挑戦 P17



思えば、始まりはいつだったか。
幼い頃に母を亡くし、思春期を家事と育児と、そして父親とのセックスで過ごしてきた恭平は、気付けば他人との交流から一歩引くようになっていた。
友達と呼べる人は何人といたが、自分が忙しくしているうちにだんだんと連絡が取れなくなっていく。
支えなければならないものがあったから苦にはならなかったけど、時々どうしていいかわからなくなることがある。

仲良くなりたいと思って自分から近付いても、ある程度に達すると自分から離れた。
いつの間にか、それ以上踏み込むことが怖くなっていたから。
大人な振りをして、実は逃げているだけだと、何度思ったことだろう。

大学生の時、毎日のように好きだ好きだと告白してくる男がいた。
彼は恭平と同じくらいの身長で、目立つタイプではなかったが、旅行が好きだった。
旅行などした記憶がない恭平にとって彼の話は新鮮だったし、彼も恭平がとても楽しそうに聞いてくれるので夢中になった。
沖縄にある透き通る海と、赤いさんご礁を見に行こうと約束をした。

だが、高校生の良平と聡平や、まだ中学生の明美を残して何泊もすることはできなかった。
事実的にというよりは、恭平の気持ちが抑制をかけていた。
そして、孝平の表情。

「…まあ、好きにすればいいよ。」

その一言に、恭平の心は凍りついた。
孝平はきっと何気なく言っただけに違いない。
本当に、好きにすればいいと、そう思っただけで。
だが恭平には、このまま自分が孝平の元を離れたら、彼が自分や弟妹のことを見捨ててどこかへ行ってしまうのではないかという気がした。

悩んだ末に、恭平はその男に別れを告げた。
他の男とどこかへ泊まるなんて、できなかった。
考えられなかった。
孝平を、裏切ってしまうような気がした。


「恭平くん、お昼一緒に食べよう。」
矢吹は寺崎を連れて、恭平の出勤日には現れて声をかけてきた。
「ハイ。」
そのことが、恭平にとっても嬉しくて、楽しかったのも事実。

彼は、あの時の旅行好きの彼にどこか雰囲気が似ていた。
恭平は何でも話し合える仲になりたいと思ったし、毎日接する中で少しずつ心を開いている自分に気がついた。
一緒にいる時間が、とても充実しているものに思えた。
家事をしている時や、弟妹の面倒を見ている時とはまた違った、充実感。
今までは隙間で、あるとすら認識していなかった心の隅々が満たされる。

恭平がそう感じ始めた頃、しばらく仕事の忙しかった孝平に社長室へ呼ばれた。
その後に起こることを半ば予想してエレベーターに乗り込むと、神妙な顔をした矢吹と寺崎が先に乗っていた。
「あ、あれ?矢吹さん。寺崎さんも…。」
「やあ、恭平くん。」
驚いて二人を見つめた恭平に、寺崎が明るく手を振って答えた。
矢吹は目線をそらしたまま、何階か聞いてきた。

「14階…。」
言ってから、既に14階のボタンだけが光っているのを見た。
「あれ。二人とも…」
「なんでか、まだまだ新人同様の俺たちが直々に呼ばれちゃった。恭平くん何か聞いてない?お父さんから。」

何かって。

さほど深刻そうにせずに、寺崎が腕を組んで唸った。
恭平が寺崎と話している間中、矢吹は壁の隅のボタンを見つめたまま黙っていた。
彼が社長室へ行くという行為が嫌だったからだ。

また、恭平は父親の手に堕ちるのか。

社長室での用件が無事に済んだら、なんとしても恭平と一緒に退出しようと、決心を固めた。
「矢吹さん。なんで黙ってるんです。」
恭平が矢吹の顔を覗き込んだ。
「昨日から便秘なんじゃないのか?」
ギャグ半分に言った寺崎の首を絞めてこらしめていたら、エレベーターが14階へと辿り着いた。


オフィスばかりの下の階とは違い、この階には社長室と秘書室しかないため、廊下も広いし部屋も広い。
初めて上がった階に、矢吹と寺崎は目を丸くして静止した。

「社長室、こっちですよ。早く。」
恭平が二人を先導して歩いた。
こういう豪華なところで見ると、いつもぼんやりしている感が否めない恭平の姿が、やけに引き締まって見える。
矢吹は否が応でも身分の違いというものを感じざるを得なかった。

「恭平くん、君んちもこんな豪華な家なの?」
寺崎が間の抜けた声で聞いた。
恭平は振り向いて、予想外な質問に苦笑した。
「そんなわけないじゃないですか。ごく普通の家ですよ。庭が広めってだけです。」
「庭があるだけいいよ…俺んちボロアパートだもん。」
俺も。
矢吹は情けなくて声も出せなかった。

「父もそんな感じからスタートしたっていう話ですよ。誰でもそんなものなんでしょう。」
孝平の築き上げたものは、すべてここにある。
誰がなんと言おうとも、今一番孝平の近くにいる恭平にはそれが一番わかっているつもりだった。

「ここです。」
恭平は社長室と書かれたドアの前に立って、ノックをしてから扉を開けた。

矢吹と寺崎の初めて入った社長室には、二人の人間がいた。
一人は資料を持ったまま窓際に立っている賢そうな男。
彼は何度も見たことがあるし、話したこともある秘書の竹本伸彦だ。

そして、真正面のデスクに座って肘を突いている男。
年齢の割りに若々しい容姿の彼は、入ってきた3人を見て嬉しそうに立ち上がった。
「やあ、来たね。矢吹くんに寺崎くん、だったかな。君たちの噂は恭平から聞いているよ。」
人付き合いがうまそうな、社交性のある笑顔。

矢吹はその雰囲気に圧倒されたまま、差し出された手と握手を交わした。
つられて寺崎も握手をする。

「あの…父さん。何か特別な用事だったら、俺、もう少し後になってから来るよ。」
「いや、恭平はそこにいなさい。彼らにとってとてもいい話だ。」
孝平はニッコリと笑って言い、竹本に合図を送った。
その笑顔に、恭平は不信感を覚えた。

合図を受けた竹本はツカツカと二人に近付き、持っていたA4サイズの封筒を1冊ずつ手渡した。
何かと思って孝平の顔を見上げると、彼は表情を改めて言った。
仕事をする時の顔だ。

「この中には、今度共同である取り組みをすることになった阿久津建設の資料が入っている。後で読んでくれたまえ。」
「はあ…?」
「実は、うちと向こうから2名ずつ代表を出すことになってね。頼もうと思っていた奴の都合がちょうど悪くなってね。恭平たちが君たちのことを褒めていたから、頼んでみようかということになったのだけど。」
「え?!」


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