Time lag〜1〜

 響く水音に、利明は目を開けた。
「……? 何時…」
 ふと手に取った枕もとの時計は丁度午前2時を指している。 
 全身に覚えのないほどのダルさを不審に思いながら、寝ぼけ眼で布団に半身を起こしたら今度はとんでもない箇所が、ズクリ、と痛んだ。
 誰かと寝た記憶はあるから、部屋の風景が違うのは驚かなかった。
 しかし、相手に覚えが無いのは初めてだ。

「……マジかよ………酔ってたけど…こんな…やっべえ…」

 未だ覚醒しない頭をバフン、とベッドに押し付けながら、誰とイタしたのかを思い出そうとした途端に、足音がペタペタと近づいてきた。
「おう、お目覚めか。良く寝てたからさ、朝早めに起こそうと思ったんだけど」
 聞こえた声に覚えがある。
 しかし、多分、彼では絶対に有り得ない。
 ナゼなら。
 同じ職場の中で、利明の一番大嫌いな人物のモノだし、相手も利明の事をバカにしているのが、解っていたからだ。

 だから、彼が相手だとは、思えない。
 よりによって気に食わぬヤツと声が似た男と寝なくても良さそうなものだが、したたかに酔っていたから、つい、判断が狂ったのかもしれない。
 そんな呑気な事を考えつつ、ジワジワと顔を上げたら、そろり、と唇を嘗められた。 
 一晩中、この暖かい体温に抱きすくめられ、鳴かされ、喘がされた記憶だけは鮮明だ。
 ねっとりと芯から味わうようにくちづけられるのに、思わず目を閉じ、引き込まれてしまう。
 キスの感想を求めるかのように絡められた指を、気に入った、と軽く握り返す。
「……やっ……」 
 じわり、と離れようとする体温が惜しくて、ねだる様に相手を睨みつけた、途端。

「!! なっ! なんでっ?!」
 目を疑う、とはこの事だ。
 有り得ないハズの顔が、そこにあった。
 突き飛ばそうとする腕をヒョイ、とかわされ、落ち着き払った相手はシレシレと言う。
「落ち着けよ。覚えてねーかもしんないけどさ、相当飲んでたから。でも合意上だぜ?」 
 差し出されたミネラルウォーターを奪うようにして一気に飲んだら、微かに記憶が蘇ってきた。

 昨夜は、確か、歓送迎会と花見を兼ねていて。
 長年片思いしていた係長が、何と北海道へのご栄転になってしまった哀しさの上に、子連れ女との再婚話が初めて明かされ、それだけでもショックだと言うのに…。
 アゲクには夫婦生活の露骨なノロケまで聞かされた。
 もう結婚は懲りたとか言ってた癖に、君も早く結婚しな、なんて説教されて。
 捨て身で絡んでやろうと、ヤケ酒を煽ったところまでは、記憶が鮮明だ。

…そこから先が、思い出せない。
「思い出した? 金子係長がさ、一次会で帰って。皆二次会行くっつってたけど、アンタ、かなり飲んでてさ。で、愚痴聞いてた俺がお守りを引き受けて。慰めちゃったっつーか。頂いちゃったっつーかさ」 
 ケロリとして悪びれもせず説明する、永木を、利明は呆然と見詰めた。

 全く、彼の言う通りなのだ。
 勢いをつけて飲みなれぬ日本酒を飲み、金子にさあ、絡もうと思ったら、足にキていた。
 それでも立ち上がって彼の側に行こうと目を座らせた利明の横で、調子よく酒を注ぐ人物が居た。
 振り払って、金子の側に行こうとするのに、ソイツが中々放してくれなくて…。 
 そこまで記憶を辿ったところで、ふ、と思い出した。 
 確か、引き止めていた相手はコイツだったように思う。

 確か、放せ、いや、ココに居ろと悶着をした時に聞き捨てならぬ事を聞いた気がする。
 それは抱かれている間にも時折囁かれ、疑問に思ったのに、余りの行為の激しさに追及し損ねた、とんでもないセリフだ。

「あんな女好き、とっとと見限っちまえ。ちょっと紹介したらすぐクッつくような尻軽オヤジなんか、忘れちまえ。絡んで大騒ぎしたってアンタが傷つくだけだろうが…」

 彼に似合わぬ、切なげな、苦々しい口調が耳に、よみがえった。
 しかし、聞き捨てならぬ言葉も含まれてはいなかったか?
 ……ちょっと待て、と、利明は目の前の男、永木を睨みつけた。
「誰が誰を紹介したって?」
 地を這うような不機嫌な声で聞いてみる。
 これで腰が元気なら右ストレートを繰り出しつつ聞いてやるところなのだが、あいにく、不本意極まりない状態だ。
 ミネラルウォーターの水をブッかける程度で済ませてやったのに、感謝して欲しい。
 が、敵もさるものと言うのか…覚えてやがったか、なんてニヤニヤしているのが気に障る。
 腰に巻いていたバスタオルで水滴を拭いつつ、淡々と彼は説明する。

