昼行灯にご用心 1
ダークブルーマイカのトヨタウィンダムが駐車場へと静かに滑り込む。 3.0リミテッドエディション、品川ナンバー。 運転手はその車にイヤミなほどに相応しい。 きっちりと几帳面に纏められた髪は漆黒のぬば玉。 キメの細かい色白の肌に卵形の輪郭。 きりりとした義経眉に、うすい二重瞼、こげ茶の瞳。 すらりとした鼻筋に引き締まった唇。 春先に相応しいごく薄いグレイのスーツ、モーブのシャツにイエローベースのタイ。 胸元には清潔な純白のチーフがほんの少しだけ顔を覗かせている。 吐く吐息も芳しそうな、中々の美青年である。 世の人々は彼のような種族をこう呼ぶ。 「ヤング・エグゼクティブ、若しくはヤング・セレブ」 と。 しかし、彼はそうではなかった。 ハンドブレーキを引き、鍵を捻り、車を完全に停止させる。 シートベルトを抜きつつ、チラ、と腕時計を見れば時刻は午前八時丁度。 シートを軽く後ろに引き下げ、大きく息を吐く。 パシパシ、と小さく頬を叩いて気合を入れると「戦闘開始」 と小さく呟いた。 春眠暁を覚えず、と言う故事はこの男には余り通用しなかった。 年中暁を覚えずじゃないですか、と秘書は言う。 朝寝朝風呂、朝酒が一番でと言うじゃないかと言えば「自堕落の見本市ですね」 と切り返された。 怜悧そのものの見かけの通り、この秘書は実にクールだ。 ……が、結構苛め甲斐があるので、今のところ、大変気に入っている。 かくて、大石 吾郎、某県地元企業社長35歳の朝は、秘書、青山 真(しん)29歳のちょっと冷めたモーニングコールによって始まる。 シャッとカーテンを開ける音で目が覚めるのはここ半年ほどの習慣だ。 青山は雨だろうと嵐だろうと、部屋の換気を怠らない。 多分彼自身の習慣なのだろう。 それからおもむろにバスルームに湯を張る音。 そして台所のテーブル上にドサリ、と朝食のモトか、仕事のモトがおろされる。 彼が少しずつ動き回る音を聞きつつ、ベッドのシーツを捲りに来るまでのこの僅かな時間が大石の密かなお気に入りだ。 目覚めはそんなに悪い方ではない。 しかしこのカタブツ秘書をどうやって困らせてやろうかと考えるのが最近の楽しみなのだ。 ……かなりの悪趣味ではあるが…。 パタパタとスリッパの音が近づいてくる。 ベッドの足元で軽く呼吸を整えるのが彼の癖だ。 自分の様々な奇襲をシミュレートしているのだろう。 そして大石もどうやって彼をからかおう、と布団の中で算段をする。 最初は驚愕の悲鳴をあげていたものだが、最近は…もうない。 呆れたようなため息を落とすだけだ。 そりゃ…ご立派な成人男子が素っ裸で長々とベッドに寝転がっているとは普通、この日本では余り想像しない。 しかも元気なご子息がムックリと頭をもたげている事もしょっ中だ。 中々に精悍で男前の社長と言えど、ご子息ムックリを見て喜ぶ男性秘書は滅多に居るまい。 彼はアクマでビジネスパートナーであり、恋人ではないのだから。 そして彼の仕事のやり方に慣れれば慣れるほど、恋人志願の気も失せる、と言うのが青山の意見である。 「社長、朝です! 今日は桑原鉄鋼さんと九時にパレスホテルで打ち合わせです!」 言いながらバリバリベリと布団を引き剥がす。 そして即座にバスローブを投げつける。 ご子息めがけて、である。 大変ご立派で自分と比較するだけでもコンプレックスのモトであるから、朝っぱらからしげしげと眺めるものでは、ない。 これで大抵はベッドに引きずりこまれる災難は逃れられる。 最初の頃は何度となく引きずり込まれ、セクハラまがいまで受けたものだが。 そう、好き嫌いは別として、彼と社長の仲は今現在”A抜きでBまで”である。 不覚にも自分も昂ぶらされ、抜かれること3度、ヌイた記憶はないのだが、同時に大石もイッてしまったこと3度と回数も合致する。 それも出勤初期の苦い思い出である。 青山は、よくぞあの時に辞めなかったものだ、と少し逞しくなった自分に…複雑な気分だ。 