痴漢は恋のキューピッド?! **2/4**
きくち 和

 以来、すっかり慧と山野は親しくなった。最初は君づけで呼んでいたが、慧自身の希望で最近は名だけを呼んでいる。流石に慧は山野さん、と呼び続けているが、時折冗談めいて皓三(こうぞう)さん、と下の名を呼んでくれる事もある。
 まるで一回り歳の離れた、ごく親しい親戚のような雰囲気だ。親を追う雛のように慧に慕われるのは、兄弟や、歳の近い親類縁者のいない山野にはとても新鮮で、嬉しかった。
「僕、兄や姉とも……喧嘩ってした事がなくて。友達とかも割と大人しいし。親戚は、海外とかで滅多に会えなくて」
「ふうん。じゃ、勿論取っ組み合いなんか」
「ないです」
「だろうなあ。俺は親戚とはないけど、ガキんときゃ近所の連中と多少、やってたからな」
「一応、男だからって護身術とかは習ったんですけど」
 真顔で言う辺りがまた可笑しい。
「じゃ、俺、ひょっとして、投げ飛ばされるとこだった?」
 おどけて聞けば、
「あの時は、兎に角ビックリしたんです。前……握られたから……なら、どう考えても男性狙いだし。ガラス越しに見たら、怪しい場所には山野さんしか見えなくて。こんな背も高くて格好いい雰囲気の人がどうしてって。半分ドキドキしてました。でもあの人って解ってたら、護身術も、すぐに使ってたのに」
 要は人違いの可能性が高すぎて、山野に忠告した時点ではまだ、我慢をしていたらしい。
「あの親爺、お前よりまだ背が低くて、細かったろ。しかもあいつ、お前にケツ向けて横向いてたじゃん。あれな、後ろ手で触ってたんだよ。俺も上から見たから解ったけど……ありゃほんっと、上手いもんだって、いっそ感心したぐれえだもんな。ガラス越しじゃ見えねえだろうな」
 そう説明すれば、慧は悔しそうに顔を真っ赤に染め、
「山野さんも山野さんですよ、 痴漢と疑われたのにそんな……感心だなんて、もう。今度見つけたら、絶対許さないですよ。山野さんも証言して下さいね?」
 と憤っていた。普段おっとりしている慧には、余りに似合わない台詞に、山野は失笑を隠せなかったものである。
 ともあれ、朝、一緒の便に乗ることの増えた昨今は、山野の肩に凭れかかり、気持ち良さそうに眠ってしまう事も多い。すっかり気を許し、安心しきっているからこそ出る甘えだろう。

 しかし、山野としては一度芽生えた疚しい下心も、中々捨てきれない。
 それでも好意や敬意を持つ恩師の息子と言う重圧は、簡単には取り払えない。相手を本気で自分に惚れさせるにしても、未だ慧がノンケか脈ありなのかすら、ハッキリとは掴めない。
 付き合っている相手だの許婚がいない事だけは確認済みだ。押せばイケるタイプのような気はするのだが……まだ行動に移すには早すぎるとも思う。
 即、情事につながる駆け引きだの、クレーマー相手の説得は得意だ。しかし心の動きを伴う恋愛の方はカラキシだ。
 この王子様に薔薇の花束だの高価なディナーは余り有効ではない。
 彼の好物は各種魚料理と天ぷらに、炊き込みご飯とチラシ寿司だ。麺類では蕎麦が一番好きである。彼が大喜びするデートスポットは十中八九、大江戸博物館や、太秦の映画村、京都の寺社巡りではないかと思うのだ。

 つい先日も包丁を誂えようと合羽橋の道具街に連れて行けば、酷く喜んでいた。そんな姿を見ていれば、決して感触は悪くないようにも思えてくる。
 多分特別なイベントで急に盛り上げるのではなく、日常生活の中で徐々に気持ちを積み重ねていくのが有効なタイプではないか? と、これが山野が最近導き出した結論だ。
 ならばなるべく休みを合わせ、共に過ごす時間を増やすのが一番だ。その上で慧に妙な虫がつかぬよう、自分が盾になる。とりあえずはそれをこなすので精一杯、と言うのが現状である。
 しかし野望を完全に諦めてしまった訳ではない。チャンスはどこに転がっているか、解らない。諦めは愚者の選択だと、山野は自分に言い聞かせていた。
 
