フォークダンスで口説いて 1/9
背筋のすっと伸びた、長身の男が店内へ入ってきた。一流ブランドの店だが、ここはデパートのテナントである。 チラッと客を見た秋野悠樹(あきの ゆうき)は作業の手を止め、控えめに、しかしハッキリ「いらっしゃいませ」と声をかける。 男は秋野の言葉に会釈で応え、棚を覗いている。そしてあるセーターの前で足を止めた。 「どうぞ、お気軽に広げてご覧下さいませ」 カウンターの中からお決まりの言葉をかければ、客は秋野の方を振り返りながら頷いた。 ちらっと斜めから見えた客の顔つきは、端整だった。振り返り様の横顔も彫りが深く、シャープな頬にしっかりとした顎が男らしい輪郭を引き締めている。くっきりとした二重瞼に黒目がちの瞳。 スッと通った鼻梁の先にはキリリと締まった薄めの唇。気持ち、長めの黒髪は、自然な感じに後ろに流されて清潔な雰囲気を漂わせている。 久々に正統派の男前を見た、と秋野は思う。 一見細身だが、胸や腕の付け根などに、しっかりと筋肉の厚みがある。ウエスト辺りは結構細いので、何かスポーツをしているのかもしれない。サイズは基本Lでウエスト周りは補整要だろう。 秋野はゲイである。目の前の客は、自分のストライクゾーンど真ん中だった。しかし相手は客である。どんなに好みのタイプでも、客には手出しをしないのが、秋野の主義だ。 客の気にしているセーターは、深いカーキベースでざっくりとした編みに、ヘンリーネック襟でカジュアルな雰囲気のものだ。彼にはきっと良く似合う。 こう言う人にこそ、是非、このブランドの服を着て欲しい。いっそ、許されるのなら全身をコーディネイトしてみたいほどだ。 しかし客にも都合がある。その驚くような価格を、たかだかセーター一枚に出すものだろうか。気に入っているなら、財布の紐を緩めさせ、背を押すのが秋野の仕事である。 客の気配から、どうも脈がありそうだと判断し、後ろから静かな口調で声をかけてみる。声がけをうるさがる相手なら、ヒキが肝心だ。 「そちらは、肌触りがとてもよろしいですし、とても軽い仕上がりになっております。インポートですので、お客様の袖丈にも大丈夫かと思います。立体加工をしてありまして、毛糸の色にも深みがありますし、お袖を入れて頂いたらとても綺麗なんですよ」 ブランドの一押しポイントをさりげなく伝えると、へえ、と感心したように、客は軽く目を見開いている。 「こちらは色違いですけど、サイズは一緒のものなんですが」 そっと客に近寄っていた秋野は、グレーベースのものを広げて、自分に当ててみる。 うん、と頷いて振り返った途端、客は秋野の顔をじっ、と凝視した。 わざとらしくない営業スマイルを心がけながら、秋野も初めて相手の顔を正面からじっくりと見つめ返す。 真正面から見たその顔には、見覚えがある。 (あれ? ひょっとして……そうだよ、清田じゃね? わー、懐かしい) たちまち客の容姿と名前が一致する。間違いなく、同級生だ。どうやって相手に自分の事を伝えようかと、言葉を捜していれば、客が先に声をかけてくる。 「あの、ヘンな事聞くようですけど。違ってたらすみません。こちらのご出身ですか?」 少し甘いような、そしてかすかにハスキーな低い声。それがとても懐かしい。 「あ、はい。生まれはこちらです。あの、ひょっとして、清田さんって仰いませんか?」 声を聞いて間違いないとは思ったものの、念には念を入れてみる。彫りの深い顔立ちの中でも特に印象深い、クッキリとした二重瞼が微笑の形に緩んで、秋野の問いに頷く。 中学と高校が一緒だった清田顕二(きよた けんじ)だった。 「はい、清田です。確か高校も一緒だったし中学の時、一回同じクラスになったよね。