フォークダンスで口説いて 2/9
清田との再会から数日の経過した休日の月曜日。秋野はいつもより少し遅い、九時過ぎに目を覚ました。 休みだからと言って、長々と寝るのは、余り好きではない。そのかわり、30分ほどの昼寝は楽しむのだが。それにこの家の主夫役は、自分が大半を務めている。 ベランダを見れば、とても天気が良さそうだ。母と一緒に軽い朝食を済ませると、出勤を見送りながら、手早く洗濯物や布団類を干して、掃除機をかける。母は水曜と、隔週の木曜が定休なのだ。 家事をあらかた片付け終わり、茶を入れて軽く一息をついたのが11時前。余りに綺麗な青空に気を引かれ、市内の書店に徒歩で出かける事にした。 片道で15分程度の距離は、日課の散歩に丁度良い。帰りにお気に入りの喫茶店に立ち寄って、ついでに少し甘いものでも買って帰ろうか、と思いつく。思い立ったからには、と、さっさと着替え、戸締りを済ませると、足取りも軽く、晩秋の空の下を歩き始めた。 信号待ちで見上げた上空はスコン、と、突き抜けた蒼に染んでいる。ふわり、と耳元を撫でた風が少し冷たいものを含んでいるが、日中ならさして、羽織りものの必要はない。大分空気が澄んで来たな、と思いながら、ゆったりとした速度で歩く。鼻腔に通る僅かに冷たい風が、気持ち良い。 この調子だと自分の進言で仕入れを変更したベストやセーター、薄手のコート等の出がもう少し良くなりそうだ。商品が定価で良く動くのは店にとっては、喜ばしい事だ。 店長のニコニコ顔が頭に浮かんで、秋野も思わずふっ、と頬を緩めた。 書店には取り寄せを頼んでいる専門誌と毎月購入している雑誌が数点入っている筈だった。通いなれた自動ドアを潜ると、頭一つ高い後姿が目に入る。しかもそのセーターは先日自分が薦めたものだ。 (うーわー。気まず。どうしよう。でも、綺麗に着てくれてんなぁ) 再会の夜に、自分が風呂場で取った行為を思うと、面と向かっては顔を合わせ辛い。当然だ。疚しい事この上なしである。一応モラルや、良心の呵責と言うものもある。 でも、この再会を逃したくない、と言うさもしい欲は抑えがたい。 胸に苦いものを含ませつつも、つい、その颯爽とした立ち姿に眼が走る。時間差をつけて店を覗き直しても良いが、無意識に足は目的のコーナーへと踏み込んでいた。 ちょっと見るだけ。気付かないでくれよ、と内心で呟きながら、じわじわと彼の読んでいる旅行雑誌の向かいに回っていく。 今日は平日だが休みなんだろうか? ちらっと彼のいるコーナーを通る際、横目で全身を伺う。カーキのセーターの下は僅かに台襟の高い白のコットンシャツ。下のボトムにはウールのヘリンボーン柄のスリムなラインのスラックスで黒ベースのもの。 足元はよく手入れのされたスウェード生地のダークブラウンのデザートブーツで、エレガントな雰囲気だ。コントラストもよく計算されているし、普段着にしては洒落ている。 都会的で垢抜けた取り合わせだし、ボディラインが綺麗なので、とてもよく引き立っている。店内にいる女性達がちらちらと気がかりそうに、清田を見つめているのも印象的だ。 なにより彼がそのセーターを大事に着てくれている雰囲気が解って、とても嬉しい。少し高いけど薦めてみてよかった、と秋野は思わず口元を綻ばせた。 ほのぼのと胸が暖まるような気分で、雑誌に目を落とし、記事を読み込み始めた所に、ポン、と軽く背中を叩かれた。 「よ。偶然だな」 聞き覚えのある低い、掠れた声だ。まさかと思いながら振り返れば、ふわり、と精悍な顔立ちを緩めて、清田が立っている。 「あっ、あ、ああ。こんちは。ビックリした。偶然だね」 声をかけられるとは思わず、声が裏返って恥ずかしい。その様子を見た清田が、ふふっ、と小さな笑い声を立てた。 「こないだは、ありがとうな。雰囲気が違うから、どうかと思ったんだけど、グラサン越しにホクロが見えてな」 先日の様に、目の横に軽く指をやり、満面の笑みで微笑みかけられると、無条件にうっとりとしてしまう。そしてジワリ、と頬に熱が篭るのが解る。 