孝平記 P3



孝平の母の名は弘子といった。
父の名は佐久間英孝。
ちょっとした土地持ちであったが、生活自体はあまり裕福なものではなかった。

小学校から帰ると、よく玄関の前に孝平より帰宅時間の早い弟の孝介がしゃがみ込んで、ぼやっとしていた。
どうしたと聞かなくても、彼の腕や足にある真新しい痣を見れば一目瞭然だった。

母親は弟の孝介ばかりに暴力をふるい、兄の孝平にはなぜか手を出さなかった。
勉強ができたからか。
なんでもそこそこにうまくできる要領を持っていたからか。

孝平は幼いながらにいろいろ考えてはみたものの理解はできず、できる限り孝介を連れて隣の家に遊びに出かけていた。
孝平たちの家の隣に住んでいたのは、畑中三郎という作家志望の青年だった。
記憶が定かではないが、初めは母親と二人で住んでいて、彼女を病気で亡くしてからはずっと一人だった。

孝平たちが遊びに来ると、竹トンボやコマ回し、ケン玉などの遊びを教えてくれて、時には博識な語り口調でいろいろな話をしてくれた。
優しい男だった。

二人は父親の英孝が帰ってくるまで三郎の家で過ごしていた。
家族を養うために身を削って働いていた英孝が疲れ顔で迎えに来るのを今か今かと待っていたのだ。

いつだったかその留守番中に、三郎が得意のお萩を食べさせながら、二人に言ったことがある。
「君たちは、自分が不幸だと思ったらいけないよ。せっかく両親がいるんだから、大切にしなきゃいけない。」

「…そうかな?父さんはともかく、母さんはろくでもないよ。なあ、孝介。」
「えっ…。う、うん。」
「駄目だよ孝平くん。孝介くんも。無理に好きになれとは言わない。でも嫌ったら駄目なんだ。わかるかな。」
「ふーん…。」


「兄さん。大丈夫?」
呼ばれてはっとした。
病院の待合室で恭平と竹本に電話をした後、腰掛けに座ってぼんやりしていた。
昨日から寝ていない頭がくらくらする。

「少し横になったら。忙しいのに、あんな時間に呼び出してごめん。」
「いや、最後を見届けることができたからむしろ感謝してる。ありがとう。」
孝平は微かに微笑んでから溜息をついた。
「そうだな…少し寝たいな。」
「どうしよう、母さんち行く?それか三郎さんちか…。」

二人で話していると、廊下の向こうから父親の英孝が歩いて来た。
背が高く眼鏡をかけ、年を取ってもあまり年老いて見えない風貌の彼は、息子二人を見つけるなりそちらに足を向けた。

「こんなところにいた。二人とも、帰って寝なさい。三郎の家の鍵をやろう。」

努めて明るい表情で言って、英孝は兄の孝平の方にキーホルダーにとめてある鍵を手渡した。
「俺はいいから、お父さんこそ寝たら。」
「こっちはいろいろ大変なんだよ。三郎には身寄りがなかったからな…。」
「手伝おうか。」
「いやいいよ。それよりもよく寝て、明日は恭平たちを連れて来ておくれ。三郎は最後まで何よりお前たち二人と、その子らを心配していたんだ。何度かしか会ったことのない、しかも他人の孫だというのに…。」
言いながら英孝は少し涙ぐんだ。

英孝にとっては一番の親友を亡くしたに等しかったのだ。
さすがの孝平でも、うまい慰めの言葉一つも浮かんできそうになかった。


「明日、学校早退?」
高校から帰り部屋着に着替え、珍しくリビングのソファで古典の参考書を開いていた明美が素っ頓狂な声を出した。
足はまっすぐ伸ばされてストレッチをしているから、参考書は所詮飾りであろうと恭平は思った。

「いいけど…その畑中って人、私顔とかぜ〜んぜん知らないけど。」
「そう言わないの。4人でちゃっと行ってちゃっと帰ってくればいいんだから。」
「ふーん…。」
明美は参考書に視線を戻して、しばらく考えてからもう一度恭平の方を見た。

「いいわ。考え方を変えたら、兄弟水入らずでお出かけになるわね!」
「…行き帰りの車、父さんの運転だよ。」
「うっ…。」
途端に明美の表情が硬直した。
恭平は苦笑して、しかし念を押すように言った。
「行くだろ?」

「……ハイ。」

全信頼を寄せるような兄の無垢な視線には、いくら明美と言えども逆らえない。
そのことを知ってか知らずか、その視線を向けるタイミングを恭平は間違えたことがないように思う。
妹のことなど全てお見通しらしい。


++
++
+表紙+