えーと、確か、名前はゆうき君だってわかるんだけど、えーっと、苗字が……ごめん」 下の名を記憶していたらしい相手に驚きを覚えながら、苗字を名乗る。 「秋野です」 「あ、そうそう! 皆がゆうきって呼んでたから下の名前で覚えてた。秋野悠樹君だよな。目のトコのホクロ。それ見て思い出した。何か秋野、若いなぁ。年食った感じしねぇよ」 自分の目の横を指で指しながら、弾むような口調で清田が微笑む。それを見て、秋野の頬は思わず、ふにゃり、と緩んでしまった。 秋野の外見は、清田とは対照的だ。全体の色素は薄く色白な方である。卵形の輪郭に顎は細目、弓なりの眉の下に、目尻は下がり気味の二重。ややぽってりした、薄い桜色の唇は口角が上がっているため、いつも笑っている様に見られる。 濃い栗色の髪は、天然のゆるいウェーブを生かし、少し長めにカットしている。左目の横の小さなホクロはチャームポイントでもあり、清田の言葉通り、記憶にも残り易い。 彼が自分の事を覚えてくれていただけでも嬉しいのに、下の名で記憶していた、と言うのを聞くと、一気に親しみが沸いて来る。 「あはは、これね。よく言われる。それよか口、上手くなったんだね、清田君。学生ん時、あんま喋んないイメージだったけど。確か高校でも生徒会長とかしてたよね、優等生だったもんねえ」 砕けた清田の口調に釣られ、冗談交じりに話してしまってから、ハッとする。馴れ馴れしかっただろうか? 中には自分がフレンドリーなのは良いが、店員が余りに砕けた態度を取ると、気分を害する人間もいるものだ。 「や。あれはお調子者だから断りきれなかっただけで、別に、優等生って訳じゃ……。口は、まあな、もう30にもなれば多少はさ。でも懐かしいなぁ。ここ、長いのか?」 清田は砕けた口調のまま、問いかけてくる。表情は明らかに緩み、親しみやすく、気取らない雰囲気になっていた。それを見た秋野もホッとしつつ、清田の質問に応える。 「ううん、まだ入って半年ぐらい。知り合いのツテでさ。おれ、専学、名古屋だったから。卒業してからはWって知ってる? そのメーカーの紳士服担当になって。ここと同じデパートの名古屋店に配属だったんだよ。そこに10年ぐらい居たんだけど、ちょっと訳ありでさ。去年の年末にこっちに帰ってきたとこ」 地元に帰省してから、半年近くはゆっくりと過ごしていた。その後、知人の紹介でこの店に再就職をしてから、早くも半年が経つ。しかしその間、清田を見かけた事は一度もない。確か顧客名簿にも、彼の名は無かった。 ならば、清田は、初めての客に違いない。 「そっか。じゃ、折角の縁だし、そのセーター貰おうかな。ま、ここ高そうだし、これっぽっちじゃ再就職のご祝儀にもなんないかもだけど」 思いもかけぬ清田の言葉に、秋野は驚いた。確かにブランドだから商品単価は高い。その上に彼の言うセーターは、店の中では、かなりの破格である。ドレスシャツにスラックスの組み合わせを買ってもお釣りが来る程だ。 ご祝儀にしては随分高価な買い物だし、そんなものを受ける義理もない。 「いや、そんな、ご祝儀なんて……」 思わず軽く、躊躇ってしまう。 「あ、ご祝儀ってのは押し付けがましいな。悪い。でも気に入ったし、な?」 慌てて言い直した清田に、秋野は内心、心配になる。しかし、買うと言うものを無理に引き止めるのもおかしな話だ。それに清田のプライドを傷つける言葉は、出したく無い。 「そう? ありがとうございます。これカシミヤが入ってて、ちょっと毛玉は出ると思うけど、結構水は弾くし、汚れにくいよ。着回しもきくし重宝すると思う。ね、面倒かもだけど袖、通した雰囲気も見てみたいし、今のTシャツの上に着てみてもらえない?」 