清田の言葉通り、先日は店でもあり、スーツ姿だったのだが、今日は割とラフ目な服装だった。 キャメル色のツイード風のハンティング帽に薄い茶のサングラス。太めのリブ編みのオフホワイトのニットに襟元には赤、白、紺のストライプのプチマフラー。ローライズ気味な飴色に近いベロア素材のノータックパンツに足元はコーヒーブラウンのドライビングシューズと言う格好だ。 ラフなようで案外一点ずつの単価は大きい。本来、秋野はこういった自分なりのスタイリングと着崩しの出来る、上質なものが好みなのだ。 とは言え、清田の正統派でエレガントかつ男性的な立ち姿の横に並ぶと、自分がどうも紛い物のようで、大いに気後れがする。 気後れの理由はもう一つあるが、こうもバッタリと出くわしたら、不都合な記憶は脳裏から、とっとと追い払うしかあるまい。 「いや。どういたしまして。てかやっぱ、それ、いいね。清田君、上背あるし。今日のボトムにもよく合ってる。ボディも良いけど、色あわせも上手いね。センスいいんだ」 さりげなく目線を上下にスッと走らせれば清田は恥ずかしそうな顔で、首筋に掌を当てている。 多分この仕草は清田の事あるごとの、癖だろう。 照れたような表情を、思わず蕩けそうな気分で眺めてしまう。動作なども何気ないのに、いちいち格好よくて、つい目が離せなくなるのだ。 「ボディって。秋野だって凄く洒落てるじゃないか」 清田は少し、困ったように笑っている。 「あはは。ボディはセクハラ? おれ、本当はこんなちょっと崩した方が好きでさ。結構面倒くさがりだし。清田君は、カジュアルでもそういう正統派でカッコいいのが合うから羨ましいよ。ね、今日はお休み?」 さっ、と話題を冗談混じりにあやしい方向からずらすと期待通りの返事がかえってくる。 「ん。今日は代休で明日は有給消化。そうか。今日、月曜だし、秋野は定休?」 「うん。おれは今日、明日と、週末は日月の二連休」 「へえ。日曜に休めるのか? 普通、店員さんって飛び石とかじゃないのか?」 「うん、普通は飛び石。けど今の店、結構休み多くてさ。それに月に一度は連休、取らせてくれる事になってんだよ。今回は年末と年明けの前に一休みさせて貰えるついでに、有給消化もさせちゃおうって事らしいよ」 「へえ、それ、結構合理的かもな。俺の休みもそんな感じが多いよ」 秋野の説明に、清田は納得した様に頷いた。 店長は火曜から土曜までの五連休で、社員の穴埋めも確保出来たから、と言うので秋野は、結果的に飛び石型の連休になったのだ。 もっと清田と話したい。そう思い、秋野は、少し躊躇いながら何気なく、誘いかけてみる。 「ね。清田さ、今日、これから特に予定ある?」 わざと、君、の敬称を外しても相手は全く気にした素振りがない。そもそも清田の方も秋野に対しては最初から、敬称を抜いている。気を許してくれているのかな、と、少しばかり嬉しくなってしまう。 「いや。特には」 「そっか。ねえ、よかったらお茶でもどうかな? 野郎同士で何だけど、近くに個室がメインで美味しい珈琲の店があるんだけど」 軽い口調を心がけたが、内心は断られたらちょっと辛いな、とドキドキものだった。 「ああ、いいよ。それ、ひょっとして茜亭の事か?」 清田は快諾し、早くも店の入り口へと動き始めている。秋野は雑誌を慌てて棚に戻し、後を追った。彼は欲しいものを既に買っていたらしく、脇に書店の包装を抱えている。 「買い物はなかったのか」と聞かれ、店の入口で少し待って貰う。そして手早く雑誌を手に取り、カウンターで取り寄せの専門書も引き取った。 清田と同じクラスになったのは、中学三年の一度きりだが、余り言葉数を交わした記憶は無い。 彼はいつも優等生や体育会系のグループに囲まれていた。秋野は男子の中でも比較的ちゃらちゃらとした軟派で軽い、少しばかりの悪さもするようなグループと仲が良かった。そもそも、背景や雰囲気が違うのだ。 しかし清田とは何かの委員を一緒にやった事もある。