 最近は山野の休みに、慧が部屋に来ると言うパターンが多い。山野は一時期そちらの道に入ろうかと思った事もある程度には、料理が得意だ。慧が来た時には2人でメニューを考え、細々とした事を教えながら一緒に作っている。
 色気の無いこと甚だしいが、慧はこの料理教室を大層楽しみにしているらしい。
 たまには外に出かけて食事を共にする事もあるし、寄席や映画を見る事もある。内容はエッチを伴わない、恋人との地味デートそのものだが、山野の気持ちはとても潤っている。
 一回りも歳が離れているのに、好みが合う事も多い。感じて当然のジェネレーションギャップも、どこか浮世離れした慧とならば余り、感じない。むしろ山野の方が世知に長けている分、素直に学ぶ姿勢を持つ相手がいるのは嬉しい事だ。
 慧も
「僕、ちょっと学校では浮いてて……余り同級生とか……先輩と話が合い辛くって……」
 と嘆いていた。
「う〜ん……でも、大学だろ? もう義務教育ってんじゃなし、無理して周りに合わせる必要もないかもな。そのまま自然にしてりゃ、いずれ慧の良さとか、認めてくれる奴はいると思うぜ」
 そう慰めれば、
「ちょっと変でも、山野さんと一緒なら楽しいし。そうですね、気にしない様にします」
 などと、可愛い事を言う。余り現代物のドラマやバラエティ番組には、興味が無いらしい。時代劇や大河ドラマ、紀行や特集物の方が好みなのは山野も一緒だ。なので阿吽の呼吸で話が合う事が多いのも、酷く嬉しいらしかった。

 4月にはまだぎこちなかった包丁さばきも、秋になった今は随分上手くなってきた。
 スーパーでの買い物を見ても、慧は山野より余程、経済観念がしっかりしている。好物の魚にしても産地と鮮度を素早く判断し、無用な金銭は使わない。身につける物は多少、高価な品も使っているようだが、大事に手入れをして長持ちさせている。
 家事を教えてくれた年配の家政婦さんとは気が合い、よく懐いていたようだ。彼女の質素で堅実な人柄を感じさせる感覚は慧にも確実に踏襲され、山野にも、とても好ましいものだった。
 料理も肉じゃがと味噌汁が初心者にしては中々で、筋の良さが見えていた。教える側の山野の好みに合わせようとしてくれるのが余計に、いじらしい。
 掃除は得意と言うだけあり、部屋は常にスッキリと整えられている。ただ料理に関しては経験や慣れがまずモノを言う。その上、手先が余り器用な質ではないらしく、もどかしい思いをしているらしいのが、時折窺える。
「僕も山野さんみたく……料理しながら片付けとか出来るようになれたらなあ。それに縫い物や着付けでしょ、お花にお茶まで……どうしてそんなに、何でも出来るんですか?」
 うっとりとそう言われた時には、男性として意識されていないのかと、かなり複雑な心境だった。 
 そもそも料理にしても母が着付けに、茶、花と3種の教室を持って働く身だった為、自衛として覚えた。その上に母が教えている科目と余禄は、山野にも身に付いただけだ。
「慧の方が経済観念は余程、しっかりしてるじゃん」
「それは、雑誌とかで見て……でも、本当に新聞のチラシはチェックした方がいいんですよ。品物とお店によっては結構、差がありますから」
 などと真顔で言うのが似合わない事この上ない。主婦層をターゲットにした雑誌もこまめにチェックしているようだ。その点については山野の方が、慧に教わる事も多い。
 お坊ちゃま育ちの世間知らずな所も、時折は垣間見える。しかし山野としては、猫っかわいがりの現在を結構満喫もしているのであった。

 未成年ではあるが、少しずつ酒の味を教えるのも楽しい。煙草は2人ともやらない為、もっぱら酒と料理が中心になる。
 慧はアルコールが割と好きらしい。余り強くない上に酔えば眠り込んでしまうタイプである。味覚は中々鋭いのだが危なっかしい事この上ない。山野が同伴していない時は、絶対にアルコール類を飲まないと言う約束で、最近は居酒屋やバーにも伴うことが増えた。


 暮れ行く秋も深まって、早くも木枯らしの吹く日が増えた。ぼつぼつ熱燗の美味さを慧に教えようかと思い始めた頃の事である。
 山野はここ最近、単発の出張が3度も入ると言う忙しい日々が続いた。やっと取れた休みの日には慧の大学の行事が入る。そんなすれ違いで、中々顔を合わせられなかった。
 漸く2週間ぶりに時間が合い、前々から慧の行きたがっていた居酒屋での食事となった。