「別に俺、ゲイに偏見あるとか言うわけじゃないけどさ。でも…あの男だけは止めとけって。
不毛すぎだよ」
 と、ボヤきつつ。


 利明の片想いの人、金子係長は…学生時代からかなりの女たらしとして有名だったそうだ。
 目の前にいる、永木と金子は同じ大学出身である。
 金子の卒業後に入学した永木は、別に彼との接触は無かったらしいのだが、彼の女性遍歴は、大学内の伝説として、かなり有名であり、その内容は大抵の遊び人ですら、思わず肩を竦めてしまいそうなものまであると言う。
 しかし、利明の知る金子には、多少女好きの片鱗は伺えても、とてもそうは見えなかった。
……昨夜までは。
 永木が淡々と語るところによれば、彼の乱行も3回生までで、官僚を目指し始めた4回生からの噂は絶えてないそうだ。
 金子なりに自粛したのだろう。
 当然、公務員であり、官僚としてスタートを切り始めるからには、セックス・スキャンダルは命取りだからだ。

 しかし、息抜き程度はわすれていなかったと見え、結構要領よく遊びもしていたようだ。
 そんなある日。
 軽い気持ちで知り合った女と付き合っていた所、相手が妊娠したと言う。
 まだまだ結婚する気のなかった金子は弱ったらしいのだが、女の素性を知った途端、態度は豹変した。
 当時、金子が配属されていた先の、担当部長の娘だったのだ。
 あれよあれよと言う間に華燭の展が挙げられ、一見幸せな新婚生活が始まったかに見えたのだが、部長の娘は存外、大変にシタタカであった。

 実は彼女には別に付き合っている男が居たのだが、それが到底父の気には、入らない。
 一計を案じた彼女は、妊娠を確認して後に金子に近づき、スピード結婚を果たす。
 その後、一指たりとも金子に身を触れさせることなく、子供の父親のもとに逐電してのけた。
 その後、すったもんだの末、彼女は自分の意志を通し、金子とは綺麗に離婚、無事、出産も終え。
 部長も娘カワイさに、結局娘の再婚を許し、金子に頭を下げることで一件落着を見たのである。
 
 しかし、そこは金子も、付け入る隙を逃すほど、純情には出来ていない。
 以来、金子の出世の糸口は、部長が導いていると、これは専ら、公然の噂であった。
 全くそんな噂には頓着していない風を見せているが、確かに、金子の人脈は、その事件以来、一気に広まっている。
 今回の彼の再婚相手は、元、銀座のチイママであった女だ。
 コンパで知り合ったらしいのだが、この席に、永木も居た、と言う。

 金子の再婚相手は最初、永木に言い寄って来たそうだ。
 しかし、永木は好みでなかったので、先輩に、と言う形で金子に譲ったのだと言う。
 コレにも、裏がある。
 永木は、今、若手の中で、もっとも優秀な官僚候補として目されている。
 それもそのはず、上級試験はトップの成績で入庁してきたと言う鳴り物入りなのだから。
 その噂を聞いていたチイママは、まず経歴の綺麗な永木にアタックをしかけてきたのだ。
 しかし、金子とて、離婚暦はあったとしても出世は間違いないし、既に若き官僚として権力を握りつつあるのだから、別にコチラであっても遜色はない。
 しかも、金子が自分に脈アリと見るや、彼女の身の翻し方は素早かった。 
 彼女の常連客は財務省のみならず、永田町にもご贔屓が多いようなので、金子としても、銀座の女としての価値以上のものを、彼女に見出していた、と言えよう。
 タダの女好きは、もう卒業した、と言うワケだ。 


 永木の話を聞きながら、利明は小さく息を吐いた。
 彼の話を信じるならば。
 昨日、彼に絡んだりしたら…ノンキャリア組の自分なぞ、クビどころの騒ぎではなかっただろう。
 結果はどうあれ、永木の引止めがなければ、とんでもない道化を演じるところだったのだ。
 かと言って、こう言う状況になるのも、ゾッとしない、と言うのが今の正直な心境なわけで…。
 

 利明は、2年前に今の部署に転勤してきた。
 ツトメは官公庁、と言うヤツだ。
 そこで、金子係長に一目ぼれをしたのである。
 丁度、時期的に部長の娘と離婚したばかりの頃だ。 
 庁内の一大スキャンダルだったので、利明も噂は知っていた。 
 しかし、大体は金子に同情票が集まっていたので、通り一遍の内容しか、利明としても知りようがなかったのである。
 当時の、仕事に打ち込む金子の様子が痛ましく、最初は同情からだった。
 もともとゲイだと言う自覚があったので、秘した恋ではあったのだが…しかし、金子のキャリア組のワリに捌けた性格と、部下の面倒見の良さは事実だったし、仕事の面では革新派でもあり、利明も良く叱られたりしたものだった。
 確かに大胆なところのある彼の仕事のスタイルは、周囲に対するきしみも大きい。
 が、それに同意出来たところも多く、利明は金子を、上司としても尊敬していた。
 また、金子も性があったのか、利明に目をかけてくれてもいたのだ。
 それが、部下に対しての気持ちだった、と言うのは昨夜、痛いほど思い知らされた訳だったのだが…。
 でも、それは承知の上の片想いでもあった筈だ。
 永木の話で…多少計算ずくの性分が彼にあったからとて、それで彼の仕事を貶めるほど、理性が飛んでもいないつもりだ。
……知らずにいたほうが、綺麗な思い出にはなったかもしれないが。