彼の気さくさや優しさについても、触れている方だろう。 目的の喫茶店へと清田と肩を並べて歩き始める。178センチの自分より頭一つ高い188センチの高い身長は高校の頃から変わっていないようだ。歩き方もほんの僅かに外股気味ではあるが、スポーツをしているだけあり、リズミカルで綺麗だった。 「清田、時間、大丈夫? それに茜亭、知ってんの?」 その喫茶店には結構通っているのだが会った事がないな、と思いながら聞いてみる。 「ああ。時間は大丈夫。茜亭は父方の従兄弟が最近気に入ってるらしくてな。俺もちょっと気になってたんだ」 「そうか。直火焙煎だけど、おれは結構好きなんだよ。じゃ、従兄弟さん、結構詳しいの?」 秋野の言葉に軽く清田は噴き出している。 「それがな。あいつ、インスタントと缶コーヒーぐらいしか飲んだ事ない奴なんだよ。お子様味覚でブラックなんか飲めなかった癖に、最近妙にあれこれ言うんでな。変だと思って追求したら、どうも付き合ってる人に教わったらしい」 それを聞いて思い出した事があり、何気なく尋ねてみる。 「そう言えば清田って親戚、多かったっけ。確か兄弟も……」 「うん、親戚も兄弟も多いな。兄弟は五人。俺が次男で女一人の男四人。そっちは?」 「おーっ、賑やかそうだねえ。いいなあ。おれは寂しい一人っ子」 話をしながら歩いていても、自分に合わせて少し歩調をゆるめてくれる。さりげなく車道側を歩いたり、危ない時にはさっ、と手をのばし、同性でも何気なくエスコートを出来るタイプだ。面倒見がよく、優しい人柄を思わせる。 客には手を出さない主義と言っても清田はどうやらとびきりだ。それは完全に間違いない。自分が相当ぐらついているのも、はっきり解る。 この間からどうも、どこかネジが抜けてしまったかの様な危うさが、怖くてならない。なのに指輪の無い理由を探るくらいはしてもいいだろうか? などと性凝りもない事を、頭の隅で考えてしまう。 多分、間違いなく清田はノンケで、既婚者の様な気がする。その上に客ときているのだから三重苦だ。そんな相手をオカズぐらいならまだしも、本気になるだけ馬鹿らしい。 頭ではそんな計算が出来るのに、こうやって側にいれば、気持ちはソワソワと落ち着かない。 地元にいる今の方が名古屋に居た頃より尚更、無茶が出来ない。自分のグラつき加減を味わうくらいの余裕があればいいのに、そんなものは全く無いのが悔しい。ガッつき気味な自分が情けなくて、秋野は内心でため息をつきながら、店のドアを押した。 マスターは不在で、チーフと呼ばれている若い男性店員が「いらっしゃいませ」と言う言葉と共に目礼をしてくれた。 それに軽く会釈で返し、主に個室構造になっている二階へと上がる。一番奥の窓際でも、眺めが良く、しかも周りや外からは殆ど目につかない絶好の席が空いていた。 この店は、専門店に近いスタイルで営業している。その為、食べ物はホットサンドやトースト類、手作りのスイーツ程度しかメニューに無いし、モーニングサービスも行わない。なので平日の昼でも、余り混雑していない。腰をおろして一息ついた辺りで清田がふと言い出した。 「そう言えば、秋野、一人っ子って意外だな。なんか下がいそうな雰囲気なんだけどな」 彼の言葉に、思わず破顔してしまう。下がいそうだ、とはよく言われるのだ。 「あは。面倒見よさそうに見えちゃう? お節介って言われたりは、あるよ。そうだな、甘やかす方が好きかもしんない」 ウェイトレスが注文をとりに来たので少し待って、と一旦下がってもらった。じっくりとメニューを眺めている清田のために時間が欲しかった。 「確かに面倒見は良さそうだな。お節介とは思わないけど。そうだ、あんな割引して、叱られなかったか? それこそ甘えたはいいけど、気になってさ」 「清田、それ、おれの恩着せ作戦にモロひっかかってるよ。気をつけなよ」 冗談めかして言うと、清田は軽く目を見開いた。 「えっ? そうなのか? そりゃ怖いなあ」 そう言いながらも目が笑っているから、自分の言葉が冗談なのは解っているらしい。