始まり P5
正確に言えば、倒れていたと言うよりは、ソファーにもたれて蹲るように脱力していた。
聡平は気付かずに声をかけたが、兄はピクリともしなかったので、慌てて駆け寄った。
「兄貴…っ?」
肩に手を当てて揺さぶってみるが、返事もない。
指で前髪をどかして覗き込むと、こんなに暑い気温の中、真っ青な顔をしていた。
「兄貴、しっかり。返事して!兄貴!」
ぐったりとする兄を前に、聡平は初めてのことでどうしたらいいのかわからなかった。
どうしよう、救急車?父さん?どうしよう…良平!
兄貴が…っ!
「…。」
コンビニの前で座り込んでアイスを食べていた良平は、いきなりすっくと立ち上がった。
その頃からつるんでいた岡田瑞樹と、何人かの仲間が良平を見上げた。
「…どしたの、良。」
「食あたりか?」
ぎゃはは、と笑う彼らに返事もせずに、食べかけのアイスを瑞樹に手渡した。
「やる。」
「えっ、何?くれんの?!」
「ああ。…俺、ちょっと帰るわ。」
「はぁ?これからカラオケっていう約束はぁ?」
「パス。」
友人らのブーイングの中、良平は破れかけているいつもの鞄を背負った。
「なに、どうしたってわけ?」
さすがの瑞樹もきょとんとした表情で聞いてきた。
太陽の出ているうちに良平が帰宅したがるなんて、滅多にないことだったからだ。
「…聡平に呼ばれた気がする。わりぃ、マジで帰る。」
そう言い捨てて、良平は一目散に駆け出した。
家に辿り着くと、嫌な予感が当たっていた。
玄関の前に救急車が止まっている。
良平は、息を切らせて裏口から家の中に飛び込んだ。
「聡!どうした!」
「あ…良平っ。」
救急隊員に紛れて、制服姿のままおろおろとしていた聡平が、すぐさま駆け寄ってきた。
良平は聡平の顔を見て、とりあえずほっと胸を撫で下ろした。
「よかった…お前に何かあったわけじゃないんだな。」
一方聡平は、良平の顔を見て安心したのか、急に情けない顔になった。
今にも泣き出しそうな。
「兄貴、兄貴が…っ。」
「え?」
良平は、慌てて聡平の指差す方向を見た。
リビングの真ん中で救急隊員が診ているのは、兄の恭平だった。
ぐったりしていて、真っ青な顔には表情がない。
「なに…?」
「どうしよう、兄貴が、返事しなくて…っ」
「待て、落ち着け聡平。何がどうなってる?」
「帰ってきたら、兄貴が倒れてて。俺今日部活なかったから…っ!」
相変わらず話の順序はめちゃくちゃだが、良平には大体理解できた。
呆然としていると、救急隊員の一人が二人の元へやってきた。
顔がそっくりなので一瞬驚いた顔をして、しかしすぐに気を取り直して言った。
「たぶん過労だと思いますが、意識が戻らないので病院へ搬送します。どなたかついていかれますか?」
未だ混乱の隠せない聡平の背中を、良平が摩った。
「お前、ついて行くんだ。俺は父さんに連絡するから。」
「う、うん。」
聡平は気を取り直したのかおとなしく頷いて、自分が行く旨を隊員に伝えた。
「あ、でも。」
行きかけた聡平が、振り向いて言った。
「何だ?」
「兄貴、父さんには連絡するなって…迷惑かかるからって。」
「え?」
「そう言ったから…救急車呼んだんだ。だから、父さんには言わない方がいいかも。」
「馬鹿かお前は。」
よほど混乱しているらしい。
普段自分よりしっかりしている聡平が、常識的な判断ができずにいるようだった。
「兄貴が足の怪我した時の父さんのこと、見てなかったのか。俺は連絡するぞ。」
「…。」
心配かけさせたくないがために、恭平の怪我が孝平に知らされたのはしばらく後になってからだった。
その時孝平は、もっと早く言いなさいと、愛のことを軽く叱っていた。
良平はそれを見ていたのだ。
「わ、わかった。ごめん。」
「明美は後から連れて行くから。兄貴のこと頼んだよ。」
「うん。」
良平は恭平と聡平を乗せた救急車が走り去ったのを見送ってから、父親の孝平に電話をかけた。
その頃孝平はというと、ちょど社長室で仮眠をとっているところだった。
昨夜の会議が夜中の4時までかかり、その後会社に戻って眠っていたのだ。
秘書室から電話がかかってきて、良平からだと聞いたときに眉をしかめた。
暴れ者の良平が、また何か騒ぎを起こしたのか。
孝平は眠い頭を振って、電話に出た。
「もしもし。良平か。」
『ああ。今大丈夫?』
「用件はなんだい。」
こういう冷たい言い方に腹が立つが、良平は今それにかまっている時間はなかった。
『兄貴が倒れた。過労かもって。』
「…え…?」
予想外の内容に、一瞬だけ思考回路が止まった。
恭平が、倒れた…?
『今救急車で病院運んでるから。また連絡するね。』
「良平!待ちなさい。どこの病院だ?」
『知らねぇ。だからまた連絡する。』
良平はぶっきらぼうにそう言い放つと、一方的に電話を切った。
情報が不十分だが、孝平にもできることが一つだけあった。
孝平は、しばらく窓の外を見やって考えをまとめ、再び受話器を上げた。
『はい、秘書室です。』
「今日の予定を、明日に延期してもらいたい。少し疲れたので、今日は先に帰らせてもらうよ。」
『わかりました。』