 その帰宅途中の電車の中。
 久々に2人で食事をするのや、初めての熱燗が嬉しかったのか、山野が気づいたときには、慧は少しばかり許容量を過ごしていた。いつも節度の取れている彼にしては、珍しい。
 今はすっかり安心しきったように山野の肩に凭れ、すうすうと安らかな寝息を立てている。
 コトンコトンと言う規則的な機械の音と心地よい振動が身体に響く。微かな酔いと相まって、丁度良い人肌のぬくみが身体に沁みる様だ。
 山野も僅かな眠気を覚え、小さく欠伸をしていれば
「あ、やっぱり。コーちゃんじゃない。お久しぶりね。最近見ないけど元気だったの?」
 頭上から声がかかり、ふと目線を上げれば春先までよく通っていたバーのママだった。ガラあきの車両には、自分と慧以外には疲れて眠り込んでいる風情の年配の女性が一人きりだ。
 山野の隣にすとん、と彼が腰を降ろしてくる。ママと言う呼称だが、彼の性別は男性だ。要はそういう人種である。
 山野はバイではあるが、基本はゲイ寄りだ。女性とも一応は付き合えるのだが、好みは専ら男性だし、そちらの方が馴染んでいる。
「ああ。おひさ。逆方向じゃん、なんで?」
 新宿方面に出勤をする筈だが、反対方面の電車に乗り込んで来たのは妙だ。
「忘れ物しちゃって。店は若い子に任せて帰ってるトコ。歳食うと色々ダメね。ねえ。それよか暫く顔みないと思ったらまた随分若いの連れてるじゃない。まさか高校生じゃないでしょうね。毛並みもよさげだしさ。どこで捕まえたのよ? 相変わらず手が早いんだから」
 ママは山野越しに身体を乗り出し、慧に顔を近づけた。
「あらあら、ほっぺ、ピンクにしちゃって。可愛い」
 と呟きながら、酔いで薄桃色に染んだ滑らかな頬に触れそうになる。山野は慌てて軽く彼の胸に掌を当て、それ以上の接近を阻んだ。
「おっと、ストップ。この子、大学の恩師の息子なんだよ。だから手出しご法度のノンケ。マジに俺、ここ半年、禁欲生活の生殺し。同じベッドで寝ててもトイレで済ませてんだから。でも、本当にいい子なんだ。もう可愛くってさ」
 苦笑交じりに伝えながら、山野は慧を見やる。目にかかる髪を軽くはらってやる仕草にママは大げさに身を反らしながら目線を上方に走らせた。
「あー、聞いてらんない。あんなにオシモのルーズなコーちゃんが遂にプラトニックラブ? あんた確かまだ30よね。まだ枯れるにゃ早いんじゃない? ま、精々トンビに油揚げになんないようにね。……ってか、ちょっと。便所でなんて勿体無い事しないでよ。あたしならいつでもOKなんだからさぁ。お互いさぁ、相性バッチシだったじゃん……」
 ママがぐっ、と声を潜め、意味深に語尾を伸ばしながら山野の唇に自分のものを近づけた。彼とは何度となく、身体だけの悦楽を楽しんだ仲だ。彼の言うとおり、そちらの相性もかなり良い。
 とは言え電車の中でのキスに及ぶほど、もう彼には欲情を覚えないし、その必要もない。苦笑交じりにお断りをしようとした途端、ううん、と声を上げて慧が寝返りを打つ。慌てて2人は身を離した。