「桑原サンちは今日だったか?」 バリバリと頭を掻きつつ、放られたバスローブを羽織りながら普通にベッドから起きたのにまず一安心をし、チラリと彼の引き絞まった背筋に目を走らせる。 「お得意さまとの会議を忘れるほどお楽しみだったみたいですけど今日ですよ」 シッカリハッキリと刻まれた引っかき傷は昨日の朝にはなかったものだ。 また、昨夜は何処かの女性とアバンチュールを愉しんだに違いない。 「ふあーあ。妬いてくれんの? それが昨日の奴は自分ばっかイキやがってよ。俺としてはかなりナエナエでご不満ちゃんなのよ。青山くん、慰めてくれる?」 朝イチから、と眉をひそめつつ、5メートル以上の距離をキープし、冷ややかにバスルームを顎で指し示す。 「沸いてますから、どうぞごゆっくり、ご自分で」 ローブを肩に引っ掛けたまま前もしめず、ブツブツと文句を言いつつ風呂場に入る後ろ姿を見届けてから、カウンターに入った。 家政婦さんが作ってくれているスープをあたため、コーヒーをたてる。 薄切りにしたパンは大石が風呂から出てきてからトーストだ。 郵便受けに放り込まれた新聞その他を分類し、いらない物は即ごみ袋へ。 必要と思われるものは開封のみして、彼のベッドサイドの机の上に置いておく。 社に持ち帰った方が良さそうなものは全て軽く目通しをして、自分のブリーフケースへ直行。 この男の書類処理能力のなさはここ半年で身に沁みるほど叩き込まれている。 それゆえ、自分が秘書として求められているわけなのだが…。 風呂場のドアが開いた音を確認して、トーストをオーブンに入れ、コーヒーをカップにうつしておく。 冷蔵庫からワインのハーフボトルに入れられたミネラルウォーターを取り出し、これも大き目のグラスに入れた。 大石はフテブテしい見かけに反し、僅かな猫舌の上に知覚過敏ときているのだ。 そのまま寝室のクローゼットを開け、今日のスーツの組み合わせをサッと出す。 社長の癖に、量産店での吊るしを平気で着ていた半年前とは違い、今はある程度のブランドものや、オーダーで仕立てられた質の良いものが整然と並んでいる。 180センチを超える身長に、学生時代はバスケットで鍛えたと言う筋肉質で引き絞られた身体は、今も時折通っていると言う3on3のお陰で健在だ。 眉もキリリと引き締まり、ヒゲを当たればイヤミなほどの男前だろうに、敏感肌とかで、朝、風呂上りにでもヒゲを当たっているのを、青山は見た記憶がない。 彼がヒゲを当たるのは決まって夜だった。 大抵そう言う日の翌日は香水くさかったり、引っかき傷が背中にあったり、なのでヒゲ剃りの目的は一つ、である。 チナミにヒゲを当たった社長のビジュアルは…野性的で精悍な…良い男である。 得意先との商談でも平気で無精ひげで出て行くのだから驚きだ。 もっとも、大抵は相手もソレに慣れているし、気取らない大石の性格を知っているので上手くいっている。 初対面の相手にすら、ショッパナから無精ひげでヨレヨレで出向くのだから始末におえない。 相手も最初は呆れているが、段々大石のキャラクターが掴めて来ると何も言わなくなってくる。 ある意味自分のしたい放題にやらせて貰えるのだから一種の人徳者と言えるだろう。 今日もまたどうせ着崩すであろう濃紺のスーツに軽くブラシをかけ、玄関に出向く。 これも安物を履き潰していたと思しいものはもう払拭され、ハンドメイドのイタリア製がズラリ、と顔をそろえ、出動を待ちかねている。 全て青山の見立てによるものだ。 最初、服装にクレームをつけた青山に大石はこうのたもうたものだ。 「俺そう言うのわかんねーもん。金なら出すからお前さんが選んでくれよ」 普段着を見ても配色センスなども悪くないのに、そう言って人任せにしてしまう。 結局1週間、商談ごとの休憩時間で社長を連れ回し、オーダーを10着、既成の吊るしを20着誂えた。 これから季節が変わるので、また、そろそろ誂えが必要になるかもしれない。 