内心の動揺を隠して礼を告げながら、頼むような形で試着を誘った。 「ああ、そうか。なら遠慮なく」 快く試着に応じた清田をフィッティングルームに通せば、間をあけずに声がかかる。 「どうかな? 袖も長さもいいと思うけど」 そう言って、ドアを開け、セーターを着た清田が、颯爽とした姿を店内に現した。 袖丈も僅かに長い程度で余裕があるし、全体のバランスも良い。立体加工が予測通りに綺麗に出ていて、誂えたかのようだ。 思わずうっとりと見惚れてしまいながら、久々に本心から、手放しで相手を褒められるのが嬉しい。 「色もサイズもいいね。ダブついてないし、本当によく合ってる。ここのパターン、案外難しくて合わない人もいるんだよ。でも清田君とは相性いいね。スーツとか、国産のじゃ、結構苦労してんじゃない?」 彼らの様に、日本人にしては体格の良いタイプは、サイズの合うジャケットやスラックス探しに苦労している筈だ。確か以前いた国産メーカーでは184、5センチが区切りだったと思う。 清田は、もう少し背が高い。おまけに日本人にしてはウエスト位置が高く、足が長い。こういう微妙な体型には、インポートの方がしっくりと来る事が多い。 それに多少は単価が高くとも、吊るしでサイズが合うなら補整で済ませた方が、オーダーを頼むより経済的だ。 「ん、これは、確かにいいな。でも正直、今日はたまたま気が向いて財布も大丈夫だから思いついて寄ってみただけでさ。ま、秋野がいるなら安心かもだけど。スーツはでかいサイズの店に行くけど、正直なんか微妙な事も多いし。オーダーってのはちょっと手が出にくいしな。でも、本当、懐かしいなあ」 清田の本音が聞けた事にホッとしながら、秋野もようやく気軽に言葉を返した。 「本当。案外覚えてるもんだね。ここって確かに高いよね。おれも買わない訳にゃいかないし、毎月結構しんどくて。その辺りはよく解るし、無茶は言わないよ。安心して」 囁くようにして肩を竦めれば、清田もそうか、と言いながら複雑な笑顔を浮かべていた。 「どう、重かったり動き辛いとこなんかは無い?」 最終確認をすると、清田はやや大きく腕を回して、うん、と頷いた。そして袖口を人差し指でそっと触れ、くるくると撫で回す。 「これ、本当に手触りいい。着ても軽いし気持ちいいな」 うっとりと、囁いているのが酷く色っぽい。 その上に指の動きときたら、まるでベッドの中で繰り広げられる愛撫のようだった。思わずその指に、視線が釘付けになってしまう。 「じゃ、脱いでくるな」 秋野の淫らな妄想なぞ知らぬ清田がフィッティングルームのドアを閉めようとした時、ふと、微かに互いの指先が触れた。 思った瞬間、秋野は衝動に駆られ、清田の指を掴んで引き寄せた。そのまま掌をそっと合わせてみる。自分のものより一回り以上も大きな掌に、節の目立つ、男らしくて長い指。 「わー、やっぱ大きいね……」 掌を合わせた左手に指輪はなく、少し荒れた指先はカサついている。しかし厚みがあり、年齢相応の風格が感じられ始めた掌は、じわりと温かい。その温みにハッと我にかえる。 (あっ、何してんの、おれ。こんなつもりじゃ、わー、どうしよう、気持ち悪いって思われたかも……) 咄嗟に出た自分の大胆な行動に秋野は内心で焦り、そろっと手を引こうとした。 「どうした? オッサンの手、してるだろ」 軽く笑いながら清田がきゅっ、と離れかけた指先を握り込んでくれたのに、ドキン、と胸が弾む。 「や、確かバスケしてたよね。やっぱまだボール掴めちゃうのかなって。手の大きさなんかそんな変わんないのにな。変な事して、ごめん」 内心の焦りを押し隠し、必死に言い訳をする。 「さすがにダンクはもう無理だな。