金と昌巳 2
金の診療所は古びた雑居ビルの二階にあり、裏路地側の階段から、直接上っていけるようになっている。
冷たい晩秋の小雨の降る夕刻、金はコンビニのおでんをありがたげに抱きしめ、自宅と診療所の入るビルに向かって、裏路地に折れたのだった。
すでにしとど濡れて冷たそうな階段脇のドブ板の上に、昌巳は半袖半ズボンで眠るようにうずくまっていた。
ここらでは路上で眠る少年は珍しくない。
街を仕切る人間に大人しく使われてさえいれば、稼ぎが悪くてもメシとネグラは何とかするのが「彼ら」のやり方。しかしひどく稼ぎが悪いなり仕事ぶりや態度に兄貴分からみて問題があれば、幼い子にも拳骨のふるわれることも珍しくない。
一時的にヤサを追い出されたか、ここの暮らしに嫌気がさしたか、誰も詮索などしない。冷たい雨に降られていた昌巳の細い手足は、よく陽に焼けてはいたが血の気に乏しく、薄暗がりにも身体が小さく震えているのが窺えた。
金は深く考えず、昌巳の細っこい身体を空いた片手で軽々と抱き上げ、暗い階段を上ったのだった。
「痛い言うとるやないかこのヤブ医者!」
昌巳の雨に湿ったシャツの下はむき出しの裸で、苦痛にもがきながら悪態をつき続けていた。
「膿が皮の内側に思いきり溜まってんだよ。ちんちん腐っちまうぞ。これを切り落とすはめになってもいいのか?」
金は消毒綿越しに、昌巳の、包皮をめくりあげた幼い性器をいじわるくぎゅっとつまんだ。
「痛い!……。わかったから早よして……」
昌巳の声が大人しくなった。
(ふ……ちょっとびびったらしいな。この手のでたらめは医者の特権だ)
下半身の消毒を終えて、金は昌巳の細い足に半ズボンを通した。
「さて」
続いて金は、昌巳の手首に点滴の針を手際よく打ち込むと、輸液速度をちらりと確認し、診療台の横にパイプ椅子を寄せて腰掛け、昌巳の顔をのぞきこんでにっと笑いかけた。
「寝てていいぜ。腹減ってるかも知れんが、点滴終わってからでいいだろ」
昌巳はそれには返事しなかった。
「……どうするつもりや?」
昌巳は天井を見つめ、金の顔は見ない。
「あ? ……うーん。血液検査の結果待ちだが、まず間違いなく梅だな。抗生物質の連続投与。大概一ヶ月もかからずきれいに治るよ」
「そういうことやのうて」
今度は、昌巳は射るような眼差しで金の顔を見た。苛立ったような口調だった。
「ん?」
「俺金持ってない。治療代なんか一銭も払えへんで」
昌巳の声には悪態をついている時のような元気はなかった。
「何だそんなことか」
金のとぼけた口調に、昌巳はちょっと首を持ち上げて次の言葉を待った。金のごつい手の人差し指が、昌巳のへその下あたりを軽くつつく。
「きれいさっぱり治ったら、このからだで払ってもらうさ」
一瞬の沈黙があり、昌巳の頬にさっとかすかに朱が差し、続いて眉間にしわが寄った。
「……お前……絶対ビョーキ感染(うつ)したるからな」
金は思わず吹き出し応じた。
「カカカ、その時は甘んじて感染されてやろう。俺の腕が悪かった報いだからな」
昌巳はもう憎まれ口を返すことはせず、そのかわり顔を金の反対側、診察室のドア側に向けて、金には表情を見せなかった。
昌巳が眠りに落ち、再び目覚めて朧な意識で頭を振った時、突然間近に大声を聞き、驚きにからだを硬直させた。
「起きたか! あ、すまんおどかしたか」
昌巳は目をしばたたき首を振った。
「ううん……ここどこ?」
どこか甘い眠たげな少年の声だった。
「俺の寝ぐらだ」
金の家は彼の診療所の真上にある。つまり、古いエンピツビルの三階で、当然敷地面積は診療所と全く同じだ。
「下は診察ベッドがひとつきりでな。悪いが寝てる間に勝手に動かした。いたずらはしてないから安心しろ」
「……脳みそ腐ってんのちゃうかホンマ……」
運んでくれたことに対してなど、珍しく礼の言葉の一つも口にしようかという思いが、ちょっとは脳裏をよぎった昌巳だったが、表情一つ変えないままの金の軽口に文字通り閉口して顔をしかめた。
昌巳は、陽に焼けた畳の六畳間に敷いた布団に寝かされていた。
「腹減ってるか。おでんと……米の飯だけはたっぷりあるが」
昌巳は自分のものでないかのように、腹を触って、
「後にしてええ? もうちょっと寝てから……」
と答え、金の顔を窺う。
「好きにしなよ。点滴に栄養も入れたから、腹減った感じがしなくても不思議はない」
うん、と小さくうなずき、昌巳は目を閉じ、再び眠りに落ちていった。
――――
「先生! 先生!」
「どうした!」
階下の診療所に下りていた金は、戻ってきた自宅のドアの中から聞こえた昌巳の声に切迫したものを感じ、玄関のドアを乱暴に開けて部屋に飛び込んだ。