 アナウンスが、山野の降車駅まであと2つになった事を告げる。ママは停車した駅で乗換だったらしく「またお店にも顔見せてね」と告げながら、立ち去った。
 
 山野は自分の肩で再び寝息を立て始めた慧の顔をじっと見つめた。左右を視線のみで鋭く見回せば車両の中にはもう一人、乗客が増えていた。しかし、そのサラリーマンも口を半開きにして早々に眠りこけている。これは、チャンスかもしれない。
 そっと慧の唇に指を置く。ふっくらと柔らかく、吸い付くような感触は予測通りだ。
「慧……そろそろ降りるぞ」
 声をかけても、返事は無い。すっかり安心して寝入っているらしい。
「慧……」
 囁きながら、山野は思い切って唇を軽く合わせた。ぴくり、と慧の身体が揺れた気がするが、目は閉じたままだ。
 ゆっくりと下唇を挟み込み、ほんの微かに、舌先で唇をなぞっても、慧は動かなかった。眠りを妨げない程度の、しかし最大限の濃厚なキス。時間にすれば30秒に満たない程だったかもしれない。
 車内に、次の停車駅のアナウンスが早くも流れ始めた。しっとりと甘いような感触をもっと楽しみたいが、公共の場で余り長い接触は危険すぎる。その優しい体温を惜しみながら山野は身体を引き剥がした。
 そして今度は少し強めの声で肩を揺すって呼びかける。
「慧、起きろ。次で降りるぞ」
「ん……んー……はい……」
 目を擦りそうになった手を眼鏡にぶつけ、慌てた様に、慧は瞬きを繰り返した。山野と出かける時にはレンズの面積の小さな、素顔に近いフレームレスのものをかけている。
「素顔の方がいいけど、却って目立っちゃうかな」と何気なく零した山野の言葉を真に受けたらしい。山野は単に、綺麗で目立つと言いたかったのだが、慧の脳内では目立つのは罪悪と言う図式が成り立つようだ。
 普段は出逢った時の、紺のメタルフレームのもので地味に、目立たぬようにと考えているらしいが、害虫除けにはそれが正解だ。
 慧はフーッと長いような吐息を漏らし、ボンヤリと目の前を見つめている。まだ酔いは結構残っているらしく、頬や耳に血の気がほんのりと上っていた。
「さ。帰るぞ、眠り姫。部屋のベッドでなら幾ら眠ってもいいから、しっかり歩けよ」
 茶化すように告げ、ぐい、と腕を掴むようにして立たせて駅からマンションへと歩き出す。酔いが醒めないのか、慧は自分の部屋まで山野の腕にすがりつくようにしてくっつき、中々離れようとしなかった。
 ドアの鍵を開けた辺りで漸く酔いが醒め始めたらしく、小さな声で、
「今日はごめんなさい」
 と詫びる。
「気にするな、少し俺も飲ませすぎた」
 山野も詫びながら、慧の足取りの確かなのを確認してから部屋へと引き上げた。
 明日からは課長から指示された2週間の長期出張だ。また、暫く慧の顔が見られない。あんな公共の場で、触れるだけにしては少し濃い目のキスをしてしまったのは、多分そのせいだろう。
 すっかり一回りも年下の青年に恋しているのを山野は自覚する。大事にしてやりたい。可愛がりたい。
 最初は教授の息子だと聞き、面倒臭さと罪の意識が先に立った。一時期は兄貴分でいるだけで、こう言う感情を諦めてしまえば楽になるかとすら、思った事もあった。
 それでも諦め切れず半端に関わりすぎた功罪か、今ではすっかり骨抜き状態だ。可愛くて、愛おしいからこそ、迂闊に手を出せない。
 つい半年前までの自分ならば、下心のみでとっとと頂くものは頂いていた。そして確かに最初はそのつもりだった筈だ。想いが深まるほどに、欲と、この関係が最悪の状態で破綻した場合の恐れも増していく。
 ママとの会話を思い出すと、過去の自分の節操の無さと、今の臆病さとのギャップが可笑しくなってくる。

 風呂上りにビールを干していれば携帯がメールの着信を示していた。慧からだった。
『今日はお世話をかけてしまって、すみません。久しぶりに会えたのが嬉しくて羽目を外してしまいました。教えて下さったお酒、とても美味しかったです。明日から2週間出張でしたよね。長い期間ですから少し寂しいけど、体調には充分気をつけて行ってらして下さい。お話してくれた現地名物の写メール、楽しみにしています。おやすみなさい。慧』
 いつもの様にとても丁寧で、そして優しさと気遣いの滲む文面に、目元が緩んだ。
「慧……」
 思わず名を囁き、触れた唇の感触をリフレインするように、自分の唇に指を当てる。まるで初恋相手にキスを受けた少女のような己の反応に、深々と吐息を落とす。
 メールの着信時間を見れば、ほんの3分ほど前。まだ起きているのなら声を聞きたい。何もしなくてもいい。せめて一緒に彼の体温を感じて眠りたかった。

 携帯に登録してある、慧の短縮番号を入力する直前に、着信が入った。直属の課長からだ。こんな時間にと不審に思いながらも、出てみれば、2週間の出張が1年の出向辞令に化けたと告げられた。
 驚愕する山野の耳に課長の非情な台詞が突き刺さる。
「すまん。関西事業部経由でお鉢が回ってきてな。俺もお前に出られちゃ困るから相当渋ったんだが、ウチの部署ですぐに身動き出来るのはお前しかいねぇんだよ。特例尽くしだし、目処がつき次第、途中からでも戻れるように努力はしてみるから。ここは頼む」
 引越し休暇はとりあえず通例より多めに見てくれたらしいが、既に出向先の社宅まで押さえてあるらしい。余りの出来事に呆然として通話を切り、へなへなと山野はベッドに崩れ落ちた。
 飲んでいないつもりで、結構過ごしていたのは慧と同様らしく、そのまま山野の意識はブラックアウトしていた。

