始まり P7
その笑顔が、最愛の妻の愛にそっくりで。
孝平の心から、重く渦巻いていた罪悪感が、なぜだか消えた気がした。
「聡平たちは、明日も学校があるだろ。もう帰りなさい。」
一時間ばかり談笑した後、恭平はきっぱりとした口調で言った。
「でも。」
「俺のことはいいから。明日の朝食は…食パンが残ってると思うから、それを焼いて。」
「…わかった。」
聡平と良平は、同時に素直に頷いた。
「明美も、二人について帰りなさい。ちゃんと学校に行けるな。」
不満げだった明美だが、大好きな兄に抱かれた信頼は裏切れない。
渋々といった風で頷いた。
「明日、また来る。明美一番に来るから。」
「うん。気をつけて来るんだよ。」
「はい。」
最後は少し涙ぐんで頷き、明美はずっと握っていた恭平の手から自分の手を離した。
触れていた箇所の温もりを逃がすまいと、ぎゅっと拳を握った。
三人が出て行った後に残った孝平を見て、恭平は遠慮がちに切り出した。
「あの…ごめんなさい。また、迷惑をかけちゃった。」
「…気にすることはないよ。」
謝られると、孝平の中に再びモヤモヤした感情が沸き起こってきた。
罪悪感だが、純粋なそれとは違う、何か。
「寝不足だったのか。」
「え。…うん。試験期間中だったから…ちょっと無理して、勉強しすぎたみたい。」
それは嘘だった。
確かに勉強はしていたが、まとまった時間の取れない恭平にとっては毎日の積み重ねが大事だったので、決して勉強だけが原因であることはないのだ。
孝平はそのことを知ってか知らずか、軽く嘆息して恭平の枕元にあった丸椅子に腰掛けた。
「ギリギリまで無理をするところは愛にそっくりだ。」
そう言って、また頭を撫でた。
髪の毛の感触が、柔らかい。
孝平は無意識のうちに、恭平の額の辺りを親指で触れてみた。
少し驚いた恭平が、目を丸くして孝平を見上げた。
「…父さん…。」
「ん?」
「仕事は、本当に大丈夫なの?」
「ああ。心配するんじゃないよ、お前はもう寝なさい。」
額が熱いのは熱がある証拠。
「父さんももう帰った方が。」
「いいよ。ここにいた方が、余計な気を使わなくてすむ。」
この言葉で、恭平は自分が孝平に迷惑をかけている、ということを再認識した。
恭平は何も言わずに悲しそうな目をして黙った。
「…。」
「なんだ、眠れないのか?」
恭平に誤解させたことに気付かずに、孝平は不思議そうな顔をして恭平に聞いた。
恭平が慌てて首を振る。
「ううん。もう、寝る。おやすみなさい、父さん。」
「ああ、おやすみ。」
孝平は頷いて。
そのまま恭平の顔の前に屈みこんで、唇を合わせた。
「…?!」
突然の柔らかくて暖かい感触に、恭平は身体を硬直させて黙った。
キ、キス?
孝平は触れただけで唇を離し、恭平の目を正面から見つめて、ふっと笑った。
「おやすみ。」
孝平の口調はいつもと変わらなくて。
顔を真っ赤にして絶句した恭平を尻目に、孝平は荷物を置いたまま病室から出て行った。
どういうことだろう…。
迷惑がられているとばかり思っていた恭平には、とても理解できる出来事ではなかった。
全く不可解。
…でも。
いつもの、どこか無関心で冷たい感じのある孝平とは少し違った、暖かくて優しい感じのするキスだった。
嫌じゃ、なかったかも。
こんなことを考えてしまった恭平は、疲労で頭がおかしくなったのかも、と一人で慌てたように首を振り、顔を隠すように布団を被った。
点滴の入った腕が思うように動かない。
恭平は複雑な心境で溜息をついて、再び眠りに落ちていった。
次の日、恭平が目覚めた時には、孝平は既にいなかった。
テーブルには小さなメモ用紙が置いてあり、退院する時は迎えに行くから連絡しろと電話番号が書いてあった。
孝平の性格を表しているような、整っていてメモ用紙の中央に収まるように計画的に書かれた文字。
恭平はしばらくその字を見つめていた。
微熱の続いた恭平だったが、なんとか学校に復帰し残りの試験を受け、受けられなかった分は予備試験とレポートで乗り切った。
その間は、先に試験を終えた聡平が家事を引き受けてくれていた。
夏休みのある日、担任教師から連絡網が回ってきた。
クラスの女子の、母親が交通事故で亡くなったらしい。
恭平はいてもたってもいられなくなって、彼女の家へ駆けつけた。
「佐久間くん…」
彼女は泣きはらした顔をしていて、恭平の顔を見るなりまた涙を零して泣いた。
彼女の家は魚屋をやっていて、父親と母親が結婚した時から続いていた店だったそうだ。
葬式にも出席した恭平は、父親が悲しみに暮れ、ひどく落胆している様子を見た。
「パパ、お店やめるって言うの。ママがいないとやっていても仕方がないって。」
「そんな…。俺、お前んちの魚屋好きだったよ。もったいないよ。」
「私もそう言ったんだけど…。でも、私もママがいないとやっていく自信がないの。」
そう言って泣く彼女の気持ちは、痛いほどよくわかった。
しかし。
恭平は、すでにその悲しみは経験していたから。
何か彼女の力になれることがあるのではないかと、何度も説得した。
諦めてほしくなかった。
お母さんの分まで頑張って、生きなきゃいけない。
お父さんを支えられるのは、もう娘の君しかいないんだよ。
恭平は、まるで自分に言い聞かせるような口調で、優しく何度も語った。