家出 P2



二階の、良平と聡平の部屋の扉を開けると、ちょうど水の入った洗面器を持って孝介が出てこようとしていたところだった。
孝介は、恭平たちの父・孝平の弟で、現在、妻と二人で自営業を営んでいる。
そこそこ繁盛しているクリーニング屋だが、店のやりくりはほぼ妻のほうがやっていると言っても過言ではない。
とにかくよく孝平家へ遊びにやって来るので、良平も聡平もなついていた。
あの明美でさえ、大人しく小遣いをもらったりしているのだ。

「やあ、恭平くん。お帰り。」

孝介は、孝平とよく似た笑顔で恭平に言った。
でも、恭平はこの笑顔が苦手だった。
孝平に似ているからでは、決してない。

「すいません、叔父さん…。迷惑かけてしまって。」
「いや、いいんだよ。聡平くんも少し薬が効いてきたみたいでよかった。」

恭平は孝介の横を通り過ぎると、聡平の眠るベッドへ近付いた。
佐久間家のベッドは、普通のサイズより低めに作られている。
それもこれも、恭平の足を気遣ってのことだ。
それだから、部屋が多少狭くなってもこの双子の部屋は二段ベッドだったりはしない。

聡平は、よく眠っていた。
なるほど、顔が赤い。

朝の様子だと、別に変わったところはなかったのに。
恭平は、気付いてやれなかったことに責任を感じた。

「さっき眠ったところだ。しばらく寝かせてあげなさい。」
孝介はそう言うと、先に部屋を出た。階段を降りる足音が聞こえる。

恭平はしばらく聡平の寝顔を見つめていたが、額に乗せられたタオルの位置を少しずらして整えてから、静かに部屋を出た。
一段ずつ階段を降りる。


「寝てたろ?」
降りきると良平が、何時の間にかどこからか出してきた茶菓子の袋を開けながら、聞いてきた。
「ああ。いつからだったんだろう…。朝は全然気付かなかった。」
「んー。そうだな。昼くらいからかな、勘だけど。俺も朝はわかんなかったし。」
「なんだその、勘、っていうのは。」
「俺、朝別れてから呼び出された夕方まで、あいつと会ってねぇもん。」

なるほど、そういうことか。
「大方、勉強しすぎとかそんなとこだろ。」
良平は、バリバリと茶菓子を食べながら言った。
「お前は大丈夫なのか、良平。」
「俺は勉強してないも〜ん。」
良平はまったく気にも留めずに笑い飛ばした。

大丈夫なのか、と体調ではなく単位に聞きたいような気がした。

「でも、よかったじゃないか。ただの風邪で。」
孝介が言葉を挟んだ。確かにその通りだ。
「あ…孝介叔父さん。どうもありがとうございました。」
恭平はぺこりと頭を下げた。それを見て孝介は、にっこり笑って頷いた。

「兄貴、夕飯。俺、友達との約束キャンセルしちゃったからお腹減っちゃった。」
良平が恭平の肩をトントンと叩いて甘えるような声を出した。
「あ、ああ。そうしよう。じゃあ良平はお風呂洗って先に入ったら。」
「そーする。叔父さん入る?」
「いや、いいよ。それより私も夕飯をご馳走になろうかな。」
良平は、小遣いをもらえると思ったのか嬉しそうに風呂場に走っていったが、恭平はすぐに帰るものだと思っていたので愕然とした。背を向けていたので気付かれてはいないはずだが。

「叔母さんは、平気なんですか。」
「ん。今日はどうせ近所の集まりで遅くなると言っていたからな。」
孝介は食卓の椅子をひいて腰掛けた。
恭平は台所で包丁を握っている。

「最近仕事はどうだい。慣れてきた?」
「はい…まあ、なんとか。」
「顔が疲れてるよ。君も具合悪いんじゃないのかい?」
孝介は、表情を変えずにそう聞いてきた。他愛もない会話。
貴方がいるからだとは、口が裂けても言えなかった。

良平が風呂を洗い終わって、浴槽にお湯をためている間リビングにやってきてテレビを見ている時は、何もなかった。
恭平は、募る不安を抑えて、料理を続けた。
聡平には特別におかゆを作ってあげることにした。
浴槽にお湯がたまると、良平は鼻歌を歌いながらバスルームへ消えた。

茄子とベーコンを併せて炒めながら、恭平の胸はドキリとした。
孝介が、台所に足を踏み入れ、静かに近寄ってくる。
無言で。
口元は薄く笑っている。
良平や聡平には優しそうに見えるその笑顔が、恭平は苦手だった。

孝介は、恭平のフライパンを持った手に触れてそれを押さえ、火を止めた。
恭平が振り返れないでいると、顎をすくわれて孝介のほうに向かせられた。

怯えているのを必死で隠しているような恭平の瞳に、孝介は溢れ来る衝動を抑えることができなかった。


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