まだ時々、遊びで3on3ぐらいはやってんだけど。秋野は綺麗な手ぇしてんなあ。すべすべじゃん」 清田は気にした風もなく、秋野の手をひっくり返して、甲をしみじみと見つめている。秋野の頬にカーッと血が昇ってくる。 (ヤバイなあ。昔っからこいつ、滅茶苦茶好みだし、やっぱカッコいい) 内心でそっと呟きながら、必死にその場を取り繕う。 「あ、引き止めてごめんね。じゃ、お買い上げって事でいい?」 「ああ。サンキュ」 清田は鷹揚にゆったりとした仕草で頷いた。 秋野はドアを静かに閉じて、かすかに上がっている鼓動を宥める。しっかり横目でチェックした身体は程よく鍛え抜かれ、年齢の割に綺麗なスタイルを維持している。 遊びとは言え、未だにバスケットをしていると言う言葉の通りの筋肉だ。目尻に笑い皺が出来るのも、なめした皮の様な少し濃い目の肌の色も、かなりセクシーだ。 清田には中学の頃から、密かに憧れを抱いていた。とは言っても、同年代の女生徒と同様、一緒の登下校や、キス位は出来たらいいな、と夢見た程度だ。 アイドル的な存在でありつつ、仄かな初恋の相手だとも言える。そんな彼との思わぬ邂逅は、胸の奥にきゅっ、と、甘いような疼きを産む。 昨年までは名古屋と言う都会に居たので、客や関係者以外でも、同じ嗜好を持つ人種との出逢いは多かった。割と、付き合い始めると長いスパンを保ちたいタイプだから、人数はこなしていない。 今まで付き合って来た連中は、センスも良く垢抜けていて、リッチ層が多かった。同時に彼らは大抵、人との距離感が絶妙で引きが良く、余裕のある大人な雰囲気を醸していた。 そんな経験を積み重ねてきた今、相手の見た目だけでは、さほど簡単には心が動かされない。それに客は恋人の対象外だ。 だから清田だって、即に対象外だと、あっさり弾いてしまえる筈だった。なのにたった今、彼に対しては、全く感情の切替が効いていない。その現実に、秋野は困惑してしまう。学生時代にちょっと憧れていた相手と話すぐらいで、ウキウキと浮ついている自分がいささか、情けなくも、恥ずかしい。 埒もない事をボンヤリと考えていれば、早くもドアの開く音がした。 「お疲れ様でした。本当によく似合ってたね」 そう声をかけると、そうか? と照れたような顔でニットを渡される。それを受け取り、手早く包んでブランドの紙袋に入れた。 「では清田さま、ニット一点、税込みで7万4千……ん。えっと。ごめん、忘れてた。このデパートの会員カード持ってる?」 忘れていた事を思い出し、慌てて確認する。 「あ、いや。持ってない」 それならば、と秋野は思いついた事があり、もう一つ、清田に尋ねてみる。 「そうか。ね、今日、車で来てる?」 歩きだが、と、怪訝そうにする清田にカウンターで待って貰い、店の奥に僅かに用意されたバックヤードに入る。財布から自分のデパートの会員カードを取り出して、カウンターへ戻った。余り褒められた方法ではないが、折角の機会を無駄にしたくない。 このデパートのカードは年間購入額のポイント換算制で、秋野はゴールド会員である。現金やカードでの一括支払いだと、一般会員は消費税率分が値下げ出来る。ゴールド会員だと、この値下げ率が僅かに多いのだ。 本人以外には使えないのだが、この程度は見逃せる範囲の話だし、定価より五千円以上もの値下げが出来る。そもそも、商品を介在させたビジネスなのだし、キリもないので、こんな真似は、誰にもした事が無い。 けれど清田には、良い印象を残したかった。 「ね。内緒だけど、おれのカード使っちゃうね。こっちの管理台帳は清田君のお買い上げって事でちゃんとしとくから。一括現金お支払いのため7%の差し引きで69,722円となります」 そう言えば清田は酷く慌てている。 