しかしそんな青山の苦労もドコへやら、ピシリ、とネクタイが締まっているのは玄関をでる時と、デートの直前だけ。 大抵会社の玄関に着いたらもう、だらしなく歪められている。 「おおおーい、シンよう、パンツがねぇぞおー!」 間の抜けた叫び声にビクリ、とこめかみを震わせながら寝室に引き返す。 ベッド下の引き出しからブワッと飛び出すビキニの一つを掴むや、ズンズン、と風呂場に向かった。 「ありゃ、こんなのあったっけか。結構過激なのが好きね、シンちゃん」 黒のビキニに赤のラインが微妙に効いたものを履く社長に、青山は怒り心頭の声をぶつける。 「秘書にパンツまで風呂場に持ってこさせる社長が、どこの世界にいるんですかっ!」 わなわなと怒りに震える余り、つい、隙が出来てしまう。 当然、大石がコレを見逃すワケがない。 「あらーっ、そんな怒るなって、シンちゃん。おおう、君はシャツとお揃いのモーブのシルクかね。セクシイだねぇ…」 ハッと気づけば、社長の頭は……自分の股間で停止され、何と…スラックスの前たてを開帳した挙げ句、チュッチュッと音を立てて…… 「はーい、おはよー、ジュニアシンちゃん。パパは今日も美人なんだけど不機嫌なんでちゅよー」 パカッと2本指で開けられた前たての隙間からショーツ越しにバードキスをされてしまった青山である。 「だーーかーーらぁぁね、ジョークだって、シン。そんな拗ねるなよ、男前台無し」 朝1の商談終了後も決して必要以上の事には口を開こうとしない青山の機嫌を取ろうと、大石はそれなりに声をかけてくれる。 青山とてあまりに大人気ないのは解っているのだが…正直、今朝のような冗談は反応に困るとしか言いようがない。 特に派遣社員と言う自分の立場上、どこまで怒りを表していいのかが問題だし、派遣元にセクハラ相談をしてもマトモに聞いてもらえるとも思えない。 青山は現在29歳。 大学を出て4年間、株式は一部上場企業に勤めていた言わば、エリートサラリーマンである。 在学時に何となく気が向いて取った秘書検定を買われ、人事部に滑り込めていたのだが…3年前に呆気なくリストラされた。 直接的ではないにしろ、リストラ候補になった原因は心当たりがある。 ……上司との恋愛トラブルだ。 普通はソレだけでリストラ対象になったりはしないはずだが…これも不況のなせる業なのか、相手が悪かったのか…恐らく後者であろう事は間違いがなさそうだ。 青山はゲイだった。 好みのタイプはバリバリのエリート。 若干35歳で人事課長に上り詰めた彼との付き合いはとても楽しかったハズだったのに…彼と社長令嬢との結婚話が出た途端、ケンもホロロに捨てられた。 今思い出しても笑ってしまうくらい見事に、ミジメで、呆気ない失恋だった。 結局、都会での生活に見切りをつけ、地元にUターン、地元派遣企業に拾い上げられ、ここ3年ほどは秘書の資格を生かし、派遣社員生活を送っている。 大石の会社に派遣されるまでは半年単位であちこちの社で雇ってもらい、大分秘書業務に慣れ、どうにか余裕が出来始めていたのだが…。 こうまでお粗末な仕事は全くの初めてである。 今までの企業が外資系などで、資本の大きかったことなどを考えれば多少業務が違うのは仕方がないだろう。 もともと大石の会社への話が出た時点で、多少今までとは心がまえを入れ替えねばならないのは派遣元も自分も納得の上で引き受けた物件だ。 なのに、朝1で社長をたたき起こし、得意先との商談すら平気でスッポカシかねない男にまるで手綱をつけるように1から10まで面倒を見。 自分のもう一人の上司に当たる人事課長はマサに青山好みのクールなエリートなのだが、何しろ社長の大石の面倒を見るので手一杯なので…じっくりと話をする暇すらない。 出張とあらば切符とりから場合によっては出先に同行し、書類処理を全て代理決裁までやらねば……本当にこの大石と言う男はザル勘定でしか動かないのだ。 これで会社が黒字で立ち行くのが不思議でならない。 