昼行灯にご用心 2



 ガタガタと下駄箱にもたれ掛かり、青山は必死に足を踏ん張った。
「……社長! こんなっとこ、でっ! ちょっ…もうっ!」
 決して非力ではなく、細身の見た目の割りに筋力はある方だ。
 今でも週に一度は空手の道場での鍛錬を欠かさないのだから。
 けれども、一気に70キロ近い体重がのしかかってきては、60キロ代の自分では中々自由に身動きが取れない。
 酒精を含んだ吐息が耳朶にかかり、一瞬、不本意にもゾクリ、とする。
「………ん……し…ん……嫁に…なれ……」
 甘い、そのくせ、低い声で囁かれると、勘違いをしてしまいそうだ。
 恋人でもなんでもないのに。
「っと…にっ! 俺は、女じゃ……ありまっ…せん!」
 重さに必死に耐えながら無駄な抵抗をあきらめない。
 体重が不安定にかかった途端、まわされた大石の手が、青山の尻をわし掴みにする。
 掴んだものを、無意識にいやらしい動作で揉み込むのに、重みに耐えるのに必死で、もう、抵抗すら出来そうにない。
「やめってっ! くだ……さいっ!」
 重みに息を上げながら、言葉だけの抗いをするのだが。
「ほんっと……おめー、いいケツしてんなぁー、こんなイイ尻、滅多にねぇんだぜぇ」
 しみじみと呟かれ、それどころでない青山は、抵抗すら出来ず、もう、大石のするがままに任せていた。
 
 せめて尻でも掴んでいて貰わねば、このまま力を抜かれてはおしまいだ。
 いやらしい動きで揉まれているのは不本意だが、70キロの塊を抱きかかえてベッドに投げ込む自信は、ハッキリ言って、ない。
 バーベルなら100キロでも上げられるが、脱力した人間は持ちづらいことこの上ない。
 性懲りもなく揉まれる尻は、段々いやらしさとキワドさを増し、仄かに芯に火が灯りそうだ。
 しかし、無理やりそれを押さえ込み、青山は大石にまわした左腕に力を入れなおし、必死に彼の意識が途切れぬように声をかけ続ける。

 とにかくベッドには放り込まないと明日に差し支える。
 晩夏とは言え、朝夕は涼しくなってきた昨今、フローリングの上に全裸で寝たら風邪をひくこと間違いなしだ。
 仕事に差し支える事態は前もって予防するのが自分の責務。
 責任感の塊のような青山に、このまま大石を放置するなどと言う想定は、到底、浮かばない。

 今日は年に一度の同業種交流会だった。
 久々に顔を合わせる人もいるし、男気のある大石の性格は人気が高く、また、酒豪の彼が注がれるものを拒むことは余りない。
 社長連中は一癖も二癖もある連中が多いのだが、若手のジュニア世代に仲の良い連中も居て、年輩のお歴々からは早々に逃れ、その連中と気持ちよく杯を交わすのは、大石にとっても楽しみの一つらしい。
 まぁ注がれた倍以上に相手に注ぎ返してはいるだろうから、今ごろお相手は道端で寝転がっていなければ良いのだが…。
 青山もその煽りでしたたか飲まされているのだが、ザルなので、ちっとも酔ったと感じたことがない。
 酒豪だと自他共に認める大石でさえあきれ返るほど、どんなに飲んでも素面の時と代わり映えがしない。
 稀にこう言う人間が居るものだ。
 なので、お守り役として仕事がらみの酒席に大抵は同伴しているのだが、ここまで大石が鯨飲したのは初めて見た。
 余程その友人たちとの再会を楽しみにしていたのだろうか、と思う。
 確かに彼らは気分もよく、大石の気性によく合った人達であったし、青山も心証良く同伴できた。
 気さくなようで、大石は存外、一本気で気難しいところもあり、人の好き嫌いがハッキリしているタイプだ。
 まあ、大石のみならず、余程気を許した相手でなければ、こんなになるまで気持ちよく飲むことは、滅多にないだろう。