彼の性格もあるのだろうが、この甘くてゆるいような雰囲気は、リラックス出来るし、何よりとても楽しい。 「ま、冗談だけどね。最近は仕入れ傾向も変えてみたりとか色々やってみてる。ちょっと右肩上がりかな。でもま、よかったらだけど、サイズについては多少融通は利くかもだし、興味ありそうな人いたら、紹介はして貰えたら嬉しいな」 余りガツガツする必要は無いが、新規の客層は開拓したい。その為には、清田の知人も出来れば店に来て貰えたら、と言うのが、正直なところだ。そこは矢張り営業だ。軽い口調を心がけて、頼んでおく、と言った調子で言ってみる。 「はは、うん。気にかけとくよ。それにバスケやってる連中って、確かにサイズとか合い辛くて困ってる奴、多いしな。好きそうな奴もいるし、何気に言ってみとく。でも皆、余裕はねえから、余り沢山は無理かもだぞ。期待はすんなよ」 清田の誠意ある言葉に、秋野は嬉しくなって、コクン、と頷いた。 「ありがとう。その気持ちが嬉しい。リーマン層の人には無茶言わないように、店長にも釘刺してあるからさ。それに良く来てくれて毎月単品一つとか、ワンシーズンでスーツ一着ぐらいって人も多いし。だから良かったら安心して来てね」 軽く返したところで再びウェイトレスが注文をとりに来た。 「えーと、じゃ今日のお薦めの、これ。ボリビアのオーガニックお願いします」 清田はメニューを結構丹念に見ていたが、最終的には無難な選択をしたようだ。彼が頼んだのは、素直な味わいで、後口がチョコレートのような風味の豆だった。 「あ、おれはじゃ、コロンビアのアンデスコンドルと、あとこれに、イエメンのモカ、豆で200入れて下さい」 秋野は手持ちのトートバッグから缶を取り出し、ウェイトレスに託す。この店は、器を持参したら、エコ割と称し、豆を定価の一割引きで売ってくれるのだ。 「へえ、秋野、豆まで買うのか。随分本格的なんだなあ」 彼女が立ち去った後で、清田が目を丸くしている。 「ん、本格的ってか……結構こう言うの、好きなんだよ。ここも、たまたまインターネットで見つけてさ。清田は珈琲とか好き? 普段どんなトコ行くの?」 「珈琲は好きだよ。お前んとこのデパートの南側に、半地下になってる店、あるだろ? 時間調整にいいから時々行くんだよ。確かあそこはサイホンだな。席で淹れてくれるのが面白くてさ。豆は俺もモカが好きだな。あとキリマンとマンデリンかな。今日は珍しいのが飲んでみたくてアレにしたけど」 清田の言う店は、秋野もたまに休憩に使っている。豆は、結構ボディのしっかりした、酸味や苦味もあるものが好みのようだ。 「ああ、あそこ。おれも休憩、行く事あるよ。でも、店に近いと何か落ち着かないし、美味しいけど、飲んだらすぐ出ちゃう。ま、ここは今んとこ、宣伝しちゃうぐらいには気に入ってるんだよ。ウザかったらごめんな」 そう言うと、清田は、面白いからいい、と笑っている。 「そう言や、ネットとか結構するのか?」 「うん。ネットとメールは凄くよく使う。普段ああいう仕事してるからね。中々買い物とかに時間取れないから便利だし。案外仕事でも使う事あるし。清田は?」 「ああ……それ関係の仕事なんだけどな」 ふと曖昧な顔つきで言い澱んだのが、妙だと感じる。仕事については聞かれたくないのかもしれない。ならばこの話題をひいたものかと少し迷う。 しかし、急に話を変える方が不自然な気がした。ここは正直に聞いてみよう、と決めて質問してみる。 「ごめん。そう言えば、お勤めは?」 秋野の切り出しに、清田は軽く頷いた。 「あ、うん。A通建って聞いたことある? ま、電話工事メインだけど案外、建設も多いんだよ。夜間照明とか消防も絡みが多いし。俺は今はN社担当の営業やってんだけど」 「ああ。聞いたことある。へー、やっぱ、結構固いとこ行ってるんだね」 自宅にインターネットの光回線を開設した時、確か自分はN社に注文をしたのに、A通建の人が工事に来た覚えがある。それを言うと、その会社だ、と頷いている。 