痴漢は恋のキューピッド?! **1/4**
「……やめて下さい」 囁くような口調でその言葉は発された。 ぐいぐい、とジャケットの裾を強く引かれ、山野皓三(やまのこうぞう)は眠りかけていた意識を覚醒させた。 「は?」 朝の満員電車の中。目の前の青年がきっ、と振り返り、さらさらの明るい色合いの髪が揺れる。同時に、清潔なハーブの香りが山野の鼻を擽った。切れ長の奥二重に潜む茶の瞳。眼鏡越しでも損なわれぬ、美しく印象的な目には微かに涙が浮かび、自分をじっ、と睨みつけている。 「痴漢行為です。しないでください」 確かに自分の身体は彼の背に密着している。しかし痴漢行為をした覚えは、全くない。 青年の小さな声は、密接している山野に漸く聞き取れるほどのものだった。彼の言葉に反応したのは、自分と、もう一人。山野の隣にいる、歳の頃は50過ぎの、禿げて冴えない印象の親爺殿だけだった。 とすれば、と、ちらり、とその親爺を伺う。すると、彼が手をそろそろと自分のコートに納めているのが露骨に見えた。彼と山野の身長差はザッと20センチ近い。上からの視線で見れば一目瞭然だ。 痴漢は間違いなくこちらだろう。 (……ナンパじゃなくて痴漢に間違えられるってどうよ、おい。……こいつ、学生っぽいけど……しかも俺も隣と一緒くたのオヤジ扱いか? ……情けねー……) 山野が自らのプライドを傷つけている間に電車は駅に停車し、ガクン、と車内が揺れた。 慌てて片手を伸ばし、犯人の腕を掴もうとした。しかし相手は人の流れを巧みに利用し、するり、と身をかわしざま、ドン、と青年を山野の方へと突き飛ばした。 「わっ!」 「うおっと……あぶね」 咄嗟に山野は大きくバランスを崩した青年の腕を掴み、転倒から庇う。 「っくそ、なに……す、あっ、あ〜……」 青年を庇った衝撃で、よろけた足元を山野が立て直している隙に、痴漢は駅のホームへと姿を消してしまった。どうやら敵の方が一枚上手である。 最後に獲物を突き飛ばし、自分ではない、と行動アピールを見せる辺りが慣れている。かなりの常習犯だろう。 触るだけ触った挙句に、とっとと逃走。しかもちゃっかり他人に冤罪をなすりつける。陰湿の極みだ。 してやられた、と山野は苦い思いを内心で噛み潰した。 青年の腕を片手で掴んだまま山野は彼をぐっ、と自分の側へと引き寄せた。 よりにもよって男性相手の痴漢の濡れ衣を着せられるとは、間抜け極まりない。山野が30年生きてきた中でも初めての出来事だった。 挙句、見当違いな疑惑をかけてきた青年を好みと言うだけで、転倒から庇ってまでやるとは……。 こんなに自分がお人よしだとは知らなかった、と山野は軽く吐息をついた。 (……やれやれ。俺も堕ちたもんだぜ) 痴漢同様、人の波に紛れ、青年から離れる事も出来た。関係ないなら、しらばっくれたら良い。しかし、そうしたくなかった。 それに、山野は一方的にではあるが、目の前の青年を知っている。相手は気づいていないようだが、最近同じマンションに越して来たばかりの住人に間違いない。 山野はゲイ寄りのバイセクシャルである。4月の始め頃からよく見かけていた青年は好みでもあり、確かに目はつけていた。電車に乗るたび近くにはいたし、何か、話しかけるきっかけでもあればとチャンスを窺ってもいた。 とは言え、こんなにも間が抜けた上に最悪なイメージで顔を覚えられるとは……。 全くもって心外だった。 電車のドアが閉まり、ゴトン、と発車する。咎めた筈の山野に逆に転倒を庇われ、戸惑う様子の青年の耳に、ゆっくりと囁きかける。 「あのね、痴漢は俺じゃないよ。今、君を突き飛ばした眼鏡の禿げたおっさん、いただろ? あれだと思う。君が俺睨んで文句言ってた時に手ぇ引いてたの、上から見えたし。証言出来るから捕まえようと思ったけど逃げられちゃったな。ありゃ相当慣れてるね」 まだ自分を疑っているようなら、次の駅で警察に同行しようか、と言う駄目押しも加えてみた。 落ち着いた口調で、淡々と事実のみを告げる。親切を装いつつも、自分は決して疑わしい存在ではないのだとハッキリ解らせるように。しかし最後の判断は相手に任せる。 