「ほら、靴は脱いで! 段差がありますよ、、右足上げて、つぎ左、はい、しっかり!」
 ベロベロに酔った男に叱咤激励を繰り返し、どさくさに紛れて度を越す接触を繰り返す大石の右手を払いのけながら、ベッドの側にたどり着くまで3分はかかっただろうか。
「は…っ…はぁ、とりゃっ!」
 上がる息を整えて、気合一声、セクハラの仕返しとばかりに、ベッドに投げ込んだ。
……と言うよりは…捻じ込んだ、と言った方が正解かもしれない。
 高校時代に必修クラブで柔道を選択したのが、ここで役立つとは思わなかった。
 空手の道場には今でも定期的に顔を出しているのだが…。
 まぁ、今でも真似事とは言え、相手を投げるくらいは出来るのだ。
 微かな開放感が胸に心地よい。

「……ってぇぇ…シンちゃん乱暴! もっと優しくしてっ……」
 妙な声色を使っている所を見れば、酔いが醒めてきたのか。
 となれば、撤退は早いほうが良い。
 中途半端に尻を揉みこまれた余波に煽られ、少しアブない感じの我が身を悟られでもしたら、4度目のB体験は必至だ。
……それだけは勘弁願いたい。
 酔っていないつもりでも少しは酔いが回っているのかもしれない。
 身を翻し、さっさと帰ろうとしたところに注文が飛ぶ。
「水…くれ、シン」
 眠りかけたような声で呟くところを見れば、ベッドの感触に安心して眠気が差してきたようだ。

 ため息をつきつつ、台所で水を汲み、部屋に戻れば、それでもジャケットとシャツ、ネクタイはどうにか脱ぎ捨てていた。
 苦心惨憺してベルトを抜き取っているのを横目で見ながら、
「お水、おいておきます」
 と逃げ腰の青山に、チラ、と流し目をする。
「………水?」
 少しうるんだ瞳で凝視する様は、いつになく、子供じみたような表情だ。
 ガチャガチャとバックルをどうにかして外そうとする方に集中して、自分が水を頼んだのも忘れていたようだ。
 するり、と落ちたベルトに安心したのか、フラフラと手を振りつつ、
「……飲ませて……もー疲れた……」
 甘えたような声で目を閉じてしまう。
 女性ならこれに母性本能を掻き立てられ、一夜の情事になだれこみもしようが、相手は青山である。
 酔っていても悪ふざけは忘れないと見えた。

「ムダ口叩ける余裕があるなら、ご自分でどうぞ!」
 つっけんどんにグラスをベッドサイドに置こうとしたら、無意識に手を延ばしたらしい大石の手にぶつかる。
 途端、グラスの均衡が崩れた。
「わっ!」
「あ?」
「あ、わ、わ、わ…」
 それでも青山はグラスを追いかけ、器用にキャッチはしたので、バカラ エンパイヤのトールグラス数万円、は無事であった。
 何もたかが水にそんな高いグラスを出さなくても良さそうな物なのだが、大石はこのグラスがお気に入りらしいので…よく使うのだ。
 水はほとんど人間にのみかかり、大石と青山は結構、ズブ濡れになってしまった。
「ちべてーっ! あーあー、パンツぐしょぐしょ…んだ、こりゃ、アソコが風邪ひくぜー」
 何の具合か、局所に集中的にかかった水が、大石の股間で小さな水溜りを作っている。
「すみません!」
 青山は慌てて側にあったバスローブを被せ、パンパンと叩き込むようにして水気を取った。
 自身もかなり被害を被り、ジャケットがビショ濡れなのだが、まず大石を気遣う辺りが、お人よしだ。
「おい、おっ…ちょっ……ぉぃ……そんな…た…たくなって」
 大石の珍しく焦ったような声に青山は構わず、スラックスに走る水滴を拭うように擦った、途端。
 目の前の生地がじわっ、と盛り上がる。

