笑顔の裏側 P9



孝平は空港からタクシーに乗り、寄り道もせずに自宅に帰った。
北海道にいる間、恭平に言われた通り風邪っぽかったのだ。
昨日からは調子がよくもうすぐ完全に治るだろうと思われた。

家の前でタクシーに料金を払って降りる。
空港から電話した時は、家には恭平を含め誰もいないと思っていたのだが、リビングに微かな明かりがついている。

入れ違いで帰ってきたのかな?

孝平は余り気にせずに玄関の戸を開けた。
鍵はかかっていない。
「ただいま。」
室内に声をかけるが返事はない。
一瞬恭平ではなく明美がいるのかと思ったが、玄関にある靴は恭平のものに違いなかった。
恭平に限って返事がないとは変だな…。

孝平は靴を脱いで玄関から上がった。
リビングに行くが、恭平の姿はない。
鞄を置くと、バスルームのほうから洗面器の倒れるような音がした。
入浴していて気付かなかったのか。

「恭平?」
呼び掛けて、孝平は脱衣所を覗いた。
脱いだ服が乱雑に洗濯籠の中に押し込められていて、バスルームからはシャワーの音がした。
「恭平。帰ったよ。」

あ、おかえりー。早かったね、良かったね!

恭平が明るく返事をするのを待ったが、返事はおろか動く気配すらない。
孝平は眉をしかめてバスルームの扉に近付いた。
「恭平?」
曇りガラスから見える恭平の影は、少し揺れただけでそれ以上のことをする気配はなかった。
この距離で聞こえていないはずはないのだが。

「…。」

孝平は無言のまま扉に手を掛け、ゆっくり押してその中を見た。

シャワーの熱気の中に、恭平が向こうを向いて立ち尽くしていた。
そのスラリとして細い身体に一瞬目を奪われるが、やはり違和感が消えない。
湯気に包まれた恭平の身体は、いつもにも増してか弱く見えた。

「…恭平?」
もう一度呼ぶと、恭平がゆっくりと振り返った。
シャワーから止めどなく流れて来る湯の粒が、恭平の肌の上を弾けるようにして流れている。

その首筋や肩、背中、腕、腰、そして腿の辺りまで、一面に広がって幾重にも重なる紅い跡を、孝平は見た。

息が止まる。

恭平が生気の抜けた哀しい瞳で孝平を見つめた。
孝平と目線が合うと、さっと身を引いた。
「父さん…おかえり。」
恭平が微笑む。
いつもの笑顔。

それにしては、はかなすぎる。

「…恭平…」
呆然と佇む孝平に、無理矢理笑顔を作っていた恭平が、ふいにしゃがみ込んだ。
シャワーの音が、一段と強く聞こえる。

「恭平。大丈夫か?」
「父さん…」
恭平が顔を埋めたまま、消え入るような声で言う。
孝平はもっと聞こえるように一歩前へ出た。
湯が跳ねて服が濡れた。
「恭平、どうした。言ってみなさい。」

「父さ……っ。」
恭平が顔を上げて孝平を見つめた。
シャワーから流れ出る湯のせいでよくわからないが、恭平は涙を流して泣いているように思えた。

顔を崩して、訴えかけるように目を閉じた。

「父さん…っ。ごめんなさい……!」

言って、恭平の全身の重心がずれた。
そのまま孝平のほうへ倒れて来たので、濡れた身体を支えてやる。
「恭平?どうした、恭平?!」
呼び掛けるが恭平からの返事はない。

その身体には湯のせいか否か熱気が宿っていて、頬にも赤みがさしていた。
恭平は急いで湯を止めて、一旦その場から離れバスタオルを取った。
恭平は浅く速い呼吸を繰り返して、気を失っている。
高熱がある気がする。

孝平は恭平の身体をタオルで包み、濡れた身体を拭いてやった。
その際に嫌でも目の当たりにする、無数のキスマーク。
情事の跡であることは明らかだった。
「…っ。」
嫌がった印に、股間のあたりが切れて若干出血を起こしていた。
恭平の身に何が起こったかは、聞かなくても明白だった。
最悪の事態だ。

「は…っ。」
恭平が苦しそうに息を吐いた。
とりあえず、恭平を安静にさせることが必要だ。
孝平は気を取り直してタオルで恭平を包み込み、その身体を持ち上げた。
急いで彼の寝室へ運び、寝かせてやる。
パジャマを着せて、髪の毛を拭いてやった。
熱にうなされている恭平の意識が戻る気配はなかった。

毛布を何枚も重ねてかけてやり、氷水に浸したタオルを額にかけた。
恭平は朦朧としながら、うわ言で父への謝罪を繰り返していた。

ごめん、ごめんなさい。父さん…

時折、恭平の目尻から涙が溢れ出た。
恭平の顔を見つめていた孝平は、それを見て絶句した。

こんな状況で、私に謝らなくてもいい。
謝る必要はない。
お前はもっと自分のことを考えろ。

孝平は恭平の涙を拭いてやった。
薬を取って、口に含む。
そのまま水も含んで、恭平の口にうつしこんだ。
恭平の身体が驚いて痙攣するが、抵抗も少なく与えられたものを飲み干してくれた。
恭平が全てを飲み干すまで待って、孝平は恭平の熱い唇から自分の唇を離した。
熱い吐息が漏れる。

元はと言えば孝平がうつした風邪だ。
自分に影響することはないだろうと、勝手に決め付けた。


++
++
+表紙+