始まり P6
良平からの二度目の電話で病院の名前を聞いた孝平は、自分の車を運転して恭平の元へ駆けつけた。
病院は嫌いだった。
…嫌でも、亡き妻のことを思い出してしまうからだ。
入り口に制服姿のままの良平が立っていて、手招きをしてくれた。
「よく来れたね。仕事はいいの?」
「…最近手を抜いてるんだ、これでも。」
嘘のような本当のような、それでも真実の孝平の気持ちだった。
「3階ね。俺は、まだ来てない明美を待ってるから。」
「電車に乗ってくるのか。」
「ああ。」
明美はまだ小学5年生だった。
それにもかかわらず、一人で電車に乗ることにはもうだいぶ慣れていたのだ。
母親がいないというのは、子供の成長を早める。
孝平は軽く嘆息して、エレベーターに乗り込んだ。
教えてもらった病室に行くと、腕に点滴を差して眠る恭平がいた。
側には聡平がいて、病室に入ってきた孝平をぼんやりと見つめた。
「…父さん?なんで、来れたの。」
「仕事を休んだからに決まっているだろう。それより恭平はどうだ?」
「…全然…目を覚まさない…。」
言った聡平は悲しそうに俯いた。
点滴の雫だけが、一定のリズムで落ち続けていた。
恭平が眠っている間、孝平は初めて仕事から離れた場所で自分のことを考えていた。
本当は、愛が死んだ時に考えるべきだったのだ。
自分はそれを考えてしまうのが嫌で、仕事に逃げていただけだ。
4人の子供たちは、彼らから進んで孝平を頼ってきたことはあまりない。
学費や生活費は全て父親から出ているので、恭平が何度か会社にやってきて話をしたりしたが、それ以外は顔をあわせることすらあまりしてこなかった。
自分の責任だと思ったことはないが、それからも逃げていただけだ。
今から突然変えることなどできないが、やれることはもっとあったのではないだろうか。
恭平に、倒れるほどの負担を強いらなくてもいい方法が…
どう考えてみても、後の祭りであることはわかっていたが。
…恭平が目を覚ましたら、まず謝ってみよう。
彼は許してくれるだろうか。
当時の孝平には、いまいち自信がなかった。
明美を連れて良平が病室にやってきたのはまもなくだった。
眠る恭平を見るなり泣き出して、他の病人さんに迷惑といったらこの上ない。
慌てて良平と聡平の二人が外へ連れ出そうとしたが、すると恭平の側を離れたくないと言ってまた泣き喚く。
看護婦にも注意をされ、キレた良平が明美を肩に担いで強制的に病院の外へ連れ出した。
そんな兄弟たちを見るのもまた新鮮で。
孝平は、何も言わずにただただ彼らの行動をじっと見ていた。
明美の泣き声が、眠る恭平の奥深くにも響いていた。
体が石のように重い…
自分がどうなったのか思い出せない。
朝、起きて、洗濯機を回して…
朝食を作って、明美と聡平を送り出して、良平を急き立てて。
洗濯物を干そうとしたら時間がなくなって、家を…
家を、出たっけ?
俺は…
「…きっ!兄貴!」
「…?」
突然、近くで声がした。
聡平…?
それとも、良平だろうか。
どちらにせよ、呼ばれている。
恭平は重たい瞼を開いて、目に飛び込んできた光に顔をしかめた。
目を開けたそこには、左右から聡平と良平が覗き込んでいた。
「あれ…二人とも、学校は…?」
「はぁぁぁ〜〜〜。」
間の抜けた恭平の第一声に、二人が同時にため息をついて、力なく椅子に座り込んだ。
「兄貴、倒れたんだよ、覚えてる?」
「え…?」
「朝だよ、朝。ちなみに今は、夜の7時だから。」
「…?!」
恭平には何が起こっているのかよくわからなかった。
ツンと鼻をつく薬の匂いが、この場所が病院であることを告げている。
「俺、看護婦呼んでくる。」
良平がそう言って立ち上がった。
目を覚ましたら呼ぶようにと言われていたのだ。
聡平は頷いて、隣の長椅子で泣きつかれて眠っていた明美を揺り起こした。
「明美。兄さん目を覚ましたよ。起きな。」
“兄さん”の単語にがばっと身を起こして、恭平の枕元に駆け出した。
「兄さん?大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
恭平は笑ったが、その表情は依然として疲労を物語っていた。
聡平は明美がまた泣き出すかと思ったが、ぐっと黙ったまま恭平を見つめていた。
その代わりに、遠慮がちに言う。
「兄さん。」
「ん…なに?」
「手、繋いでいい。手。」
「いいよ。」
明美は嬉しそうに布団の中に手を差し入れて、自分より二回りほど大きな恭平の手を握り締めた。
良平が医師と看護婦と共に戻ってきたとき、席を外していた孝平も病室に入ってきた。
診察を受ける恭平をじっと眺めていたが、ぐったりとしている恭平を見て、その姿が弱った愛に重なるような気がしていたたまれなくなった。
「過労と睡眠不足です。少し熱があるようですが、問題はありません。」
医師は、何も疑問を抱かずに保護者である孝平に話を振った。
その時初めて孝平がいることに気付いた恭平は、不思議そうな顔をして彼のことを見上げていた。
医師らが去った後、孝平は、恭平の側に立った。
「大丈夫かい。」
「う、うん…。父さんこそ、仕事は…?」
「お前たちをこれ以上失ったら仕事どころではなくなる。無理をさせてすまなかった。」
「え…。」
孝平は腕を伸ばして恭平の頭を撫でた。
それがなんだかとても恥ずかしくて、恭平は照れるように笑った。