 その金子にも苦手な男がいた。
 それが、この永木と言う男だ。
 若干28歳にして、既に金子と同じ係長の座にあり、しかも上級試験はトップの成績で入庁したと言う鳴り物入りの人物なのだ。
 ノンキャリ組で、同い年の利明にとってはクソ面白くもない存在の上、する事なす事イヤミ、インケン、ゴーマンの嵐。
 何度些細なミスをタテにイビられたか、恨みは数え切れないほどだ。
 庶務係長と言う立場上、物事に細かくなるのは構わないのだが、彼の人を人とも思わないような横着、陰険な態度に泣かされた者は、庁の中にも数多い。
 あげく、金子と張る程度に見た目も宜しく、中々の美丈夫で、卒業大学まで天下のT大ときている。
 頭のよさを隠しもせず、褒められてもシャアシャアと「ああ、僕、頭いいですから」と人を食った返事を返す辺りで嫌われればいいのに、ナゼか女子職員には人気がある辺りが憎らしい。

 それを見聞きするたびに、利明は「どうして女の子って見る目がないんだろう」 と思ったものだった。
 彼はナゼか金子を目の敵にしているフシがあって、彼や彼の部下の失態、失敗を見つけてはネチネチとイビるのだから、金子派の筆頭にいた利明にとってはこう言うコトが成立したのが…未だに、金子に対する裏切りのような気すら…微かにする。
 永木の話を聞いたとて、上司としての金子を嫌いだとは思えない。
…が、矢張り、一個人としては……。

 音を立てて気持ちが醒めてしまうのは、どうしようもなかった。
 別に永木に何と思われようと、構わないのだが。
 一人で勝手に金子に対する偶像を作って舞い上がっていたのが、急に情けなくなって、なけなしのプライドが、利明の気持ちをささくれ立たせていく。
 よかれ、と思って告げてくれたであろう、永木の話が、疎ましく、いまいましい。
……知りたくなかった、と小さく呟く。
 人間は、綺麗なだけじゃ、生きて行けない、なんてセリフ、今は一番聞きたくない、考えたくもない。
 しかも、それが、甘ったるい現実逃避なのだとわかっているからこそ。
 これ以上ミジメになりたくなかった。 

 ただ、もう、好きだった人を今までのように見られないし、手の届かなくなった人だということだけを、純粋に悲しみたかっただけのはずなのに。
 酒のせいでとは言え、思わぬ自分の子供じみた心のヒズミとエゴを、目の前の男に晒したのかと思うと、吐き気すらしそうだ。
 余りに自分が情けなくて、利明は、ゲンナリと溜息を落とした。


「……色々…お世話になったみたいで感謝してます。都合のいいセリフだけど…酒のせいってコトで忘れて貰えたら…いいけど…情けない奴だとでも何とでも思って下さって結構です」
 そう言うと、震える膝をどうにか励まして、立ち上がる。
 下着を拾おうとした途端、ガクリ、と足が崩れ落ちた。
 腰が抜けているらしい。
 しかし、ムキになって黙々と服を拾い集める利明を、永木は背後からガッチリと抱きすくめた。

「俺にしとけよ」

 信じられないセリフが聞こえたのに、身体を動かすことがやめられない。
 最後の靴下の一枚を拾い終えた時点で、永木を振りほどこうとするのに、力がてんで入らない。
「好きだったんだ、ずっと。あんたが金子のコト、好きだったみたいに…どうしようもないくらい」 
 永木にしてみれば必死の想いの言葉なのかもしれないのに、それを受け止める余裕がない。

「…なんで…片想いってこんな…ミジメなんだろ…」
 ボツリ、とつぶやく利明に、永木が苦く笑った。
「…確かに…お互い不器用だな」
 大嫌いな男の体温が、とても居心地よく感じるなんて、思いもしなかった。
 首筋にそっとくちづけられるのが、涙が出そうなほど、優しいのがわかった。
 でも、この甘さは、間違っている。
 傷を嘗めあうなんて、ミジメでゴメンだ。

 なのに…自暴自棄な空虚感が、思わぬ言葉を利明に吐かせる。
「セフレならいいよ」 
 驚いたような永木の唇に目を閉じて、口付けながら幾らでも言葉は出た。
「ヘンな男漁って、とっかえひっかえするより、アンタ上手いし。セフレなら…いい」 
 そのまま、ゆっくりと永木の上にのしかかるようにして利明は、微かに嗚咽を漏らした。
「…そんなん、ありかよ…」
 ボヤきつつも、なだめるように利明の肩甲骨の上を、何度も撫でさすってやる。


 猫の爪のような月明かりのもと、甘い吐息が漏れ始めたのは、それから程なくの事だった。 


to becontinue…




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