長らく営業で鍛え抜いたトーク技術を、ここぞとばかりにフル動員だ。 果たして彼は大きな目を見開いたまま山野をじっと見つめ、ふるふる、と首を横に振った。 日々、舌先三寸でお客を相手に奮戦している山野の技術に、世間知らずな雰囲気の彼が叶う訳がない。それに山野が無実なのも事実だ。 青年の素振りは山野への疑惑を取り消しつつある事を告げている。内心で安堵の息を吐きながら山野は改めて目前の美青年をじっくりと眺めた。 パッと見は地味に見える癖に、彼の造作は酷く整っている。目線は182センチの山野より10センチ程下だ。 シミ一つない色白の肌。卵形の輪郭に、描いたような弓なりの美しい眉。奥二重の、しかし切れ長な目に瞳はライトブラウン。紺縁のメタルフレームの眼鏡が地味な印象を与えているが、それを取れば相当の美形だ。 通った鼻筋の先のやや小さめの唇はふっくらとした柔らかそうな薄桃色で、思わず味見をしてみたくなる。 開襟シャツからチラリと見えるしなやかな鎖骨がまた、悩ましくも扇情的だ。 余りにストライクゾーンど真ん中の美貌を目前にし、山野は思わずごくり、と生唾を飲んだ。清楚な癖に、どこかそそるような色香の滲む様には、痴漢ならずとも、あてられそうだ。 「……すみません……どうしよう……」 若者らしく幾分高い声で素直に謝り、しゅん、としょげた様子の青年がしおしおと俯く様はいっそ、可憐なほどだ。 そんな風情を見ると、つい、山野も表情が緩む。慌ててだらしなくなりそうな顎をぐっ、と引き締めた。 電車はゴトゴトと順調に次の駅へと進んでいく。窓から見える4月下旬の空は、今日も綺麗な薄い春霞に覆われている。きっとポカポカ陽気で長閑な日中となるに違いない。 小さな声で、「こっちにおいで」と呼び、周りに詫びながら彼とドアの横にいた自分の場所を何とか、入れ替える。警戒心を解いたらしい彼は、素直に従った。 多分、触った感触や雰囲気で山野が犯人ではないと感じたのかもしれない。中年の男は小柄だったし、大柄な自分とは、掌などの骨格や感触がまず違う。 出入口の近くに車両の中を向いて彼を立たせ、背の高い山野が扉と彼に向かい、空いた手を壁についた。彼の腰をさりげなく庇うのは忘れない。 「あのねえ……普通、自分じゃないって言われてそのまま信じる? ま、俺は本当に正直に言ってるけどさ」 苦笑交じりに山野は少し、意地の悪いからかいを青年に向けた。 「……えっと……手の感じとか……もっと小さかったし……。とにかく貴方じゃないです。失礼な事を言って、本当に、すみません」 見れば、彼は額にうっすらと汗をかき、頬が上気して、目は潤んでいる。息も微かに上がり、少々パニック気味のようだが、自分の過ちにはしっかり謝罪が出来ている。 怯えたような動作や目つきは、歯がゆさを通り越し、いっそ、悩ましい。不埒な考えだが……取って食いたくなってしまう。 「そう。解ってくれたらいいんだ。災難だったね。この先大学が多いし、ああいうの、結構いるんだよ。男でも君、綺麗だから狙われてたかも。気をつけときなよ」 忠告を告げながら、最近の若者にしては、随分スレてないな、と思う。痴漢に間違えられたのは不本意だがこれはお近づきになるチャンスだ。 それを逃すほど山野は、間抜けでもお人よしでもない。むしろ善人を装い、隙あらば合意でもっと卑猥な関係をと望む下心はたっぷりだ。 これではむしろ、痴漢より質が悪いかもしれない。山野は自分のセコさ加減に内心で舌打ちを隠せなかった。それでも折角獲物から飛び込んで来てくれたチャンスを逃す気は今のところ、全く無い。 それに最近は、遊び慣れたすれっからしの相手ばかりと付き合っていて、気持ちに潤いがなかった。久々に出逢ったこんなに新鮮で見事に好みなターゲットは、逃したくない。 青年が身につけている品はさりげないが、質の高い物だ。地方の小金持ちの坊ちゃんと言ったところか、と山野は彼の全身をチェックする。 何気なく降車駅を聞けば、この先にある中でも名門と謳われる私立大学の学生である事が解った。 電車のアナウンスが山野の乗換駅に到着したのを告げた。