笑顔の裏側 P10
午後五時。
父親の出張から四日たっても孝介は現れなかったので、良平は帰り道にバイト先に寄った。
「良平くん、ほんとお〜〜〜に今週は全部出れないの?お店回らないんだけどっ」
泣き付いて来る店長を振り切って、バイトのメンバーに挨拶だけして急いで店を出た。
まさか店に店長が来ているとは思わなかったから焦ったー。
今日も一日恭平からは連絡がなかったから、孝介おじさんはもう来ないんだろうな。
良平はバイクに跨がって、エンジンを入れた。
帰宅すると、玄関に靴が二足。
恭平のコンバースのシューズに、男物の革靴だ。
誰だ…?
一気に血の気が引いた。
「兄貴っ!」
良平は靴を脱ぎ捨ててリビングへ走った。
いない。
部屋全体を見渡すと、恭平の部屋から明かりが洩れていた。
「兄貴っ?!」
勢いよくドアを開ける。
そこには、洗面器の氷水につけたタオルを持ったままの孝平がいた。
ベッドには恭平がぐったりと眠っている。
良平は兄が倒れていることよりも、父が部屋にいることに対して驚いた。
しばらく思考が停止する。
「…え、え?父さん…あれ??」
「おかえり。会議が予定よりも早くまとまったから帰ってきたんだ。そしたら…これだ。」
孝平は恭平のほうを目で指して、タオルを絞った。
それを恭平の額にのせてやる。
良平はほっと息をついて、鞄をその場に落とした。
よく考えたら、あのおじさんが革靴なんて履くはずないよな…。
「倒れたの?」
「ああ、風呂場で。」
風呂場?
「そういえば朝から熱っぽいって言ってた。熱はどのくらい?」
「いや…探したんだが、体温計の場所がわからなくてな。」
「…はぁ。」
良平はがくりと肩を落として溜め息をつき、一旦リビングへ戻った。
これだから親父はいざって時に役に立たないんだ。
良平は体温計を持って恭平の部屋へ戻り、ベッドへ近付いた。
「兄貴。熱計って。兄貴。」
呼び掛けるが、呻くだけで返事がない。
「倒れてから目を覚まさない。計るなら勝手に計った方がいいかもしれんな。」
「勝手にぃ?……ってゆーか、すごい熱。」
良平はケースから体温計を取り出した。
「はい、じゃー兄貴、失礼しちゃいますよ。」
良平は一応明るく声をかけて、布団の中に手を差し入れた。
こんなことなら耳で計れる体温計ってやつを買っておくんだったな。
パジャマのボタンに手を掛けて、外す。
体温計を脇に挟むためにその中を覗きこんで、息を止めた。
これ…この跡……
「と、父さんっ。」
良平の声は震えていた。
「父さんっ。これ……」
「いいから。早くしろ、体が冷める。」
孝平の声は至って冷静だ。
良平は頷いて、震える手で体温計を中に入れた。
良平の手が恭平の体に触れた。
途端に恭平が唸って、良平の手を払いのけるような仕草をした。
「ちょ…兄貴。あばれんなよッ!」
「やだ…やだ、やめて…っ」
恭平が暴れるので、良平は手を離した。
無意識に、体に触れるものを拒否している。
恭平は熱で朦朧としながら反転して枕に顔を押しつけた。
呆然とする、良平。
あまりに今のは、ちょっと、ショック……
「拒絶されたぁ。」
「…。」
良平が情けない声を出して、ベッドの脇にしゃがみ込んだので、孝平は正直に困った顔をした。
顔を必死に枕に押しつけて、恭平は肩を震わせている。
暴れた時に肌蹴た肩から、またあの紅い跡が見えた。
「…良平。その体温計、貸しなさい。」
「…なんでっ。」
「今度は私がやってみよう。」
「…」
良平は拗ねたように目を逸らしてから、腕だけで孝平に体温計を差し出した。
孝平がそれを受け取る。
「恭平。わかるか、熱を計れ。お前、すごい熱あるぞ。」
意識のない恭平の耳に届いたかどうか。
孝平は仕方なく、恭平の肩に触れた。
ビクリとするが、抵抗はない。
孝平は恭平の体を反転させて、良平と同じようにボタンの外れた隙間から体温計を持った手を差し入れた。
恭平が嫌そうに顔をしかめて、やはり手を払いのけようとした。
「恭平!おとなしくしなさい。」
「いや…やだぁ!」
頬を真っ赤に染めた恭平の目から、またもや大粒の涙が溢れ出した。
良平も立ち上がり、もう兄貴に嫌われたっていいとでも言うように、孝平と一緒になって恭平の体を押さえた。
「やだ、やだ!離して!やめて、叔父さん……ッ!」
良平と孝平の手が、同時に止まった。
部屋には恭平の泣き声だけが残って、それも二人が押さえるのをやめてしばらくすると止まった。