「え…あっ!」
 青山の拭いていた箇所は、男性の一番大切なところで…そして適度の刺激を無意識にしてしまった訳で……。

 自然の摂理には逆らえまい。
 大石は悪くない……多分。


「シン……お前…大胆なんだか天然なんだか…」
 ため息をつきつつ、大石は諦めたようにその成長を放置した。
「どーしてくれる、カンダチじゃんか」
 青山はバスローブを持ったまま口を軽く開け、驚愕の表情で固まってしまっている。
「申しわけ……ありま…せ……」

 過去、3度抜いて抜かれたとは言え、あのときはまだ新人で。
 しかも体勢は背中越し。
 溜まっていたとは言え、ああも立て続けに抜かれたのも初めてなら、相手の顔もみず、擦りあいだけで抜く、なんて言う乱暴なシチュエーションも初めてで。
 オマケに大石の申告によれば、彼自身も同じ数だけこなしたと言うのだが……それもナンだか納得がいかない。
 未だにその時の記憶は曖昧だ。
 本当に、何でああいう事になったのか、すら、未だにハッキリとは思い出せない。
 とにかく、混乱していたから記憶が定かでないのだ。
 だから、行為のうちに数えなくとも差し支えないようにも思う。

 そしてショーツごしどころか現物がモッコリと屹立しているのも、時折朝方拝めはしても…それは完全に…と言うワケでもなく…。
 今までの様々な事柄を考えれば、考えるほど、今更大石の破廉恥なナニ程度で恥らう要素は確かに少ない。
 が、しかし。
 直接、また、今回は事故とは言え、自分が大石のソレを……そう言う風にさせてしまった、のは…ほぼ半年ぶりなワケで…。
 そして常人程度の羞恥心を持っているのなら…恥ずかしいのは当たり前なわけで……。
 耳まで赤く染め、でも取り敢えず詫びの言葉が出る辺りは、秘書根性が身についていると言うべきか、それともお人好しなのか。
 多分後者であろう。
 そんなに大した力で叩いたわけではないのだから。
 その程度でそうなる状態に大石が既になっていた、とは考え付かない辺りが鈍感なのか、純情なのか。
 やれやれ、と言った風情で酔いの醒めたらしい大石はスラックスを勢いよくずらした。
「おい、シン、お前もかなり…腹と…ケツんトコ、濡れてるぞ? 早いトコ脱いじまえ、カゼひくぜ?」
 大き目のグラスになみなみと冷蔵庫で冷やされた水が入っていたのが全部ひっくりかえったのだから、ベッドが無事だっただけでも良しとしたいところだ。
 大石がスラックスを床に放り投げた途端、物凄いものが現れる。
 ひっ、と小さく悲鳴ともつかないものを漏らした青山の視線の先をチラッと見た大石はニヤリ、と笑みをためた。
「あ? はは、コレだったか」

 蛍光色である。
 黄色である。
 ビキニのソレにテントが張って、マサに形は帆掛け舟。
 暗闇に、大石の股間でピカピカと光る蛍光黄色の帆掛け舟。


 音を立てる勢いで青山の顔が真っ赤に染まり、凝視していた自分に気付くや、慌てて、顔を背ける。
「なっ………なっ…なんて物履いてるんですかっ!」
 驚きの余り、声が裏返ったが、それくらい驚いても無理はない光景だ。
 真っ暗闇に、男の股間で無邪気に光る蛍光黄色の帆掛け舟なぞ、ゲイ歴の長い自分でも聞いた事も見た事もない。
 悪趣味以前の問題だ。
 現物そのものより余程、ワイセツだ。
 しかし、大石の言葉は青山を余計混乱させる。