「え、いいよいいよ、秋野、そんな……」 焦ったように言う彼に、秋野は軽く笑ってそれを制した。あらかじめ、金額は見ていたらしく、カウンター上のトレイに、既に乗せられていた八枚の一万円札から、一枚をすっ、と清田に押し戻す。 「今日は初めてのご挨拶がわりって事で。そのかわりっちゃ何だけど、またタマには顔見せに来て。んで、もしよかったら年会費はちょっとかかるけど、デパートのカードも作ってくれたら消費税分は下がるからさ。申込書、入れとくし。それに直し代も結構安いし丈は絶対大丈夫だからね。スラックスの値段もそれの半額程度なんだよ」 恩着せがましく思われぬよう、殊更軽い口調で矢継ぎ早に告げる。 「すまんな、気を遣わせて。じゃ、遠慮なく」 清田は、微かに目尻を下げて、よく手入れをされた財布に紙幣を、そっと戻している。それを見て秋野もホッとした。 「とんでもない。こちらこそ、ありがとうございます。懐かしくて凄く嬉しかった。じゃ、ちょっと待っててね」 デパートのレジ部門へと急ぎ、清算を済ませて店に戻る。すると清田が、あるジャケットに、あの優しいタッチでそっ、と触れてみていた。彼でなければ続けて薦めるところだが、今は止めておこう、と秋野は思う。 人間関係は、どこから繋がりが出来るか解らない。ならば折角の縁は、じっくり、大事に育みたい。 「清田さま、ありがとうございます、大変お待たせ致しました。お釣りと控えになります」 そう言うと、久々の再会は、もうおしまいだった。顧客カードの管理の為に住所は書いて貰ったが、携帯の番号は書いていない。 聞けば教えてくれたかもしれないが、何となく言い出し辛かった。それこそ、次の機会を待つしかないだろう。 寂しいような気分で、袋を持ち、店の入り口まで見送っていく。 「ありがとう、気が向いたらでいいから、これ着た姿、また見せに来てくれると嬉しいな」 商品の入った袋を渡しながらそう告げる。 「うん、そうだな。もともとちょっと奮発するつもりだったし、いい買い物が出来たよ。こっちこそありがとう。じゃ、またな」 そう言うと清田は、昔と変わらぬ素振りで、すっ、と片手を軽く肩の辺りまで上げ、フロアへと足を踏み出した。が、ふと思い出したように振り返り、秋野のすぐ側に戻ってきた。 そのままピタッと身体を密着させ、耳元に手を被せてから、囁きかけてくる。 「その。逆に気ィ遣わせて悪かったな。割引、助かった、サンキュー。そっちも頑張ってな」 少し掠れた低い声で耳元に囁かれ、こんなに密着していると、まるで恋人同士の様な気分になる。甘いムードに溺れそうな気分を振り払い、清田のスタンドカラーのブルゾンの裾をツン、と軽く引いて、もう一度礼を言う。 「そんな、おれこそ助かったよ。ありがとうございました。ね、また時間あったらでいいからさ。顔見せに来て、な?」 綺麗なダークブラウンの瞳を見上げ、最後はしつこいかな、と思いながらも小さく告げる。出来れば、もう少し親しくなりたい。せめて一緒に飲みに行く程度には。 清田は耳に当てていた手を、秋野の二の腕辺りに軽く滑らせ、指先で軽くトントンと二度ほど叩いた。生地越しに送られるその僅かな感触に、好意的な気持ちが込められているような気がしてならない。 「解った。時間あえばな。じゃ、また」 「ありがとうございました。またお越し下さいませ」 深いお辞儀で見送る秋野に、再び片手を軽く上げ、今度こそ清田はその颯爽とした姿をエスカレーターの方へと消して行った。 彼に触れられた腕をうっとりと撫でながら、深いため息を落とす。そして少しばかりすごすごとした足取りで、店内へと引き返した。 