女社長 P19



嫌な予感はしていたのだ。
恭平が玲子に初めて会った時から。
合わせた目を逸らした時から。


社長室の扉がノックされ、竹本がコーヒーを運んで来た。カカオの香りが部屋を満たす。
壁際のパソコンに向かって仕事のメールチェックを行っていた孝平は手を止めて振り向いた。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたところだ。」
「どうぞ。」
竹本はともすれば表情を崩して微笑んでしまいそうなのを我慢して、コーヒーカップを差し出した。温めたミルクと砂糖も、すぐ隣りに置いた。
孝平は持っていた紙束をキーボードの上に放り置いて、腕を伸ばしてウンと唸った。
「竹本も座ったらどうかな。一人で飲むのは寂しいよ。」
言われて口元を緩ませた竹本は、ではお言葉に甘えて、と部屋の真ん中にある応接用のソファに腰掛けた。

それからしばらく、二人は仕事内容には関係のない他愛もない話をした。今竹本と一緒に暮らしている母親の体調のことや、最近出版された本のこと、孝介の近況……

竹本は少ししかないこの一時が好きだった。
とても貴重な戯れの午後。
幸運なことに今日は社長の長男・佐久間恭平は出社日ではない。
不必要に心を乱されることのない、楽しい時間だった。

しかしどこをどう流れればそうなるのかわからないまま、話は仕事の内容に触れ始めた。
三枝建設の女社長。
近頃就任した彼女は、今まで保守派の塊だった幹部を一新し、密かに内部の改革を推し進めているのだと聞いた。
社内の若手からの評判はそこそこいいが、何分派手で古い物を遠慮無く捨てるやり方が、諸所の先輩方から不満が出ているらしい。
しかも彼女…三枝玲子は、竹本の目の前に座る、彼が慕ってやまない佐久間建設社長の佐久間孝平と大学時代の友人らしい。
…もっとも、玲子の話をする孝平の様子から判断するにただの同級生というわけではなさそうだ。
「発想が相変わらず突拍子もない。」
そう言って孝平は顔をしかめていた。

「相変わらずと言いますと?」
竹本はさり気なく、孝平の心を探るような視線を送った。
孝平は首を傾げてこめかみの辺りを自分の指でトントンと叩いた。
「知り合った時から予想しにくいことをしてくる人だったよ。夏場に暑いからって水着を着て教室に入ってきたり、いきなり抱きついてきたり。かと思いきや愛想のない態度だけを取ったりして、かなりの気分屋のようだな。」

それは愛情の裏返しというものではないだろうか。
竹本は、コーヒーの湯気にふぅっと息を吹きかけて静かに苦笑した。


そんな時、一本の電話が社長室に響き渡った。竹本ははっとして時刻を見る。
…休憩時間はまだ終わっていない。
「ん、誰だろう。」
孝平はコーヒーを皿に戻して立ち上がった。
「私が出ましょうか。」
「いや、いいよ。良平かもしれない。」
ここの直通電話を知っているのは身内の者と、数人だけだ。
孝平は受話器を上げた。
「もしもし。」

孝平のいつもの表情が崩れたのは、それから数秒も経たないうちだった。
「…俊夫?」
竹本はそっと、カップを机に戻した。立ち上がって孝平の側に近寄ろうとする。
それを手で制して、孝平は受話器を肩の間に挟んでペンを取った。
竹本に背を向けるようにして、裏紙に走り書きをする。
「ああ、それで?……。わかった、すぐに行こう。場所は?」
短く言う。
一瞬で室内が緊迫した空気に変わった。

孝平は電話を切ると、それまで飲んでいたコーヒーを口に含んで、ごくりと飲み干した。考えることがいろいろある。頭が混乱する。
「…社長。私に出来ることはありますか?」
竹本は遠慮がちに申し出た。
珍しいことに、こんなに緊迫した表情を見せている孝平がなかなか動き出さない。ただ事ではないことは手に取るようにわかる。

孝平はしばらくそのまま考えて、やがて竹本の顔を見上げた。
「金で解決できないことの場合、どうする?」

…意味不明な質問だ。
尋ねてきた孝平の意図がまったくわからない。
ただ、竹本には言えることがあった。ここ数年変わらない、自分でも不思議なくらい決意の固まる、魔法の言葉だ。
「社長がいいように、私もなります。」
自分に言い聞かせるように言った。


孝平は竹本の運転する車でオフィスを出た。
電話をかけてきた俊夫は、開口一番にこう言った。
「孝平。すまん、これは恭平くんの携帯電話からだ。」
なつかしい友人の声だった。だが、その友人から息子の名前が出てくることに、驚きが隠せなかった。
なぜ、三枝俊夫は恭平の携帯を握っているのだ。
俊夫と言えば玲子の兄。先日の峰山との会話が思い出された。
孝平が何かを言う前に、俊夫は矢継ぎ早に次の言葉を口にした。
「玲子が、君に話があるそうだ。恭平くんもいる。来てくれないか。」
背筋に嫌な予感が走った。
玲子の手癖はかなり悪い、これは自分の経験から確実だった。

「…すまん。孝平。…来てくれ。今すぐにだ。頼む。」

搾り出したような声だった。


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