「N社が直接工事するのって、ちょっと特殊部門になるんだよ。個人宅は俺らみたいな下請けが大半だな。ま、要は工事屋だし、固いイメージはあるだろうな。俺は今、企業さん担当だから、会社で使うビジネスホンとか専用線とかイントラとか。業務用だな」 秋野はうっすらとデパートの電話工事のイメージを思い出した。家庭用の電話と会社用の電話はその回線の種類や料金、システム等が違うらしい、難しそう、と言う程度しか解らない。 「ビジネスホンって、あの保留ボタンが沢山ある電話? デパート側にあるような。清田もそういう現場でやるの? ああいうのって難しそうだし、凄いよなあ。大学も確か工学部だったよね」 「そうそう、保留が沢山ある奴な。デパートはそれこそN社の直接担当だから俺らはノータッチ。でもイメージは似てるよ」 大学は、出たと言うだけで院に行く訳じゃないから、と苦笑気味に呟いている。最初は現場から配属され、今は営業担当だが、取得の必要な資格試験も多く、勉強続きらしい。 「ま、何でも現場は大変だな。話が違うとかってのはしょっちゅうだし。休みの呼び出しあるから、携帯離せないし。喧嘩もあるしな」 最後の喧嘩と言う言葉に、秋野は驚いた。清田も喧嘩をしたりするのだろうか? 「へえ、喧嘩。清田、したことあるの?」 野次馬すぎる質問かな、と思いながらも、つい、好奇心に駆られて尋ねてみる。 「うん、ある。新人の頃、技術系の主任とぶつかってな。難しい人でさ。俺も悪かったんだけど、上手くひけなくて正面衝突になって。流石に首かかるし、手は出なかったけど、上からは訓戒食らった。今はいい関係だけどな」 清田は苦笑交じりに、そう告白してくれた。意思疎通が上手く行かず、感情や言葉が衝突するのはよくある話だろう。 「へえ、大変そう。でも清田、結構楽しそうだよね? おれも、接客よりは高校でやってた繊維とか縫製とかのが、本当は好きなんだよ。縫製でプロとかも考えたけど、職人の世界が無理っぽくてさ。諦めたんだ。前の店じゃ洋服馬鹿になるな、もっと自分のキャパ広げろってよく言われたよ。でもやっぱ、好きな事って、勝手に情報収集しちゃってるね」 同じ工業高校に進んだものの、清田は学内でもエリートが行くとされる電子科に属していた。秋野は繊維科なので、高校時代は同じクラスになった事が無い。が、時折校内で顔を合わせてはいた。 「そうだな、確かに面白いし、やり甲斐はあるな。……お、美味い。それに何か、甘いな。ホントに豆みたいな。あ、そうそう、チョコみたいな後口がある。へぇ、面白い」 話している最中に運ばれた珈琲に、早速口をつけた清田が目を見開き、満足げに微笑んでいる。続けて、色違いのキルティング製の布を被せられたポットが各々の席に置かれた。 「ん? これ何?」 「あ。それはおかわり」 不思議そうにしている清田にそう教えれば、へえ、と珍しそうにしている。 「ふふっ。ちょっと得した気分でしょ。気に入って貰えたら良かった」 秋野もそっと口にコロンビアを含む。僅かな酸味がスッキリとした味わいだ。そして余りの居心地の良さに、つい、気が緩んでしまった。到底そうとしか思えない質問が口から出てしまう。 「そう言や、清田は、普段、自分で珈琲淹れたりとかしないの? ってか奥さんが淹れてくれるかな」 身辺を探るような言葉にハッとしたが、既に遅い。 「奥さん? ああ。いないんだ。別居しだしたのが一年以上も前でさ。こないだやっと離婚が成立したとこでな」 余りに軽いほどの口調で、物凄い爆弾発言が出てきた。聞いた秋野の方が慌ててしまう。 「えっ? あ、ごめん、おれ、本当、ごめんね、無神経すぎた、ごめん、清田」 逆に驚いたような清田が首を傾げ、ああ、と苦笑交じりに説明をしてくれる。 「ああ。こっちこそすまん。俺としちゃ片付いた問題だし。確かデパートで会った日もさ、弟嫁とか従兄弟に離婚したからって老けこんじゃ駄目だって散々説教されてな。で、用事ついでに久々に服でも見るかって気になって。そっちは?」 逆に気を遣わせてしまったようだ。