笑顔の裏側 P3



嫌な予感というのは当たるものだ。

恭平の仕事が休みの平日のお昼時に、珍しく孝平が慌しくして帰ってきた。
家に一人でいたので驚いて、恭平は玄関まで駆けつけた。

「そんなに急いで、どうしたの?」
「緊急の事態が起こった。今から北海道まで行ってくるよ。」
「北海道?!」
「ああ。一週間くらい留守にする。」
孝平は言い放って、自分の部屋へ直行した。
恭平も慌ててその後を追う。

「準備、しなくちゃ。寒いからコート持っていって。」
「ああ。細かいものは後でホテルの住所を教えるから、そこに送ってくれ。」
「わかった。」
恭平は頷いて、すぐに用意できるものを鞄に急いで詰め込んだ。
孝平は机の中から必要な書類を引っ張り出している。

「何時の便?」
「さあな。竹本が先に行ってチケットを買っているはずだ。」
「向こうに着いたら電話して。」
「ああ。」
返事をして孝平が先に部屋を出る。
恭平は鞄のチャックをしめて、その後から玄関へ行った。
孝平が恭平から鞄を受け取る。

その際に、さりげなく孝平が言った。
「何かあったらいつものように孝介に面倒を見てもらうように。」
「あ、うん。わかってるよ。」
恭平もさりげなく返事をする。もうこういう風にごまかすのには慣れていた。

「父さん。」
孝平が玄関のドアノブに手を掛けたとき、恭平が声をかけた。
孝平が振り向く。
「なんか顔色が悪い。風邪引かないでよ。」
孝平はちょっと考えて、ドアノブから手を離して恭平に近付いた。

「もし本当に風邪を引いていたら、お前にもうつる。」
そう言って恭平を引き寄せて、唇を奪う。

普段こういったことをされたことがないので、恭平は驚いて目を見開いた。
孝平の唇が恭平の唇を導いて、その熱い口中に舌が入ってくる。
それに応えるように、恭平は目を閉じて孝平の背中に腕を回した。
「ん…ッ」

この時間が長く続けばいいのに。

恭平は、これから起こるであろう事態に怯えて、そう願った。
だが唇を二、三度重ね直しただけで、孝平の唇が離れた。
「あまり夢中になると、飛行機に遅れる。帰るまでとっておこう。」
「父さん…」
「じゃあ行って来る。」
恭平から離れると、孝平は振り返りもせずに玄関を出て行った。

一週間。

孝平がこんなに長く留守にするのは久しぶりだ。
恭平には、なんだかんだと理由をつけて孝介がやってくるのは確実に思えた。
良平に知らせた方がいいだろうか。
きっと夜には帰ってきてくれるようになるはずだ。

恭平はリビングに戻って、机の上に置いてあった携帯を手に取った。
ゆっくりと開いて、良平の電話番号を探す。
アドレス帳を開いたところで手が止まった。

でも来るかもわからない人に怯えて、関係のない良平に迷惑をかけるのはどうだろうか。
もし孝介おじさんがやって来たら、連絡しよう。
それでも遅くはないと思った。

思い切ってクリアボタンを押して携帯を閉じる。
先ほど交わしたキスで唇に残された孝平の体温が、恭平の胸に溢れていた。


その日は何事もなく過ぎた。
バイトから帰ってきた良平に父の出張のことを話すと、顔をしかめて言った。
「明日から早く帰ってくるようにするけど…おじさんって予告もなく来てたっけ?」
「予告って…。でも来る時はこっちから電話するとか、向こうから電話が来たりしてるかもしれない。」
「そう。じゃ、来るって言ったら俺に連絡して。超特急で帰ってくるから。」
「そんなこと言って、お前授業は?」
ポカンとしてこんなことを言う恭平に、良平がカクンと肩を落とした。
「兄貴に何が起こってるのかわかってて、授業なんか聞いてられるかよ。」
「う…やっぱり、そう、なるかな?」

わざととぼけているのか、心底危機感がないのか。
良平は逆に呆然として、聞き返した。
「…え、ならないの?」
「なる、よね。」
「おいおい大丈夫か?まあ、とにかく電話して。」
「…ごめん。」

「謝る必要なんてねぇよ。」
良平の静かで強いこの言葉に、恭平は安心したようにほっと胸を撫で下ろした。


恭平の不安をよそに二日、三日過ぎ、四日目の朝が来た。
その日恭平は午前中だけ会社に出、朝から熱っぽかったので午後には帰宅の許可をもらった。
どうやら本当に孝平に風邪をうつされたらしい。
北海道の父は大丈夫だろうか。

そんなことを考えながら帰りの道を歩いていると、道の向こうからやってきた車が恭平の数歩先で止まった。
運転席の扉が開いて、中から人が降り立つ。

父さん?

視界の片隅に感じた面影を追って顔を上げると、そこには違う人物が立っていた。
「恭平くん、久しぶり。今君の父さんに会おうと思って会社に向かっているところだったんだが…奇遇だね。」

その人物の顔を確認して、熱で朦朧としている恭平は本当に目眩を覚えた。
そこに立っていたのは、紛れもなく、孝介だった。


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