始まり P3
「恭平、もう寝なさい。寝れないのか?」
通夜の後、写真の前でぼんやりとしていたら、孝平が声をかけてきた。
母親を通じてしかあまり話したことのない孝平は、なんだか他人みたいだった。
「…寝れない。頭の中で、母さんの声がするんだ。」
「…。」
「今にも、起きてきそうな気がする。おはよう、学校遅刻するわよって、言ってくれるような気が…っ。」
恭平は、母の声や、笑顔や、耳から落ちた髪の毛を元に戻すちょっとした仕草を思い出しただけで涙が溢れるのを止められなかった。
手で顔を覆って、声を殺して泣いた。
隣の部屋では弟妹3人が一緒になって眠っている。
声を出したら、起きちゃうかもしれない…
「…ッ。」
恭平、もう泣くのはよしなさい。強く生きるのよ。
「恭平。もう泣くのはよせ。お前が泣いていたら、死んだ母さんも悲しむよ。」
孝平が、恭平の頭に手をあてた。
あたたかい。
父の言葉の裏に、母の遺志を感じた気がした。
「父さん…っ!」
恭平は無意識のうちに孝平に抱きついて、声を殺して泣きじゃくった。
自分の右足に一生不自由が残ると聞いた時には一粒も見せなかった涙が、止まることを知らないかの如く流れた。
その時孝平はどう思ったのだろう。
4人の子供のうち一番年上の兄が一番涙を流したなんて、情けないと思っただろうか。
次の日から恭平は、早くも笑顔を見せるようになった。
疲れたような笑顔だったし、誰から見ても無理をしていることは明らかだったが、それでも恭平は必死だった。
もう、泣いてはだめ。
固く心に誓った。
母親のいない生活には慣れていたせいか、恭平の普段の生活はあまり変化がなかった。
強いて言えば、病院に見舞いに行く時間がなくなったこと。
それと何故か、良平のわがままがひどくなったこと。
恭平も家族全体のことと、それにまだ小学校の2年生だった明美の世話が思ったより大変だったことで満足に対応してやれなかった。
恭平にはそれが原因だったのではないかと思えた。
度々学校の友達と殴り合いの喧嘩をしては、自宅に電話がかかってきた。
恭平が帰宅していない時は、中学にまで連絡が回ってくることすらあった。
完全に問題児。
「良〜〜。また喧嘩したの?今度はなに?」
「…言いたくない。」
「なんでさ。」
「言わない!」
おまけに、誰に似たのか頑固だった。
後で良平の担任の先生が教えてくれたが、どうやら喧嘩をした相手の子が、母親の作った弁当は世界一美味しい、のような話を自慢げにしていたそうだ。
恭平からしてみれば、そんなの放っておけばいいのにと思うのに、良平には我慢ならなかったらしい。
そのお陰かその所為か、良平はどんどん喧嘩に強くなり、小学校を卒業する頃には全校のガキ大将になっていた。
「良平に間違えられるとさあ、その場から逃げるのに大変なんだよ、まったく。」
聡平はそう言ってよくため息をついていた。
文句を言う割りに、その所為で怪我の一つもしたことがないのが聡平らしい。
また、良平のお陰で明美がいじめに遭うことがなかったことが不幸中の幸いだった。
そんなひっちゃかめっちゃかの中、恭平は無事に高校受験に成功し、明美を除く3人は進学を果たした。
良平と聡平の入学式には恭平が出席したが、恭平の入学式には誰も行くことができなかった。
こういう時や授業参観、保護者会の時ほど孝平が憎らしくなることはなかった。
『恭平、今日も遅くなるよ。夕飯はちゃんと食べているね?』
こういう電話がかかってくるのにももう慣れていた。
「うん、こっちは大丈夫。父さんこそ、大丈夫?」
『ああ、余計な心配はするな。では、ちゃんと戸締りして寝るように。いいね。』
「はい。おやすみなさい。」
電話を切った後は、何故だかいつも空しかった。
ガキ大将だった良平の勢いが、中学になって衰えるはずもなく。
恭平は1ヶ月に一度は呼び出され、良平とともに説教を受けるはめになった。
中にはかつて恭平のことを教えていた教師もいたので許されるのは早かったが、本人に改善の意思が見られなくては意味がない。
恭平は良平に代わってひたすら謝り倒した。
「すみません。はぁ…、以後、言っておきます。はい。」
良平は、苦笑しながら真剣に謝る恭平の傍らで、その様子を不満げに見ていた。
「謝ることねぇじゃん。悪いのは俺で、兄貴は悪くないんだからさ。」
帰宅途中、ぼそりと良平が言った。
恭平はそれにも苦笑して、夜風の吹く方向に顔を向けた。
「わかってるなら謝ればいいのに。今日は何をしたんだっけ?」
「…た。」
「聞こえないよ。」
「煙草を、吸いました。」
「本当に?」
「…あんだけ頭下げといて、先公の言ってたこと聞いてなかったのかよ!」
「聞いてたよ。でも、良平からは聞いてない。」
こういう時の恭平は、肝が据わっていてまっすぐと良平を見上げていた。
その当時、通り道で見かけたら誰もが道を譲るくらいの悪ガキだった良平にまっすぐに意見を言えたのは、恭平だけだっただろう。
お説教をする教師たちも、良平のことが手に余ったらとりあえず恭平を呼び出し、素直な恭平の方を叱っていたと言ったほうが正しかった。
良平にも、そして恭平にもそんなことはわかっていた。
「…吸ったよ。一本だけ。」
「…。どうだった?ウマい?」
「…関係ねぇじゃん。」
良平は迷惑そうに目を逸らした。