仕事と関係 P8
出社するために駅からゆっくりと歩いていると、後ろから声をかけられた。
その声が弾んでいて、走って追いかけてきたのだとわかる。
「恭平くんっ!朝早いねぇ。」
彼は恭平よりも一回りも大きい肩幅を揺らして、呼吸を整えて聞いてきた。
体格の割に人懐っこい笑顔が印象的な、矢吹博人だった。
「おはようございます、矢吹さん。」
「うん、おはよう。今日もデータ打ち?」
「はい、おそらく。最近は慣れてきたせいか、いろんなもの任されるようになっちゃいまして…失敗しないか緊張しっぱなしです。」
「そうだろうねぇ。俺なんか画面見てたら眠くなるもん。この前ので懲りた。俺は営業とかそっち向きなんだっって、再確認だよ。」
「あはは。」
矢吹は恭平に合わせて歩幅を調節し、ゆっくりと歩いた。
それに気付いた恭平が慌てて顔を上げる。
「あ、先に行っていいですよ。俺遅いんで。」
「いいのいいの。俺はそのために早く来たんだから。」
「…えっ?」
「今日もお昼一緒に食べない?友達からもらった30%OFF券持ってんだ。」
「いいですよ。」
矢吹といると心が和むのは、寺崎が会津に行ってからも変わらない。
恭平は嬉しそうに頷いた。
言葉の端で恭平が少し咳き込むのに気付いた矢吹は、きょとんとした表情で恭平に聞いた。
「どうしたの、風邪でもひいた?」
「や、あ、いえ。あ、はい。」
「…どっちだよ。」
微妙な返答に矢吹が更に首を傾げる。
恭平は苦笑するばかりで、最後まで明確な回答は避けた。
その日の午後、矢吹と食事を終えた恭平は、いつものように食堂の片づけまでを手伝ってから仕事に戻った。
最近では営業へ出かけるぎりぎりまで矢吹も手伝ってくれるようになったので、食堂で働くパートの人たちにやたらと感謝される。
一人暮らしだというと残り物をくれたりして、矢吹にとっては願ったり叶ったりのようだ。
眼鏡をかけて机に座ってもらった資料のデータを打ち込んでいると、ふとしたことから咳が止まらなくなった。
「けほっ。…ごほっ。」
咳き込みながら、慌てて給湯室へと行き、蛇口を捻って水を飲む。
お茶くみにやってきた女子社員が心配してくれるのを笑ってやり過ごし、恭平は置いてあった椅子に腰掛けた。
体中筋肉痛だし、もう、最悪だ。
父さんはこんなことないんだろうな、痛いことされてないもんな、なんて考えて、一人で赤面した。
でもあれかな、痛いことされてなくても、いろんな体勢取りながら俺の体重を支えてるわけだから、少なからず筋肉痛になってたりして…。
筋肉痛で困っている孝平を想像して、恭平の口元には笑みが浮かんだ。
あんまり想像できない分、おかしな想像になった。
少し長いこと座っていた恭平は、やがてふと正気に戻り、慌てて立ち上がった。
すると給湯室の入口に立つ人影が見える。
恭平が見上げると、そこには見知った人物がいた。
「…竹本さん?」
ドキリと心臓が痛んだ。
なぜ、こんなところにいるのだろう。
竹本はいつでも孝平の側にいて、孝平が留守の時は秘書室にいるのが常だった。
昨日の孝平の台詞が一瞬のうちに脳裏によみがえる。
もしかして、孝平とのことについて何か言われるのだろうか…。
しかし、恭平の心配を他所に竹本はニッコリと笑って、心配そうに恭平の方へ近付いた。
「大丈夫ですか?声が変だったので、咳薬を買ってきたんですよ。」
そう言って、手に持った袋の中から一粒の薬を取り出した。
完全に虚をつかれた恭平は、きょとんとして竹本を見返した。
「え…?あの、もしかして…。」
「今朝会ったときに気付きましたよ。社長には心配する必要はないと言われたのですが…私には気がかりで。よければ、お飲みになってください。」
笑顔を崩さずに言った竹本は、なるほど、良平の言う通り何か違和感を感じる。
だが疑うということをあまりしない恭平は、わざわざ心配して薬を買いに行ってまでくれた竹本の行為に感動していた。
仕事大変なのに、わざわざ社長の息子のために薬を買ってきてくれたんだ。
なんて気の利く人なんだろう…。
そんな程度にしか考えなかった。
断るのは申し訳ないが、薬を飲まずとも明日か明後日には自然治癒する程度のものだ。
恭平は遠慮がちに、首を振った。
「あの…でも俺、風邪じゃないんで…平気です。」
「そうですか…でもこれが原因で体調を崩すということもありますし。用心のために、お飲みになられた方がいいと思いますよ。」
そう言って竹本は、恭平に無理矢理薬を手渡してくる。
恭平はその親切の行為をわざわざ断ることもできずに、それを受け取ってしまった。
お茶を飲む用の湯飲みに水を入れ、竹本が恭平へと差し出す。
「どうぞ。」
微笑んだ竹本はいつもの竹本で。
恭平は困ったように肩をすくめてから、湯飲みに手を伸ばした。
「はあ…。では、貰います。」
仕方なく湯飲みを受け取って、恭平はその場で貰った薬を飲み干した。
白い錠剤だった。