彼もこの駅で乗換だ。 ホームに降り、何となくそのままは別れ難く、壁沿いに相手と向かい合う。 「俺、多分さ。君と同じアパートだと思うよ。何度か見かけた事あるし。よかったら時間が同じ時にはここまでなら、ボディーガード、してもいいけど。後は気をつけなよ」 冗談交じりに笑って告げれば、彼は酷く嬉しそうに頭を振った。勿論方向は縦である。 「すみません……僕、今日、眼鏡の調子が悪くて……これ、スペアなんですけど、よく見えてなくて。でも近くで見たら、時々近所でお会いする方だって思い出して……。本当に今日は失礼しちゃってすみません。また後でお詫びにお伺いします。何号室ですか?」 近所住まいだからと言う程度で、そんなに容易に人を信じて大丈夫なのだろうか? 余りの警戒心の無さに半ば呆れながらも、山野は近くの目立つ目標物と共にマンションの名を確認する。念を入れたのだが、矢張り間違いなかった。 部屋の番号を伝えると 「ああ、10階ですね。僕、3階の308号です。そうか、僕の真上になるんだ……」 ふわり、と花が綻びたように微笑む美貌に、思わず山野は見惚れてしまった。 しかし内心の動揺とは裏腹に、身についた習性で、ジャケットから名刺入れを澱みなく取り出し、青年に手渡す。無意識に取った自分の動作で我に返った山野は「携帯番号は名刺通りの一つのみだから」と付け加えた。 彼は名刺に目を走らせながら素早く自分の携帯を取り出し、早くも番号をワンギリしてくれる。 「あ、メアドも送りますね」 そう告げられ、両手で施される見事な速さのキータッチを眺めていれば、10秒もかからぬ間にショートメールの着信音が鳴る。おっとりした風情とは反対に、行動は随分テキパキとしている。 そのギャップに山野は新鮮な驚きを感じた。 こういった対応に素早いのは、矢張り昨今の若者という事だろうか。 「今、メアドをショートの方で送ってあります。携帯、同じ会社だから番号だけで送れると思って……。あ、僕、楡岡(にれおか)と言います。あの、今日は本当にすみませんでした。それと……庇って頂いて、有難うございました。気をつけてお仕事、行ってらして下さい」 にっこりと微笑み、乗換の入口まで見送ってくれる。挙句、軽く手まで振ってくれた彼に応えながら、今度こそ山野の頬はだらしなく、盛大に緩んでしまった。 ……新婚早々の新妻でも、こうもしおらしくはないだろう。出来るものなら仕事などうっちゃってそのまま何処かに連れ込みたい。 しかし、最初に妙な格好をつけてしまった。お蔭で彼には山野が清廉な印象に映ってしまっているに違いない。紳士的かつ、スピーディーにコトを為すには少々の時間と手間が必要だろう。 幸いにして本日は週末、花の金曜日である。その上、相手はわざわざ自宅に訪問までしてくれると言う。これもきっと何かの縁だろうと山野は都合よく思いこむ事にした。 好みの相手を確実に落とす為ならば、手間隙をかけた戦略を練るのも楽しみのうちだ。 それに、こんなに純粋なときめきは久しぶりだった。無意識に浮き足立っていたらしく、職場で鼻歌まで口ずさんでしまう始末だ。 比較的、鈍いと言われる後輩の社員にまで 「山野さん、えらいご機嫌っすね。なんか良い事あったんすか? いつもと顔つきがマジ違うんすけど」 などと言われてしまった。 こうして同じマンションの住人、楡岡慧(にれおかけい)18歳と、山野の風変わりな関係は始まった。 早速昼休みに返信した携帯のアドレス側に相手からのメールが入っていた。今夜にでも部屋にお詫びに伺いたいとの言葉に、山野は内心でガッツポーズを取った。 正に狼に赤頭巾、もしくはカモネギそのものなシチュエーションだ。 痴漢と間違えられたのは業腹だが、こうも話がスムーズに進んだ上に相手に好印象を与えられた。いっそ今朝の痴漢親爺には感謝の念すら覚えてしまいそうだ。 挙句、相手は自分を痴漢に間違えたと言う引け目まで感じてくれている。この調子なら今宵のうちにあの美貌の違った表情が、とっくりと拝めるかもしれない。 そうと決まれば残業は避けたい。 「楡岡……慧くんね。へえ。なんか芸能人みたいな名前だなあ。