 山野の勤める会社には、静岡、岐阜、富山を境目として国内を東西に分ける関連会社の所轄意識が根強く残っている。出向先は高知であるから、本来の所轄は関西事業部である。
 東京勤務の山野が今回、2週間の出張をする事さえ、特例枠での話だった。
 それが1年とは言え、出向となれば尚更、担当である関西事業部から人員が派遣されるのが筋だ。しかしその中には動ける人員が皆無だった。
 結局、同一の業務内容を持つ部署でもあり、山野の上司と親しい関西事業部の同僚に泣きつかれて出た、苦肉の策らしい。
 課内にも山野以外に出向先で仕事をこなせ、転勤の可能な人材が、何人かはいた。しかし今回はその該当者が全員、身動きの出来ない物件を抱えていたり、既婚者で家庭的に動けない状態だったりした。
 結局、独身でもあり、何とか身動きの可能な唯一の人材が、山野だった訳だ。しかも、この辞令は山野の部署と、関西事業部と言う2つの事業部の越境をこなす、特例措置だ。
 当然、この緊急事態を担えた人材は、余程の落ち度でもない限り、帰社後の昇進を約束されたも同然だ。そして部下の余得は、大抵、上司にも及ぶものである。
 とは言え、山野にすればとんだ災難だ。自分にとて慧と言う家族以上の大事な存在が、と、どれほど口にしたかったか解らない。

 翌日、部屋に訪ねて急に降ってきた辞令の話と共に、暫しの別れを告げれば
「仕事だもんね、仕方ないですよね。急で……でも山野さんの方が大変だもんね。本当に寂しくなるけど……。でも、1年したら戻れるんですよね? ならまた会えますよね。どうか、身体だけは大事にして下さいね、風邪とか、ひかないで……」
 目に少しばかり涙を浮かべて語尾を震わせ、まるで自分に言い聞かせるように。けれどもどこか諦めたような口調で、そう、告げられた。
 きつく、抱きしめたかった。なのに結局交わせたのは、暫しの別れを告げる、固い握手だけ。何とも言えぬ寂しそうな慧の顔と潤んだ瞳が、瞼の裏に、焼き付いた。


 頻繁に東京に戻りたいのはやまやまだが、出向先の四国とは余りに距離が離れていた。それでも所用で本社に戻るたび、慧の予定があえば、顔を合わせる事は出来た。
 遅まきながら興味があるサークルがあるので、それに入る事にした、と言う話や近況を聞き、顔を見れば少し安堵する。
 少年から大人へと、着実に表情や雰囲気の変わる相手の成長を見るのは嬉しくもあり、切なくもある。日増しに憂いを帯びたような美貌に拍車のかかる慧を見る度、たまらぬような焦りがこみ上げた。
 いっそこの気持ちを告げ、身体だけでも繋げて、自分を刻印してしまえれば、と何度も迷った。
 しかし、課長からは絶対に1年後には戻してやる、と断言はされていた。たった1年の為に今までの努力を水の泡にするのは悔しい。
 どうせなら、きちんと段階を踏んで、それなりに気持ちを告げたい。帰郷したら、今度こそ早いうちに機会を作り、気持ちを告げよう、と山野は決意した。
 今までの遊びとは、全く気持ちが違う。大げさかもしれないが、結婚を申し込むくらいの勢いで、自分は慧を見つめている。
 物理的に距離が離れてしまった焦燥感から勘違いをしているのかと、無駄な事も考えてみた。しかし、たまさか東京で会っても、焦がれるような想いは、募るばかりだ。

     こんな一方的で重いような気持ちなんか、若いアイツに押し付けても……躊躇うだけだろうに。
 歳を経る事によって自由になる事も増える反面、段々臆病にもなっていくのだと言う真理に、気づく羽目になるとは。たった一人の人間に出逢った事で、半年の間に人生観や考え方がこうも揺れ動くなどと、考えもしなかった。
 今までにも誰かを好きになった事は有ったし、恋もして来たつもりだった。けれどもそれらの大半は、一層刺激的に身体を繋ぐ為の前戯的なラブゲームに過ぎなかったと気付いてしまった。益々、自分が恥ずかしい。
 たった一人を飢える程に求める惨めさを自分が味わおうとは、予想だにもしなかった。愛人と言う立場に甘んじ続けた母の人生を傍目に見て、もっとスマートにやれないものかと馬鹿にすらしていたと言うのに。
「なんてザマだ……」
 山野は苦いような言葉と共に、深い溜息を落とした。