「なんてものって…これ、お前が買ってくれたんだぞ? っと、やれやれ……っしょ、っ……」

 枕もとのティッシュを引き寄せるや、数枚抜き取り、ビキニをずらし、事もあろうに、自分の目の前で……扱き始めた大石は、恥ずかしげもなく、言葉を続ける。
「あ、目、そらすなって。勃てた張本人なんだから責任取って付き合え。それに。見られた方が早く済むから。コレな…昼見たら……っ、白いっつか、薄いグレイなわけよっ……ふんでっ……こないだぁ…こら、目、そらすな! 飲みに出たっ……ときっ……飲み屋で…な……バツゲームでっ……脱いだら……こんなでさ……っうっ! …ホレ、先月、出張で急に泊まり入ったときにっ……お前、デパートでっ……買ってくれたやつっ。この生地、夜光塗料…の…はいってる……糸……織り込んでるんだ……とさっ、くっ! ふっ、うっ! うぃ…すっきり、はい、お疲れ、もういいぞ」
 理不尽とも言える命令に逆らう暇もなく、つい、凝視してしまった青山の脳が思考回路を停止しているスキに大石は始末を終えた。
 クシャクシャと処理済ティッシュをゴミ箱に放り込む。

 目の前で大石のオナニーショーを見せ付けられ、しかも、悪趣味そのものの下着を何の手違いか、自分自身が購入した物だと知らされ。
 そして、理不尽な命令に従って、大石の行為をバカみたいに見つめ。
 青山はもはや、脱力感以外に何も感じなかった。
 酔えない筈の酔いが一気に回った気になる。
 証拠に、下半身にゆるく熱が籠もってきている。
 大石にアテられたんだろうか?
「……うそ……」

 涙目になりそうになりながら、床にヘタりこんだ青山を困ったように見た大石は、ちょっとだけ勘違いをして、青山の髪をくしゃくしゃとかき回した。
 床にたまっていた水たまりの上にしゃがみこんだらしく、じわじわと水が尻に染みてくるのが…情けないやら気持ち悪いやら。
「ウソじゃねって。ま、ワザとじゃねーんだからそんな落ち込むこともねーぞ? たかがパンツじゃねーか。お前もまさか、こんなのデパートで売ってるとは思わんだろうからよ」
 まったくだ。
 自分の物は普通のブリーフを買っていたので、気づかなかった。
 まさか高級デパートたるものが、ビキニとは言え、こんな悪趣味な下着を売っているなどと考えるほうがおかしいに決まっている。
 しかし、今の大石の慰めは少しばかり的外れで……、それを指摘する度胸もないし、現在自分の体に起こりつつある事実を認めるのもゴメンこうむりたい。
 青山はもう、何と応えて良いか、解らず、フラフラと立ち上がる。
「……失礼します……」

 呆然としたまま、無意識に大石の着衣を片手に集め、クリーニング用の籠に放り込み、自分のスーツの濡れをあらかた取ると、きっちり大石宅の戸締りまで済ませ。
 どうにか自宅に辿り着いた。
 かなり飲んでいたので、アルコール臭が酷かったらしく、タクシーの運転手にイヤな顔はされたが、もう、それに配慮する気力もなかった。
 もはや、身に付いた習性のみで帰宅してのける辺りは、大石の強烈な個性に慣らされた薫陶なのか。
 それとも秘書根性のなせるワザなのか。
 多分、これは両方なのかもしれない。


 朝は残酷だ。
 特に晩夏の朝方はすこぶる気持ちがいいだけに、寝起きが辛い。
 それでもパブロフの犬のごとく、五時半すぎには目が開く。
 これは勤め始めた頃からの癖みたいなものだった。
 と、青山は自分の下着に違和感を覚えた。
 おかしい。
 濡れたショーツは昨夜、着替えたはずなのだが…。
 と、すれば、男性で思い当たることは一つしかない。

 原因は昨夜の夢だろう。
 夢にまで大石が出てきたのだ。
 あげく……あーんな事や、こーんな事までされてしまい…。
 夢精なんて……十年振りくらいだろうか?
 自分のショーツが…性に飢えたハイティーンのごとく、実に情けない状態になっていると知ったショックは、かなりのものだ。