にれおか、ね。珍しいけどある苗字だよな」 慧に、20時頃には帰宅予定だ、と返信を打ち、山野はいつもに増して当日業務を手際よく片付け始めた。 順当に仕事は片付き、週末にしては珍しく定時に帰社が出来そうだった。机の周辺をバタバタと片付けていれば 「あ、いたいた、おい、山野、行くぞ!」 と課長に呼び止められた。手はお決まりの猪口をぐい、とひっかける仕草をしている。 「へっ? 今からっすか? 聞いてませんが……」 「ん? なんだ。デートでもあんのか?」 「いやぁ……そういう訳じゃあ……」 精一杯眉間に皺を寄せ、渋ってはみたが、課長には通じない。結局引き摺られるようにして、行きつけの居酒屋に同行を余儀無くされたのは予測外だった。 どうも今朝から大事な時に限ってタイミングを踏み外す。プチ厄日かもしれない。 結局、帰宅出来たのは22時を回っていた。慧からは20時前に確認メールが入っていたので帰宅が遅れる旨を返信してある。 酒量を押さえるのに苦労したが、お蔭で頭はまだ明晰だ。軽くシャワーを浴びてから慧にメールを打つ。 すぐに行きますと言う返信に、顔がだらしなくニヤけるのを止められない。ベッドヘッドの引き出しに小物の準備も怠らず、後はどうやってそこへと誘うかを考えれば、鼻歌が漏れそうになってしまう。 呼び鈴が鳴り、山野はゆったりとした足取りで待ち人を部屋へと迎え入れた。 こう言う時、男同士であればいきなりベッドと言う配置の部屋に招いても違和感がないのは有難い。ローテーブルの上にはアルコール飲料しか置かなかった。素面でいきなり口説き倒す自信は流石に無かったからだ。 未成年だと言う言葉は口にしながらも、慧も歳相応の興味を見せた。用意した甘い口当たりのカクテルが口にあったらしく、美味しいと言って少しずつ杯を重ねていく。 甘い割には、お詫びにと慧が持参してくれたオリーブの実の塩水漬けとも、合うようだ。 山野も慧に合わせ、ゆっくりとしたペースでグラスを干す。 「そう言えば、慧くん。ご実家は?」 名で呼んでも良いかと言う確認はとっくに済ませてある。一人暮らしという事は地方の出身かな、と思い、何気なく聞けば 「あ、はい。近いんですよ。松濤です」 躊躇いも無くすらり、と出てきた地名は山野の思惑を随分離れていた。 「え? 松濤ならすぐじゃん。勿体ない、何で一人暮らししてんの?」 最寄り駅から歩いて帰宅出来るほどに近い場所だ。しかし結構踏み込んだ山野の質問に不快さも見せず、慧は素直に事情を説明してくれた。 「あ、父が決めたんですよ。自分が学生時代に留学をした時、全然家事が出来なかったそうなんですよ。それでかなり苦労したらしくて……。で、子供には、早い内からそう言う面で、教育とか自立をさせなきゃって、思ってたみたい。僕の上に兄と姉がいるんですけど、2人共、大学に入った時から学費と生活費を渡されて、その範囲で自活しなさいって」 「へえ、そうなんだ。で、お父さんってどんな事してる人?」 何気なく尋ねたその質問に 「あ、はい。大学教授をしてます。専攻は西洋史なんですけど……」 多分どこかの社長や企業オーナーではないかと言う山野の推測は、見事に外された。 「へっ? 西洋史の教授……確か実家、松濤っつったっけ……あの、教えてる学校は?」 山野の頭を衝撃が襲った。何かがひっかかる。 ……もしかして。いやしかし……楡岡と言う姓は確かに、かなり珍しい。 「M大学です」 慧のその回答に山野は口を開ける事しか出来なかった。間違いない。 山野の出身大学の教授である。目の前に鎮座し、顔を仄かに薄桃色に染めているのは、間違いなく恩師の息子であった。 (……マジかよ……ダメじゃんこりゃ……手ぇなんか出したら……大事だぞ……) 沈黙してしまった山野の様子を、慧が首を傾げて見つめている。 「え、山野さん?」 不思議そうに尋ねてくる慧に、山野は深々と溜息を落とした。 狙っていた獲物が、ノンケこと、ゲイではないのは想定内だ。結構、世間知らずそうなお坊ちゃまらしい上にこの美貌。そもそも高嶺の花である事も覚悟していた。それでも、きっかけはモノにした。 