリカ人の子どもは、親の階層によって「命の重み」が違い、基本的人権を守られていない。
話を広げれば、罪もない子どもの、しかも我が子よりはるかに恵まれず、放っておいても餓死するかもしれない過酷な暮らしを生き抜いている子どもの頭の上に、アメリカ人は爆弾の雨を降らしている。我が子を高級車で送り迎えしている人間には、こうした悪を見抜く想像力がない。
そして、キャンピングカーで拐かした子どもを連れて根無し草のように各地を転々とした男は、果たしてどんな階層の、どんな親の元に育ち、転々としている間の彼自身は、どんな階層の人間だったと言えるか。彼らに発信器をつけ、刑務所を出たあともネットで住所や顔写真を公開する。その一方で、他国に爆弾を落とし罪もない人々を大量虐殺することに拍手する。それは、正義か。
無自覚な「弱い者虐め」をし続けている人間達自身が、自らの暮らしを脅かす危険の元凶であり、いかなる世になってもいかなる階層に生まれても、常に「弱者」であり続ける「子ども」を傷つけ続けてるのである。
2005/11/13記す
[*]図書室へ