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夜想倶楽部〜序章


 戦後の混乱期の中、人々は己が生きるのに精一杯だった。絶望の中の退廃。それでも残る未来への希望のエネルギー。そんな混沌のるつぼの中に人々は生きていた。混沌を力として光をつかむ者、なすすべもなく闇にたたき込まれる者。生まれ持った運命が、人々をいずれにかいざなう。
 太郎という名の少年は、小さな印刷工場を経営する父の元で育った。大戦中に生を受け、やっと始まった戦後教育を受けるべき立場にあったが、ほとんど学校に通うことはなかった。インクと油にまみれながら、父の手伝いをする日常は、幼時から始まっていた。そのことを幸とも不幸とも、彼には考える暇はなかった。ただ、当時の同じ年頃の少年のことを思えば、屋根があり、どうにか三度の食事にありつけるだけでも、ましな方とはいえるかも知れない。
 しかし、十歳になった彼の近頃は、いささかならず憂鬱なものであった。最も大きな衝撃は、母親が姿を消したことである。何の前触れもなく彼の前から姿を消した母は、一ヶ月たっても帰ってくる様子はなかった。彼に添い寝をしてくれる母は二度と戻らなかった。それから前後して、父親の様子が目に見えて変わってきた。鬱々と沈んでいるかと思えば、昼間から濁った酒を飲んで、彼に暴力さえ振るった。まともに食事もできなくなった。そして、工場の内外を、彼にとって得体が知れず恐ろしげな、大きな男たちが徘徊するようになっていた。
 父は男たちがやってくると明らさまに萎縮して、ぺこぺこと頭を下げていた。太郎はそんな父の姿が、酔って暴れる父よりも嫌だった。男たちは無遠慮に、太郎の頭をつかんだり頬をなでたりしたが、そのたびに彼は恐怖感と嫌悪感を感じて、体を固くするのだった。ある意味、それは子供らしい真実を見抜く感性であったのかもしれないが、その感性が彼を救うことは、無かった。
 母が姿を消してから、二ヶ月もたったある日、太郎の父と五人の男が、ささくれだった畳の茶の間にあぐらをかいて車座になっていた。二階にいた太郎は、階下から聞こえる怒号を耳にして、きしむ階段を下りて、ふすまの向こうの様子に耳をそばたてていた。
 父は畳に頭をすりつけて謝っているようでもある。太郎にちょうど背を向けた白髪の男は、和服姿で、腕組みをして黙ってそれを見ている。太郎の父に怒号を浴びせている男は、立ち上がって父に覆い被さるようにしている。太郎には鬼の形相に見えた。他に三人の男。
 「のう、それが駄目ならお前に死んでもらうぜ。保険に入って、事故で死んでもらう」
 「だが、わしはそんな・・・」
 「何も体裁するこたあねえ。いつの間にかいなくなったと言えばいい。カミさんに続いて息子もかって、同情されこそすれ、だれもあんたを責めやしない」
 「しかし・・・」
 「しかしもくそもねえ! もう待てるだけ待ったんだ。これ以上・・・」
 「誰じゃ!」
 と不動のままに張りのある声を上げたのは、白髪の男だった。太郎がふすまに身を預けすぎたため、大きな音を立てて、ふすまが開いてしまったのである。部屋にいた男たちの視線が一斉に太郎に集中した。見上げる大男と目が合ってしまい、太郎はあわててうつむいた。
 「あのう・・・ごめんなさい」
 男たちは一斉に声を上げて笑い、意味ありげに目配せをしあった。 太郎はすすけた半ズボンのすそをつかんで、もじもじと立ちつくしていた。
 父親があわてて立ち上がって、太郎のシャツの肩口をつかんで、彼を部屋の外に押し出した。
 「お前は、上に行っていなさい!」
 白髪の男がゆっくりと言った。
 「まあ、いいじゃないか。せいぜい、優しくしてやることだ。今夜迎えをやるから、支度をしておきな。とりあえず、わしらはこれで失礼する」
 父親は何か言いかけたが、白髪の男の異様に迫力なる視線にあうと、あえなく口をつぐんでしまった。男たちは白髪について、ぞろぞろと部屋を出ていく。大男がまた、無造作に太郎の髪をくしゃくしゃとなでまわした。「あばよ」息がかかるほどに彼は顔を近づけて、太郎に言うと、意気揚々と車に引き上げていった。

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