すぐにでも手に入るかと期待してしまう程、急速に親密さは増していると思う。相手に軽い信頼感や好意を覚えさせる手順は酷く順調だった筈なのに。 それに口説きをどう入れるかと言う仕上げの段階になって、この結末である。 折角手が届きかけた高嶺の花。手に掴もうとしたその寸前で、思いもつかなかった峻険で新たな難関を示され、山野は、酷く呆然としてしまった。 軽く息を整え、何とか落ち込んだ気持ちを少しでも引き立てようとした。まさかそんな心情を、馬鹿正直に告げるわけにもいかない。 専攻学科も違うために直接教わった記憶はないし、楡岡教授とは面識も無い。が、名を知っているどころか、著書も読んだ事がある。かなりユニークで噛み砕かれた内容は面白かったし、新刊が出ればチェックもしている。 何より、彼は母校の誇る名物教授だ。 「あの、山野さん? 大丈夫ですか? 僕……変な事言ったのかな……?」 教授とは殆ど似ていない面差しの慧が不安そうに山野の顔を覗きこんできたのに 「や、ビックリしたんだ。俺さ、そこ出身なんだよ。今の政治経済学部。苗字に聞き覚えがあった筈だよな。まさか、楡岡教授の息子さんとは思わなくて。凄い偶然だねえ」 苦しい微笑を交えながら、出身大学を正直に話す。 そうなんですか、と目を見開く慧に、山野はいつもの営業スマイルを必死に浮かべた。しかしさすがに落胆は隠せず、目の前のドライジンを、自棄気味に喉に叩き込む。 「うん。専攻が違うから教わった事はないんだよ。けど授業は何度か聴講したな。楡岡教授ってウチのアイドルみたいな人だし。教授の本も俺、結構好きで持ってるよ。素人にも解りやすく砕いてあるし、面白いよね」 そして、ふと思いついた事を慧に質問してみる。 「で? 慧くんは何でW大?」 「ええ……親と同じでも問題ないんです。僕は日本史がやりたいんですけど、結局は文学部ですし。でも……何となくなんですけど」 ああ、と山野は頷いた。矢張り同じ系統で教授の息子と言う事実が知られると、色々やりにくいのかもしれない。 「それに自立するために一人暮らしをするんだし……僕の好きな先生も今の大学にいらしたから。本当は県外に憧れもあって本命に行きたかったけど、落っこちちゃって……」 恥ずかしそうに言うので本命を聞けば「○大学でした」と言う。どうやら慧の家では、父を筆頭に兄も姉も赤門出身らしい。母は某芸大卒で、自宅でフルート教室を運営しているそうだ。 とは言え、まさしくエリート一家そのものだ。その中でも自分の学力が到底赤門には届かないと解っていた慧は、かろうじてひっかかりそうな関西のO大学を選択したそうだ。私大一本と言う選択も考えられただろうが、慧なりに意地もあったらしい。 しかし受験当日に大風邪を引き込んでしまい、結局、本命はあえなく断念する羽目になったと言う。浪人して再度希望大学を受けると言う選択もあった。しかしオープンキャンパスで感じた雰囲気がとても開放的で好感を持ったので、今の大学を選んだそうだ。 「だから僕は家族の中では一番落ちこぼれで不肖の末っ子なんですよ」 柔らかな雰囲気に似合わない、苦い笑いを慧が零した。家族は慧がO大に行けなかった事などについて、全く気にしていないらしい。それでも慧なりに少しは心に、わだかまりがあるのだろう。 とは言っても、私大のうちでは充分、エリートの部類に入る大学に通えているのだが。 一人暮らしとは言え経済的な支援は全て親がかりだ。庶民からすれば、贅沢極まりない環境だが、お坊ちゃまにはそれなりの鬱屈もあるのだろう。 山野とて、経済的にこそ全く不自由の無い生活だったが、家庭的には複雑だ。戸籍謄本上では、近年の法改正により記載が子となっている。しかし内情は婚外子と言われる出身だ。 慧は末っ子だけあって、マイペースではあるが、決して我侭ではない。むしろ遠慮がちで、内気な性格だ。しかし陰気ではないし、今朝のように肝心なところではハッキリとした意思表示も出来る。家庭の躾は確かに厳し目だが、根本的には甘やかされて育っている部類だろう。 