女社長 P18
「玲子さんが言うんですよ。これはチャンスかもしれないって。」
「チャンス?」
聞こえた言葉に耳を疑い、俊夫は身を乗り出した。
森坂は笑っていた口元を引き締めて、声を潜めるために同じように前に出た。
「チャンスって、どういうことだ。」
「玲子さん、三枝の社長になった暁には佐久間建設を追い抜きたいって言ってたじゃないですか。」
「ああ…学生の頃から言っていたな。三枝建設を大きくしたいと…まだ覚えていたのか。」
「覚えてるも何も、人生における目標ですよ。玲子さんにとっては。」
森坂は何を今更、と言った態度で軽く息を零した。近頃、秘書という立場からか兄よりも玲子のことを知っているらしい。
「でもチャンスって何が…」
「追い抜けるかもしれないらしいんですよ。佐久間建設を。」
「どうやって?」
「さあ、そこまでは。まだ聞いてません。」
「無理をするな。いいか、玲子が何を言っているのか知らないが、うちは例え売り上げで佐久間建設を抜かなくたって立派な会社だ。歴史もある。無茶をしなくても顧客はいる。」
「知ってますよ。」
「玲子を止めるんだ、森坂。」
「何をするかも知らないのに、何を止めろって言うんですか?」
森坂は肩をすくめてお手上げのポーズを取った。薄く笑っている。
彼は仕事の能力はあるが、流れには逆らわない傾向がある。更に悪いことに究極の快楽主義者だ。
自分の興味のある方へしか流されない。
今、彼の中にある流れは明らかに自分には向いていない、と俊夫は思った。
こうなっては暖簾に腕押し、何を言っても森坂の右耳から左耳へと抜けていく。
言うだけ無駄か。
「森坂…」
「やだなあ。そんながっかりした顔しないでくださいよ。」
困ったように森坂が言う。
「恭平くん、思ったより可愛いんですよ。言葉で言わなくても態度は正直っていうか。いいなぁ。」
とろんとした目で笑う。
駄目だ。
俊夫の背筋に嫌な汗が流れた。
「森坂…何を考えてる?」
「なんでしょう。当ててみてください。」
「…どうせ…」
「正解!さすがだなぁー俊夫さん。」
まだ何も言っていない。
開いた口を塞ぐタイミングさえ見失って俊夫は森坂をまじまじと見つめた。
「恭平くんといろんな話をしたいなぁ。二人きりで会ってるとどんどん…」
「森坂!!」
俊夫はこれ以上耐え切れなくなったのか、森坂の腕を取ってカフェを出た。
ふ、と思い出し笑いをして、俊夫はインターフォンを押した。
玲子の指定したホテルの一室。すぐにドアが開けられた。
「兄さん。いらっしゃい。」
スーツを着ていない妹に久しぶりに会った。俊夫は玲子を見て、少し老けたな、と思った。
「まったく、どういうつもりだ?恭平くんは?」
「その前に入ってよ。廊下でわめき立てないで。」
玲子は長い髪を肩の後ろに掻き揚げながら兄を部屋に招きいれた。すぐに鍵を閉める。不審に思いながらも、俊夫は中に進んだ。
浴室から森坂が出てきていた。
「あっ、俊夫さん!早かったね。」
森坂が無邪気に、しかし意味ありげに笑った。
この笑顔、嫌な予感がする。悦に入った表情だ。
「森坂…。お前、まさか。」
「まさか?そのまさかだよ。俺は玲子さんに協力した。」
ひょうひょうと言い放つ。俊夫は目の前が暗転するのを感じた。
なんてことだ。
ついつい怒鳴りたくなる衝動を抑えて、森坂に詰め寄る。爽やかなシャンプーの匂いが俊夫の鼻をついた。
「お前、自分のしたことをわかっているのか。俺の時とは違うんだぞ!」
「兄さん、怒鳴らないで。」
「森坂に言ってるんだ!…恭平くんはどこだ。」
「落ち着いてよ。」
「落ち着いてられるか。玲子も玲子だ。どうするんだ、佐久間を敵に回して…!」
「初めから敵よ。」
「そういう意味じゃない!!」
俊夫はついに、大きな声で怒鳴った。
それからふと我に返ったのか、軽く咳払いをして玲子から目を逸らす。
驚いた表情の玲子は、おそらく俊夫と森坂が感づいていることには気付いていないのだろう。
それもそうだ、当然かな、と俊夫は思った。
「そういう意味じゃないって、どういう意味よ?」
「いや…。とにかく。恭平くんはどこだ。あそこか?」
俊夫はこの部屋に唯一あるドアに目をやった。
確かにそこは、恭平の眠る寝室だった。
玲子は言い渋った。そのことが、恭平の居場所を教えていたのも同然だったが、森坂が意味深の笑みを湛えたまま言った。
「そうだよ。恭平くんはあの部屋にいる。」
それを聞くや否や、俊夫はドアに駆け寄った。玲子が溜息をつく。森坂は興味深そうに俊夫の背中を眺めていた。
「行かない方がいいと思うよ、俊夫さん。」
森坂の忠告は、俊夫の耳には届いていなかった。