この不景気に夜の接待もバンバン落とせるのは…まぁ…どんなに制限を忠告しても「シミったれたつまらん接待はしたくない」との大石の主張で呆気なく退けられてしまう。 確かに得意先には喜んで貰えるし、そんなに数をこなすワケでもないのだから、そう目鯨を立てるほどのものでもないのは事実だ。 ただ…、コンスタントだとか平均的、と言う言葉があまりに当てはまらないので予測がつかないのには、困らされてしまう。 出勤初日に前任の秘書から 「まずは社長の自宅にお迎えに行って……起こしてきてください」 と言われた衝撃は未だに脳裏に強烈に焼きついている。 その上、セクハラ紛いの低次元の格闘が毎日だ。 ハッキリ言ってヒゲのない社長が好みのタイプでなければ、続いていなかったかもしれない。 しかし、過去の傷でコリた青山は、恋愛感情をハナから切り捨てているので、今や社長のセクハラは拷問でしかあり得ないはずなのに…結局軽く流せてしまう。 大石にはそう言う、気分を重くさせない何かがあるのは違いないだろう。 にしても、ここまで続けられた自分を褒めてやりたい、と青山は吐息をついた。 社会勉強と割り切り、半年の辛抱だと思っていた青山に思わぬ話が沸いたのはつい最近だ。 「いや、君の精励ぶりに先様も非常に喜んでくれてね、あと2年ほど引き伸ばして欲しいって仰るのよー、しかも、何と。ボーナスもつくんですって! 給与も今までの3割マシにしてくれるって言うしウチにそれなりのペイはくれるって言うし。是非。是非続けて欲しいのよー、青山くん、お願いよ、ウチとしても君のスキルが勿体無いって少し売り惜しみしたらさぁぁこんないい条件つけてくれたし、断れなくって! しかも今後事務員とかも雇ってくれるって言うじゃなーい、もうもう。お願いよ、暫く頑張ってくれないかしら? ウチみたいな弱小派遣にはもう願ってもない話なのよぉぉ!」 と、派遣元の社長自らに頭を下げられたのでは仕方がない。 この派遣会社は、大学のサークル時代の先輩が経営しているものだ。 オネエ言葉とナヨナヨとした動作、ヒラヒラとした服装は本人の嗜好であり、立派な妻帯者である。 が、同性愛者に対する偏見と言うものがどこか頭のネジが抜けているかのように、全くない人でもあった。 青山の経歴だとか性癖にも目を瞑って入れてくれている…と言うよりは、頓着していないようだ。 だからこそ、余り頭が上がらない。 結構有能な人材を集めていて、大手の会社との取引も多いようだ。 …結局クビをタテに振らねば、自分のメシの種に事欠くのは、あきらかだ。 そうして、半年のはずの契約は、延長となり、今日で7ヶ月目に突入したばかりなのである。 確かに大石のもとでの仕事はやり甲斐があるし、嫌いではない。 やり甲斐がありすぎるほどだ。 自分の後任者は一体どうするのか、不安だったのもあるし、かなり問題があるとは言え、自分の感情を必要以上にセーブする必要のない大石のもとでの秘書業務は…実は精神的には楽だと言うのが本音だ。 ゲイと言うのを取り立てて隠す必要がないのも、ありがたい。 ……と言うより、それを言及されるような場面が一度もなく、逆に社長にセクハラを受けて悩んでいるくらい、と言うのは……滅多にないだろうと思う。 いずれにせよ、大石がいつも本音で接してくれるから、自分を必要以上に飾る必要が無いのだ。 彼自身、いつも 「俺がよ、社長でゴザイって言うようになったりよー、書類捌くのが名人だったりしたら今ごろこの会社はねーと思うぜ」 と、言っているくらいだ。 しかし、青山が以前社員に聞いた噂では、会社起業までの3年ほどは、大卒早々凄腕サラリーマンとして名を馳せていた…らしい…のだが。 彼の知る大石に、その影は微塵もない。 ただ、社長としては傑物だ。 物事を判断するジャッジ能力も冴えているし、第一、人を見る目が鋭い、と青山は思う。 ……それはそれで良いのだが、もう少し位は書類決裁だとか世間体とか常識も覚えてくれたら…と言うのが青山の今の彼に対する、切実な願いなのだが…。 