 ジリジリと燻るような内心の焦りを噛み殺しながら、多忙な仕事で気を紛らせた。カレンダーに×印を刻み続け、漸く帰社が叶う事が決まった2週前。
 以前、借りていた部屋はとうに解約していた為、連絡を入れた不動産屋に同じマンションの空き室がないかと尋ねてみた。 
 結構部屋数が多い大型マンションでもあったが、家賃の割に設備や駅への便も良く、人気もあった。しかしタイミングさえ良ければ山野が住んでいた時にも、常にフロアに1室くらいは空いていたものだ。
 祈るような気持ちで聞けば、
「あーっと、ああ、丁度いいですね、今なら5室、あいてますよ。一番お安いのが3階になります。306と307ですね。奇数のお部屋は前と間取りが逆になりますけど」
 山野は巧みに不動産屋の社員に誘導尋問をかけてみる。
「ああ、助かった。307なら確か隣、楡岡さんだったでしょ。私、以前に階は違うけど結構親しくして頂いてましてねえ。まだ彼がいらっしゃるなら隣にして頂けると助かるんですけど」
 彼女の返答は軽やかだった。
「ああ、楡岡さんですね、学生さんの。まだいらっしゃいますよ。なら、お隣の307でお取りして宜しいでしょうか? 申し訳有りませんが契約は再度新規の扱いとなりますので……」
 メールでのやりとりはほぼ毎日続いていたし、引越したとは聞いていない。しかしそれも確認するまでは不安でならなかった。間違いなく、慧は以前と同じマンションに住んでいる。そして自分は、2週間後には、隣の部屋に帰れるのだ。それが決まっただけで、胸の支えが一つ落ちたように思う。
 敷金などの話を女性が続けていたが、そんなものは慧の隣室になれるのなら安いものだ。山野の耳を不動産屋の声が素通りしていく。

 部屋が決まってから後も、慧には戻る日程や、部屋が隣室である事を黙っていた。誕生日も近いし、突然、しかも隣に戻った事実で驚かせてやろうと思ったのだ。
 業務引継など、多忙に紛れていたのもあり、ここ1週間はメールの返信すら覚束なかった。電話は以前から、余程の事がない限り、慧からはしてこない。挙句、今回は帰社に伴う引継の時点で、稀な程のトラブルが頻発した。その上に引越しの用意も重なり、平均睡眠時間は3時間程度と言う悲惨さであった。
 これまではどんなに多忙であろうと、慧からのメールにはきちんと毎回、返信をしていた。しかし今回の余りのレスポンスの無さに慧も不安になったのだろう。たった一度、3日前の真夜中に、着信履歴が残っていた。
 留守電には軽い吐息の後で、
『あ……の。僕、慧です。真夜中にごめんなさい……。ここのところ……メールとか返事が、その。ないから……元気かなと思って。僕も沢山メール送りすぎてて、ごめんなさい。お仕事がきっと忙しいんですね。風邪ひいたりとかしないように……してくださいね。遅くに本当にごめんなさい。お休みなさい』
 いつもの優しい、なのにどこか寂しげでたどたどしい口調で、そう、残されていた。そのメッセージを聞いた途端、山野は胸が締め付けられるほどの痛みを覚えた。
 
     叶うものならば今すぐに、飛んででも東京に帰りたい。
 今までの自分ならば考えもつかぬ、陳腐極まりない発想だ。そんな事を考えたのは、初めてだった。間違いなく2週間後に帰省できると言う保証はない。信じるものは、会社から下された辞令の紙切れ1枚だけ。
 この転勤が決まった時のようにたった一瞬でそれすらもまた、どう変わるか解らない。書類と、課長が漏らした、間違いなく戻れるぞ、と言う一言。
酷く頼りない筈のそれらが、今の山野の支えだった。
 すまじきものは宮仕えである。サラリーマンは思うように異動は出来ないものだ。
 それでも何とか予定よりは2日も早く帰省が叶ったのは幸運だった。引越し休暇と同時に溜め込んでいた代休をもぎ取るようにした、11月半ば。
 山野は漸く出向先の高知空港から、羽田へと降り立った。

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