セクシャルな意味など何一つ無い、単なる再会。けれど言外に交わした、互いの空気は濃密だったように感じる。 けれど、そんなものは勝手な思い込みと勘違いかもしれない。さっき清田も言った通り、30にもなったと言うのに、と思えば愕然とする。なのに、暴走する乙女思考は、簡単には止まらない。 (またって言ってくれた。本当にまた来てくれないかな……会いたいなあ) とびきり甘いような余韻に、フワフワと気分が弾む。少し早く走る心臓のトクトクと言う鼓動が耳に煩い。キュッ、と握り返してくれた掌の感触と温みは、暫く忘れられそうもなかった。 カウンターの側に戻れば休憩を終えたらしい年下の上司がバックヤードから出てきた。 「あ、おかえりなさい、店長。お疲れ様です」 声をかけながら下腹と背筋に僅かに力を入れて、完全に仕事モードに切り替える。 「お疲れでーす。見たよ見たよ、見ましたよ。早速、あのニットやったんでしょ! 凄いじゃないすか」 はしゃいだ口調の店長に、秋野は内心で警戒した。こんな言い方の時は、何かある。なるべく醒めた口調を心がけ、軽く返事をする。 「ああ、はい。L一枚ですけど。今回はちょっと一点のみでストップでした」 「いやーあ、でもあれ単価高いし。さすがですよね、確か初めての人じゃなかった?」 「ああ、そうですね。一見さんでした」 「でしょ。しかも、すっごい男前だったですね。てか、秋野さん、結構親しげでしたよね。ひょっとして知り合い?」 根掘り葉掘り聞かれるのは予測内だ。こんな時はなるべく淡々と受け流すに限る。 「中、高の時の同級生だったんですよ。それでヒキ強くしたんだけど……まあ買ってくれたんで、ラッキーでした」 財布にカードをさりげなく戻していれば、目ざとくそれを見つけられてしまった。 「あっら、珍しい。割引しちゃった? 確かにリッチ系じゃあ、なさげかも。あーあ、でもあんくらいガタイあってくれたら本当に似合うし、顔いいし、マジ薦め甲斐あんだけどねえ。ウチのラインも生きるし。でもさ。昔から言うじゃないすか」 さあ、来るぞ、と秋野は内心で身構えた。この半年で店長の性格は、すっかり把握している。口先では喜んでいるが、知り合いなら尚更、ニット一点で引いたのは、不満に違いない。 彼ならば、同級生のよしみにつけ込んで、あの上にスーツぐらいは勢いで買わせているだろう。 秋野もいつもならば、ジャケットかボトムの試着位は促して次に繋げたと思う。 しかし清田には、少し時間をかけてでも、じっくりと確実に、信頼を積み重ねたかった。要は客以外の関係の構築も、同時に進行させたいと言う欲が出たからこそ、余計に慎重になってしまったのだ。 そっと内心でため息を吐き、空いたディスプレイを埋める作業に戻った秋野の背中に、少し棘のある言葉が飛んでくる。 「色男、金と力はなかりけりってね。金はある所から頂くのが効率的ですよね! 名古屋でブイブイ言わせた腕、期待してますから。その調子でガンガンやって下さいよっ!」 気分もサッパリしているし、素直で明るく決して悪い男では無い。しかし未だ20代後半になったばかりと若いゆえか、多少ガツガツしすぎて物事の本質の目測が甘い。これが彼の欠点だ。 とは言え、彼の言葉は決して間違ってはいない。どの業界もシビアでしょっぱいのは一緒だ。それでも、この世界が嫌いではないからこそ、10年以上も続けられている。 「わー、はーい。気合入れ直しますね」 意識的に間延びをした軽い口調で店長の言葉を受け流しながら、引き続き未開封だった段ボールを開ける。そして新着商品を取り出し、手早く値札を付けて、店内に配置をしていった。 その日は割とバタバタしたにも関わらず、20時半にはデパートを出られた。