自分の性格の欠点も知り尽くしているので、会社の中には青山の事を快く思っていない社員もいる事は解っているのだが、大半の社員は至極人格者であり、青山にもごく、普通に接してくれる。 だから会社としては非常に居心地が良い、と言える。 派遣元にしても、会社規模の割に金払いが良い上客なので、一部上場のように、社名に拘りがあり、実際には必要以上のスキルを求め、払いも渋い会社よりはこっちに良い人材を回したい、と社長が言うのも頷ける。 スキル不足の社員にスキルをつけて返してくれて、挙げ句金払いが良いのなら、それは当然だろう。 大石には万事そう言う事を気にしない、懐の深さがある。 時にそれが…大雑把すぎるだけなのだ。 社内の雰囲気と言うか、人間関係が円満なのは、これは大石の薫陶と言うのでなく……多分、社員全員の「あのアホ社長をどうにかして養ってやらねば」 と言う、一種の義務感のようなもので成り立っているのではないか、とこれは、大石の幼馴染である人事課長の名言である。 「おう、シン、そう言えばお前、契約延長OKしてくれたんだってな。やっぱ、魅力的な俺からは離れられなかったんだろう、え? よしよし、今日はお前の好きな懐石を奢ってやっからよ、機嫌直せって、な?」 まるで彼女の機嫌を損ねたナンパな学生のような事を口にして、大石はポンポンと青山の尻を二つ叩いた。 「ですからっ! もぅっ! 私は女じゃないんですからっ!」 さすがに得意先を目の前にしていつものようなビンタを食わせるワケにもいかず、ニッコリと微笑をしながら視線にトゲを含ませると、トンチンカンな返答が帰ってくる。 「おーう、とんでもねぇぜぇ、女のケツとお前のケツの良さはまた、別。こう、キュッと引き締まっててよー、小ぶりで形も良くってよう、つい、な、その鷲づかみにしてアンアン言わせたくなるむが、むがががごが!」 良く通る声で朗々と物騒な事を喚く大石の口に、目の前に出ていたシュークリームを押し込むと、得意先が失笑しているのに笑顔で詫びる。 「大変だね、シンちゃんもー。しかし相変わらずゴローはアンタの事が大好きなんだねぇ、どう、シンちゃん。この際、そろそろ奴のブロポーズ受けてやったら? 奴もそろそろ年貢のおさめどきだ、嫁さんに来てもらったらオッカさんも安心するだろからよ」 などと軽口を叩いてくるのをすいすいとスルーし、契約書を取り出し、ハンをつかせ次の得意先へと車を駆る。 「いつもご苦労だね、ま、ゴローもだけど君のキッチリした仕事はウチも評価してっからさ、精々引き立ててやってよね」 と軽く褒めてもらえるのが、目下青山の励みとなっている。 セクハラ絡みの発言で減点が多いとは言え、大石の先ほどの契約延長に対する感謝の言葉も何となく心地よい。 「懐石、どこにする? お前あんまスシ食わねぇしなぁ…ワンパだけどいつものとこでイイか?」 時折ご相伴に預かる馴染みの料理屋の名を言うと、携帯をピッピッと押し始めた。 アレルギーがあるので寿司が嫌いではないのだが、用心している青山の事なぞはしっかり頭にインプットされているらしい。 予約を取らないと中々行けないので、携帯を押しているのは確認だけでもするつもりだろう。 お得意だからと言って相手に無茶を言う事、言われる事を大石は酷く嫌う。 抜けているところも多いがこう言った気遣いが出来るのは、大人の証拠だ。 後部席から声をかけてきた大石に、今ばかりは感謝の微笑と共にやっと、この言葉をかけられるのが、最近、案外心地よい青山なのだった。 「お任せしますよ…、ありがとうございます」 しかし、この後の発言は…矢張り彼の彼たる所以であろうか。 「おうっ、任せとき! ひっひっひっ、じゃー、2組お床つきって事で…取れるかなー」 美貌の派遣秘書青山、彼の苦労はまだまだ続きそうである。
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