しかもそんなに深刻な出来事の後に、あんなに高価なものを売りつけてしまったなんて。 知らなかったとは言え、無神経すぎたのではないだろうか? 安易に同情するのは失礼だが、無礼なのは駄目だ。目の前の彼は淡々としているが、秋野としてはかなりの冷や汗ものだ。聞かれた問いに、やっとの思いで答える。 「あ、おれは、うん。結婚はね。無理なんだ」 曖昧に笑いながら、小さな声で呟くように返事をする。客が少ないとは言っても店の中だ。どこに耳があるかは解らない。 「無理?」 清田の追求は続いている。どうしよう、と思いながらも秋野は腹を括った。結局自己満足の告白になるかもしれない。それでも相手に離婚と言う事実を告げさせた以上、自分もリスクを提示しなければ気が済まなかった。 それによって相手に負担を感じさせてしまうと本末転倒だが、勢いは止められない。 「うん。あのさ。おれ、ゲイだから。えーと、ゲイって解る? ぶっちゃけ、ホモ?」 「ゲイ? ……ホモって……」 声を潜めて驚く清田に曖昧な微笑を返した。 「うん。これ言うのこっちの連中じゃ、清田が初めてなんだけど。男の人が好きなんだ。だからまだ日本じゃ結婚は無理」 「そ、そうか」 目を見開いていた清田が、パチパチと落ち着きなく瞬きをしている。必死に気分を落ち着かせようとしているのがよく解る。 「ごめん。驚かせて。逆に負担に感じたらごめんね。お詫びにもなんないよね、ごめん」 清田の様子を見ながら、小さな声のままで、そっと詫びた。 「いや。大丈夫。ちょっとビックリしただけ。こっちが、うっかりポロリしちまったから、そんなの言わせて悪かったよ。何か本当、ごめんな。でもお互い、やっぱ色々あるんだな」 清田は気まずそうに頭に手をやっていた。 それを見ながら秋野はぽつん、と呟く。 「ね。結構考えたら凄い事かもしんないのに。普通に話して生活もしてるし。呑気に笑ってすら、いられるよね」 「そうだな。でも心底辛かったらもう笑うしかないって事もあるかもな。秋野、案外そんなタイプに見えるけど」 返された清田の微笑の中に、少し苦味が残っているのが解る。まだ傷が癒えきってはいないのだろう。 それでも今、自分に出来るのは、鈍さを装って受け流す事だけだ。好意を抱いた相手に何かをしたいと思っても、何もしない事のほうが思いやりになる事もある。 それは秋野も解っている。その雰囲気が解らなければ客商売は続けられない。 ……けれど。 どこかでぷつりと箍が外れてしまいそうのなのが怖くて、ぐっ、と背筋に力を入れた。 「んー、おれは、限界来たらすぐ泣くね。人前では我慢するけど、一人だと涙が出てる事もある。もともと沸点低いし根性ないからさ。でもこんな方が、結構図太いって言うよね。あれだね、このご時世だし、清田の周りも案外、離婚は多いんじゃない?」 そう言って、清田の知る範囲での同級生の情報を聞いてみた。すると矢張り、離婚を経験している連中は、かなりいるらしい。 「俺も実際その勢いでもつかなきゃな。こんな高いブランド物のセーターなんて、一生買えなかった。興味はあっても無理だしな。それでも俺は家計的にも負担、無い方なんだよ。向こうから離婚言い出されて、慰謝料もいらないって言われたから。だから少しだけど余裕が出来たぐらいで」 「え、そうなの?」 驚いた秋野に、清田は、これはここだけの話だが、と前置きをして低い声で話し始める。 「実はさ。相手が男作って出てっちまって。俺は浮気はしなかったし、共働きだったから家事も出来る範囲ではやったつもりだったんだ。けど相手にとっちゃ、到底足りなかったみてえでさ。結局色々溜まって爆発したみたいな感じだった。ま、お互い様なんだろうけどな」 それを聞いて、秋野は驚愕してしまう。 清田が男を作られた? 逆はあっても、余りに信じられない言葉だが、嘘とも思えない。驚きを押し隠しながら、なるべく当たりの柔らかな合いの手を捜す。自分が出来るのは、せめて背を撫でるぐらいだ。 「そうか。そりゃびっくりだね。