大分仕事にも慣れてきて、時間内に要領よく報告書などもこなせる様になってきた。 職場から自宅までは歩いて25分程だ。時間的にも丁度良いので運動がてら、通勤は徒歩にしている。マンションの14階にある自室まで足取りも軽く、一気に階段を上がって行く。最近は息も切れなくなってきたし、ポチャつきの気になっていた下半身が引き締まったのはかなり、嬉しい。 ドアをあければ、早くも母が帰宅していて、風呂から出た所だった。彼女も地元のブティックの販売員を長らく勤めている。個人規模の店なので、秋野よりも時間や休みは、アバウトだ。 父は秋野が高校の時に急逝しており、以来、母一人子一人の生活だった。最近、母の体調が優れない上に、結構厳密な生活管理が必要になったので、名古屋から帰省してきたのである。 遅い夕食後、風呂に入り、ゆっくりと湯船に身を沈める。一日の疲れが、微かにカモミールの香る湯の中に、じわじわと融けていく。 母が湯船にエッセンシャルオイルを落としているものだ。良く眠れるからと言う言葉の通り、秋野も何だか、この香りを嗅ぐと、寝つきが良くなる気がする。 深く深呼吸をすると、目の前に掌をかざしてみる。そして昼間の僅かな再会を、ボンヤリと振り返った。大きかった清田の手は、秋野より二センチ近くも指が長く、掌もガッシリと厚みがあった。 その手できゅっ、と自分の右手を握り返してくれた時の感触が、蘇る。そして耳元に囁かれた時の、微かに温かい息も。 「……っ……ふっ……あ…っ」 その体温が耳を通ったかのように思い出され、僅かに息が上がる。そしてセーターの上をさまよっていた、あのエロティックな指の仕草を思い出した。くるくると僅かずつ回されていたその動きを、自分の胸の小さな飾りの上でそっと再現してみる。 瞼を閉じてそれを反芻するうちに、下半身が思いがけず、強い反応を示した。 「あ……やば……いって……こんな」 後ろめたい気分を抱えたまま、清田の手つきをなぞるのは止められない。湯船に手を入れ、そそり立った先端を胸と同様に丸く擦る。 ダメだと思う気持ちとは裏腹に、身体はどんどん反応してくる。とうとう指先に粘ったものが滲んできて、軽く吐息をつきながら、シャワーコックを捻った。 強めの水量を出したまま洗い場に上がり、ボディーソープを片方の掌に取って馴染ませる。そろり、と後部の襞を撫でると、早くも穿つものを求め、僅かに緩んで、ヒクついている。 入口をじわじわと慣らし、ぬくり、と中指を差し込み、ポイントを探しながら前を扱く。 『目のトコのホクロ。それ見て思い出した』 『秋野の手は綺麗だな』 『じゃ、また』 耳の奥に、低い掠れた声を呼び起こした途端、行為は一層、淫らなものになる。 「っ、きよ、た、っ、あ、ぁん……っ」 思わず小さく名を呟いてしまえば、胸を噛むような罪悪感が襲ってくる。しかし、それとは裏腹に、欲望はむしろ火に油を注ぐ勢いだ。握り締めた花芯からはひっきりなしに先走りが溢れ、指を呑んだ後部の中もヒクヒクと物欲しげにうねりだす。 目を閉じて掌で少し乱暴に花芯を擦れば、逞しい掌で愛撫をされている気分になる。あの手で、ここを擦って欲しい。そしてあの声で甘くささやきながら、抱いて、貫き、穿って貰えたら。 「ごめん、ごめんね、清田」 小さな声で謝りながら、最後の放出へと動きを増していく。 大丈夫、きっと、妄想だけなら、大丈夫。お客様だけど、清田は特別。それに本当に寝るんじゃないんだし。 誤魔化すように自分に言い聞かせ、清田の声や掌の感触や体温、呼気を必死になぞる。 『気持ちいいな』 その囁きと声を思い出した途端、ピクリ、と先端が震えた。 