家出 P6



その雨がだんだんと強くなるので、恭平はなんとか雨のあたらない場所まで移動しようと試みた。
電灯の下がちょうど木の枝の影になっている。
恭平は、普通に歩けば五歩ほどの距離を、左足の痛みに耐えながら少しずつ進んだ。
壁沿いに歩くと少しは楽だった。

なんとかそこまで来ると、恭平はその場にしゃがんで身を縮めた。
着けたままだったエプロンを脱いで頭から被せたが、すでに全身はびしょ濡れだった。
相変わらず誰も通りそうにない。

思えば、携帯も時計も何も持たずに飛び出してきてしまって、我ながら軽率なことをしたものだ。
夕飯の準備も途中だった。
きっと良平が困ってるだろう…。
聡平の分のお粥は、ほとんど出来上がっているから、どうか食べさせてやってほしいと思った。

明美には知らせない方がいいな…警察でも呼びかねない。

…父さんは、心配してくれるかな。仕事が忙しくて、考えてくれないかも。

恭平は、ずきずきと疼く左足首を擦りながら、何もできずにいた。
暖かい季節だから薄着だったのだが、どうもそれが仇になったみたいだ。
夜であることもあり、次第に肌寒くなってきた。

このまま誰も通らなかったら…どうしよう。

そもそも人が通ったとしてもその人にどうしてもらおう。
叔父がまだいるだろう家には、帰りたくなかった。

情けないけど、明美の携帯に電話するしかないかな…。

恭平の脳裏に、ちらりと社長室で仕事をしている父の姿がよぎったが、首を振って忘れようとした。
面倒かけたくない。

恭平がそうこう考えてるうちに時は過ぎ、彼の体温は降り続ける雨によって徐々に奪われていった。


恭平が家を飛び出してから相当な時間がすぎて、夜中の一時くらいに一人、男が彼を見つけた。
画材の入った鞄を雨に濡れない様に大事そうに抱えて、足早に通り過ぎるつもりだった。
彼はここから2時間以上かかる美術大学に通う沖田雅人という青年だった。

急いでいた足を止め、電灯の下で蹲る人影に近付いた。
「もし。あの…」
遠慮がちに声をかけてみたが、返事がない。
どのくらい前からここにいるのか、随分と体が冷たい。

こんな雨の降る夜に傘もささずにどうして…?
まさか死体だったりして…。

沖田がぶるっと身震いしたのとほぼ同時に、びしょ濡れの男が溜め息の様な微かな声で呻いた。
あ、生きてる…。

沖田はほっとして、とりあえず一度、一人で住むアパートへ帰った。
荷物についた雨水をきれいに拭き取ってから押し入れにしまうと、再び傘を持って家を出た。

さっきの電灯のところに、変わらず彼が蹲っている。
着てる服は普通だし顔もきれいだし、ホームレスの類いではないと、沖田は踏んだ。
そうでないなら助けてあげないと。

「もしもし。風邪引きますよ。」
声をかけたがやはり返事がない。
雨に濡れて冷えきった体に触れると、男がゆっくりと顔を上げた。

沖田は持ってきた二本目の傘を開いて、彼の上にさしてやった。
全身濡れきった男は、濡れた瞳で沖田を見つめ返していた。

少し、ドキリとする。

「この傘あげますから…ちゃんと家に帰ったほうが。」
沖田の言葉を遮る様に、男は首を振った。

「…歩けないんです。」
「え?」
「挫いたみたいで…」
「…両方?」

また首を振る。
悲しそうな横顔。

「左足です。」
「痛いの?」
小さく頷いた。

話を聞くと、なるほど右足が不自由なんだそうだ。
要の左足をひねってしまったために動けなくなったらしい。
夏場だというのに、長時間雨に打たれたせいでひどく冷たい手をしていた。

「あの…この傘借りててもいいですか。」
「はぁ、いいですけど。」
沖田は答えてから、怪訝そうに眉をひそめた。

「まさか、ここで夜を明かすつもりですか?家はどこ?」
「…気付いたらここにいたので、、よくわからないです。そう遠くはないと思うんですけど…。」
沖田は住所を聞いて、確かにそんなに離れていないことを確認した。

「送っていきましょう。肩、貸すんで。」
「え…、いいです。あなた濡れちゃいます。」
「でも。」

沖田が何を言っても、男はかたくなに家に帰ることを拒んだ。


++
++
+表紙+