でも色々辛かった事もあっただろ? まあ奥さんも不満があったかもしれないけど、清田も我慢してた事、少しはあったんじゃない?」 そう言うと、ああ、と清田は頷いていた。 「余計な傷の付け合いとか、知らなくていい事まで知らされるのは、きついな。それでも、続けていけるのが夫婦なんだろうけど。俺には無理だった。それに相手と一緒にいる顔みたら、本当に楽しそうでな。逆にそれ見て、俺もホッとしてさ。今は大分スッキリしたよ。一人暮らしにも馴染んできて、やっとあいつの言った意味が解ったりとかもある」 彼が望んだ別れではなかったのか、と秋野は複雑な気分だった。 「清田、よく引けたよね……えらいね」 小さく呟けば、ああ、と清田が今度こそ苦いような顔をする。 「酷い言い方だけど、今は正直、肩の荷が降りたって感じだな。きっかけは見合いだったんだけど、それから恋愛みたくなる夫婦もいるじゃん。期待もしたけど、お互い、無理だった。それに俺は自分に過失が無いつもりだったけど、あいつが出てくまで追い詰めて、見て見ぬ振りしてた事も多いしさ。結局、夫婦って内容じゃなくて、世間体の方に縋りついてたのは俺だったんだよな」 意外続きな言葉に、秋野は軽く溜息をついた。 「そうか。でもさ。ご縁ってのもあるんじゃないのかな? おれも何回か別れたりしたけどさ。その引き金は解るんだよ。でも別れる原因は本当、色々な事の積み重ねで、破綻したって事が大半でさ」 いつも考えていた事を何気なく漏らす。 「縁か。確かにそう感じる事はあるな」 清田は秋野の言葉に深々と頷き、同意してくれた。 「でしょ。縁って優しい言葉だよね。人、責めないもんね」 軽く笑いながら、秋野が呟くと、清田も唇を微笑みの形に緩めている。少ししんみりした雰囲気の中、互いに珈琲を口に含む。 「……今、その。秋野は、ええと」 ウェイトレスが水を注ぎ足しに来て立ち去った後、清田が思い切ったように言いかけた言葉を口ごもっている。 「ん?」 軽く目をあげて、首を傾げると、彼は顎に指をやり、少し頭を捻っている。 「んー、あ。そうか。彼氏だよな、相手は」 「そうだね。彼氏になるね」 清田の質問に、軽く笑って先を促す。 「その彼氏って、今、いるのか? ……って、いやいや、余計な詮索だな。すまん、悪い」 清田は秋野の目をしっかりと見つめながら、それでも参ったと言わんばかりに頭に掌をやって軽く俯いている。その仕草に、少し迷ったものの、結局は降参する事にした。 「いいよ。今はいない。名古屋から帰る時に自然消滅みたいな感じで。清田は?」 「そうか。や、俺は別れてからは全然」 「そう。お互いフリーか。ええっと。父親がさ。おれが高校入った時に、急に死んだのは清田も知ってるよね? でも、結構いい会社に勤めてくれてたし、年も食ってたからお蔭で保険とか年金とか、しっかりあってね」 母が長い間勤めてもいたし、生活はむしろ余裕がある程度で出来ていた。秋野は話を続ける。 「おれもこう言うタチなのは早いうちに母親にぶっちゃけててね。でも流石に父親には言い出しにくくてさ。したら急に職場で倒れちゃってそのまんまでさ。ま、そんな家族構成だし、親戚も近くにいないしさ。母親もちょっと体調崩したりしてるみたいだったし。結局おれが看るしかないじゃん? それにこの仕事なら何処でも出来るし、潮時かなって」 父に自分の性癖を打ち明ける前に、彼は余りにあっさりと他界してしまった。でもそれで良かったのかもしれない、と今は思っている。 「そうか。お母さん、今は?」 何気なく低く聞かれた言葉に、ふっと笑いながら応える。 「今は大分良くなったよ。仕事も前より出来てるし。何かおれが主夫に戻ったみたいな感じで調子こいちゃってさ。掃除洗濯炊事、全部しないし。休みなんか昼まで寝てるよ」 清田は微笑みながら、そうか、と頷いている。そのまま少しの間、沈黙が二人の間を支配した。
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