「うっそだろ……確かに……しばらくゴブサタで……タマってはいるかもしんないけど…こんな事一度も……」
 呆然と呟いたが、しかし、夢で散々……喘いだ記憶がないでもない。
 夢なんだからいいじゃないか、と、思ったものの。
 昨夜の大石の…恥知らずとも言える行為を見て、下半身がゆるく反応したのを覚えているから…だからこそ、やるせない。

 まさか…大石を好きなのだろうか?
 もう、会社関係の人間とは関わるまいとアレほど心に決めたのに。
 確かに大石は嫌いじゃない。
 外見的には凄く好みのタイプだ。
 だが、素直にスキだとか何とか…そう言う感情を持つには余りにリスクの大きい相手だ。
 仕事絡み…特に同じ職場の人間との恋愛は上手く行けばメリットは大きいが、破局のときのデメリットが余りに手痛いと言う経験を身に沁みるほどに解ったはずなのに。
 それらのリスクを振り払ってまで好きだの惚れただの…言うだけでもバカらしいのは自明の理なのに。

 今までそう思ってきていたから……それに無理矢理自制していた訳でもないし…本心から大石にはあきれ返る事も多く…しかし確かにキライではないし、尊敬できる面もなくはないが……。

 青山の思考回路は立て続けの衝撃的な出来事に対応できず、ショート寸前だった。
 しかも、哀しい男の性なのか、現実までオプションとしてついてきた日には、何と考えたら良い物か、サッパリ見当がつかない。

 ぶんぶん、と頭を左右に振り払い、風呂場に入り、頭から水を被った。
「………。そうだ。保留。保留にしよう」
 まとまりのつかない仕事は、保留にし、あとで思考回路が整ったときに整理する。
 それが仕事をこなすコツでもある。
 しかし、人間の感情にそれが通用できるとは限らないが、このままでは仕事にならないのは余りにまずい。
 考えようによっては、仕事ではないからこそ、忘れてしまえばその程度の気持ちだった、と言う事だ。
 時間が解決をすることもある。
 シャワーを、水から段々とぬるま湯に切り替えながら、青山はホッ、とため息をついた。

「ま、考えれば俺もまだ若いんだし。1年近くもゴブサタなら…しかも自分でそんな事するヒマ、ないくらい、忙しかったし。人に擦られてりゃ、気持ちいいから、そー、ヤなタイプじゃなけりゃさ、不覚にも3回イクこともありゃー、あんなの見せられたら興奮することもある、そうだよな」
 声に出すと、余計納得できる論理のように思えた。
 無茶苦茶だ、と、頭のどこかで解ってはいるけれど。
 そう納得してしまわねば、気持ちを棚の上に放り投げて保留にする事ができなくなってしまう。

 目下、一部上場企業を自己都合でヤメたと言う青山の言い分を信じている両親の居る実家の敷居をまたいで、お小言を被るのが、一番イヤで避けたい事。
 ならば自分に一番大切なのものは何かと言えば。
 それは今の一人暮らしに不自由の無い収入。
 仕事なのだ。
 金なのだ。
 これを干されてはモトも子もない。
 恋もへったくれもない。
 それに、自分が好きなタイプはアクマで身近な所では人事課長で。
 大石のような野生児タイプは……確かに男前だとは思うが、恋人にはしたくない。

 ミント系のボディーソープで体をこする内、何となく、気持ちもスッキリと爽快になってきた気がする。
 と、携帯に着信が入る音がした。
 朝早く、ダレだろう、と思いつつ、ザッと体をすすぎ、風呂を出た。
 水気を取って、取り敢えず、携帯のメールをチェックする。