「ふっ……んっ、っ、くぅっ」 必死に声を噛みながら、前を扱きたて、中指で後ろのポイントをクリクリと捏ねる様に抉る。瞬く間に白濁がビュクビュクと勢い良く噴き出し、顎の辺りまで飛び散った。同時に後部が、中指をキュウキュウと音を立てそうなほどに強く締め付けて、軽い蠕動を繰り返している。 「はぁっ、は、ぁ、あぁっ」 後ろから中指を引き抜き、まだヒクヒクと震える花芯を何度かゆったりと往復して扱く。残らず、淫らな蜜を搾り出すと、漸く息がつける。 快感のハレーションからか、うわーんと言う鈍い音が耳の奥で響いている。ヒクヒクとしゃくるような荒い呼吸が少しずつ収まってきた。 少し水流を弱くしたシャワーに身を叩かせながら、ぶるり、と身を震わせ、放出の後の軽い倦怠に浸る。ふうっと深い吐息を漏らせば罪悪感と、妙な爽快感がないまぜになって胸の辺りに軋むような感覚を覚えた。 額をトン、と目の前の壁に軽く押しつけて、目を閉じる。 「あーあ、どうしよう。……って、どうにもなんないか。しかもネタにしちゃうって、おれ……どうなのよ。すっげぇサイテー」 微かな声で自分への唾棄を呟きながら、言葉とは裏腹に、快楽の後の余韻を反芻する。 名古屋からの帰省後は、色事とは全くのご無沙汰だ。一年近く相手がいないと言うのも珍しい。 とは言っても地元ではあるし、用心は過ぎるほどにせねばならない。それに、つい最近までは家事手伝いや仕事の多忙さにかまけて、相手を探す気には、なれずにいた。 しかし、仕事も多少要領を覚え、余裕が出てきたせいか、恋人とまでは言わなくても、せめて後腐れの無い相手が欲しい、とは思う。 ここ二ヶ月程は、母の体調が安定し、上向きになりつつあるのも、安心要素の一つとなっているかもしれない。 とは言っても、自分の中では聖域扱いをしてきた相手の、ほんの僅かな体温や囁きで、こんなに反応するとは、思わなかった。 それほど飢えていたのかと、情けない。 しかもよりによって、手出しはタブーな上に、良い関係を築きたいと思う相手をネタに、盛ってしまった。痛恨の極みだが、してしまった行為は取り返せない。 ため息を落としていれば、脱衣所のドアが開く音がした。構わずシャワーに身を打たせて、ぼんやりとしていると、母がガラス越しに声をかけてくる。 「悠樹? あんたノボせてんじゃないの?」 その声に、キュッと栓を捻り、一旦、シャワーの湯を止めた。 「ああ、うん。ごめん、ウトウトしてた。もう出るから」 返事を返すと母がクスッと笑っている。 「こないだみたいに溺れないうちに早く出なさいよ。どうせ寝るなら布団がいいでしょ」 そう言うと、彼女は洗面所で歯を磨き始めた。はあい、と間延びをした返事をして、シャンプーを手に取り、髪に馴染ませる。 こっちに戻って働き始めた頃、つい転寝をして浴槽の中に沈み、溺れかけた事があるのだ。多分久々の仕事と、緊張で疲れ果てていたのに違いない。最近色々箍が緩んでるな、と焦りを感じてしまう。 「これ、ひょっとして歳のせい? うーわ、やだなあ」 口の中で呟きながら、再びシャワーを出して、僅かにカモミールの香る頭の泡を流していく。そう言えば最近、独り言も増えたような気がする。 こんなに早く地元に戻る気もなかったし、県外での一人暮らしだったので、名古屋では常に色々と気を張っていた。 多少は帰省で緩んだ部分があるとは言え、もう一度締めるべき所は、締め直さねば、大ケガをする。三十を過ぎた後のケガは、外的には勿論、精神的にも治り難いと聞く。 「しゃんとしろよ、おれ。注意一秒ケガ一生だっての」 秋野は小さく呟きながら、冷水で頬を軽く煽った。
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