時折見せる独特の品の良さや、おっとりした風情からは、お坊っちゃま育ちの世間知らずと言った感が拭えない。 「そう言えば山野さん、お勤め、通信関連って名刺に……難しそうですよね。でも今朝の説明とか聞いてても凄く説得力があったし、きっとお仕事もバリバリ出来るんでしょうね」 話の流れ上、慧の興味は山野へとごく自然に振り向けられた。仕事が出来そうと言う言葉は、あくまで社交辞令の類だとは思う。 とは言っても、素人の筈の慧に今朝のトークに説得力があったと感じて貰えたのは、嬉しい限りだ。業務内容については、今年大学に入ったばかりなら、活字のイメージで推察しているだけだろう。 苦笑交じりに、 「慧くんもパソコンでインターネットは使うって言ってたろ? このマンションなら光かな。その申し込みの時に光の回線と一緒に、プロバイダ契約ってしただろ? 要はインターネット用の窓口会社なんだけど。そのパソコン用で企業さん向けの商品とか設備の営業が俺の仕事。大学で皆が同時にネットとか見られるようになってるアレだね。難しそう?」 なるべく端折って説明してみれば、慧は小首を傾げながら、 「無線用のスポットとかもあります。あの中の通信用のソフトとか設備の事かな? なら、技術そのものが商品な訳だし、相当色々解ってないと無理でしょう? 企業さん相手なら余計大変じゃないんですか? 商品関連のハードの知識とかも、かなり必要だろうし」 考え深そうに、そう、応えた。 彼の洞察力の鋭さと本質を捉えた言葉に、山野は内心で舌を巻いた。正にその通りである。おっとりとした雰囲気を侮り過ぎていたかもしれない。 慧はと言えば、山野の言葉が気に障った気配は全く感じられず、目の前のカクテルを美味しそうに少しずつ飲んでいる。その様子に、山野は安堵の息を微かに漏らした。 確かに慧に説明した仕事は一番簡単な部類で、山野の担当はそればかりではない。もう一つの関連会社の通信機器や主回線の構造、仕組みなどの専門知識は必須である。 その上に商品関連の専用資格の試験もある程だ。しかしこれはベテランでも泣かされる事の多い相当複雑な代物だ。当然上手く説明する自信は全くない為、敢えて触れなかったのである。 結局、その日は明け方まで色々と話し込み、挙句、同じベッドで眠り込んでしまった。 他愛の無い話をしていても、慧は酷く素直な上に無防備だ。しかし初めて飲んだときのように、中々聡く、鋭いところもある。そのギャップが魅力的で、会う度に惹かれていく。 彼の余りの清らかさが眩くて、今までの相手のように、安易に手を出す気には到底なれない。 とびきり大事にして……出来れば、慧にも本気になって貰えるならば……。 そう思うようになるまで、さほど時間はかからなかった。随分な高望みかもしれないが、努力はしてみる価値がある。 確か教授は、かなり富裕な資産家の出らしい、と言う噂も聞いていた。そんな家庭で庶事に通じた家事全般を子供の頃から抜かりなく叩き込むのは逆に大変だろう。 しかし教授は子供達の小さな頃から、自分の身の回りの事は自分で出来るように、と徹底して躾けてきたらしい。これは慧の言うとおり、教授自身の苦い経験に基づいている。 長男が生まれた時にそれを思い出した教授は一計を案じたそうだ。子供が幼少の頃からベテランの家政婦さんに協力を頼み、週に一度、家事を習わせたのである。要は、必須の習い事の一つとして、基礎的な家事の修練を課したのだ。未だ教授もアイロンかけが得意だそうだ。 中でも慧が得意なのは掃除と洗濯、父と同じアイロンかけらしい。確かに彼のシャツにはいつも綺麗にアイロンが当てられている。 料理もごく初歩的な事は一通り出来るらしい。魚の下ろし方や、揚げ物までは教わっていないそうだが。 とは言え、母親でなく、家政婦さん仕込みだったか、と山野は内心で苦笑を禁じ得なかった。しかも話を聞くだにまるでカリキュラム式のような教育方法は、矢張りどこか浮世離れしている。慧の口ぶりでは母親は箸とフルート以外に重いものを持った事の無い育ちのようだった。
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