「朝早く失礼。おはよう。社長に、急な出張予定が入ったのですが、当然、昨夜の状況から察するに、携帯には出ないと思います。時間に余裕がないので先に私が行って起こします。申し訳ないが、もし、このメールを見られている状況なら、すぐ、社長宅に来て、一緒に準備をしてやって下さい。私は現在、既に到着しています。ま、私で出来る範囲は、やってみるが…。羽田8時45分発伊丹着9時45分の全日空017便に乗せてから、私と一緒に出社して頂きたい。席は取ってあるのでよろしく。もし、気づかなければ、空港までは、私が連行しますので、直接定時に出社して頂いて、結構。ま、タマにはそれもいいかもね。では、よろしく。早乙女」

 簡潔に要領を得たメールのアドレスは人事課長のノートパソコンからのものだった。
 今、ちょうど5時45分と言うことは…身支度に10分、食事に15分、社長宅まで車で10分。
 6時半に社長をたたき起こし、30分で支度をさせ…7時にマンションを出たら多分高速はガラ空きとはいかないまでも…少しは余裕があるだろう。
 愛用のノートパソコンを立ち上げ、インターネットで羽田空港P2駐車場を素早くチェックする。
 今のところは空車表示だが…。
 一番混雑する時間帯だ。
 まぁ、大石も子供ではない。
 空港周辺でおろせばカウンターまでのチェックインくらいは自力で出来るだろう…が、人事課長がいてくれるのはありがたい。
 運転を変わってもらえば、取り敢えずカウンターまでは見送れるのだから。
 大抵、空港まで大石を送るときは自分も一緒に出張することが多いのだが、単身の場合は一人、余分に送迎についてきて貰うことが多い。
 ああ見えていても、分単位で何本もの仕事を並行でこなす事もあるのだから、チェックインまでは自分が同行した方が楽なのだ。
 トップセールスが多い大石には電話一本で仕事が飛び込んでくる事もある。
 パソコンはかなり扱えるくせに、管理の出来ない彼のデータでは、正確なスケジュールが立たない。
 その場に、青山が同席してさえいれば、スケジュールを見ることで、仕事の大抵の配分が立つのだ。
 大石のジャッジ能力の速さと、青山と人事課長の綿密さのトリオならではの仕事の仕方なのだが…。
 社長でありながら、営業課員でもある彼の仕事のスケジューリングが青山の仕事の主体なのだが…専ら自己管理がてんでダメな癖に売り上げの多い営業の秘書をしているようなものだ。
 営業課員の一人一人にもある程度の即決権を与えているので、難問でも出ない限り、大石が出張る事はない。
 つまり、会社が問題なく機能していれば、大石は会社全体の把握をしつつ、自分の営業だけやっていれば良いのだ。
 これらを全て照合し、事務や人事にも目を配り、全体の調整をするのは、人事課長だ。
 証拠に、大石の会社に営業課長と総務課長は存在しない。
 名は人事課長、なのだがその仕事の内容は専務そのものである。
 専務もいるのだが、これはマサに参与と言ってもよいくらいの窓際族で…本人は専ら社内と大石のお目付け役と自分の役割を心得ているようだ。
 若年のくせ、異様なほどに保守的な彼とは、青山は余り気が合わない。

 今日も始業の8時半までに客先の意向を聞き、決裁すべき物件が2本、待ち構えている…。
 ま、その後はニッパチと言われる8月の今だから、実のところ、大石も自分もまる1週間ほどはスケジュールが真っ白ではあるのだが…。
 長期出張の期間によっては、仕事を前倒しで片付けてもらわねばならないものもある。
 素早く頭の中で段取りを組み立て、それでも律儀に食事を済ませてから、青山は玄関を走り出た。
 何だかんだと悩みつつ、青山は、矢張り大石のもとでの仕事が好きなのだ。
 仕事の段取りで頭をいっばいにし、今朝の悩みなぞ、知らぬ間にはるか高い棚の上に放り上げ。
 愛車ウィンダムのセルを回しつつ、携帯に手を延ばし、人事課長にインカム越しに電話をかけ、また、今日も青山の多忙な一日は始まる。

 爽快なエンジン音に相応しく、横須賀の空は、もう、既にスカイブルーに染んでいた。

to be continue…



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