女社長 P20
孝平は、竹本と一緒に会社を出た。
珍しく慌てた様子の孝平の気持ちを察し、始めに動いたのは竹本だった。彼の今日一日の仕事スケジュールを確認し直し、三時間だけ空き時間を作った。
それまでに通常業務に戻れれば、何事もなかったように振舞えるだろう。
その後、孝平を引っ張るようにして外に出て、車に乗った。
「三時間ですよ。」
「ああ。」
「どこへ行けばいいのですか?しっかりしてくださいよ。」
「うん。」
頷いて、孝平はぽつりとホテルの名前を呟いた。
ちらりと目をやって、確認する。放心しているわけではないらしく、孝平の瞳はしっかりと竹本を見つめ返した。
彼が深く頷いたので、竹本はエンジンをひねり、アクセルを踏んだ。
秀夫があんなひどい声で電話をかけてきたからには、何かよくないことが待ち受けている気がする。
それはもちろん玲子に関することで。
恭平が関係していることは間違いない。
初めて会った時に、手にキスの跡を残してきたノー天気な息子が、巧みな玲子の誘導に逆らえ切れるとは到底考えにくかった。
可能性があるとすれば、逆のことだ。
逆らえ切れず、何をされたか。
孝平はいつも自分の腕の中にあった最愛の息子の感触を思い出して、身震いした。ぎゅっと拳を握って前を見る。
どうか、彼が傷つくような事が起こっていなければいいと思う。
自分より家族や他人のことを一番に考えてしまう彼を、どうしてこれ以上、傷つけねばならないというのだろう。
どうしても守ってやりたかった。
ホテルの駐車場に車を止め、エレベーターで上に上がる。
皮肉にも森坂が恭平を連れて上がったのと同じエレベーターだった。
部屋に入る前に、竹本を見る。
「…竹本。」
「大丈夫ですよ。何があっても、私がついてます。」
「…。」
「私は貴方を愛してます。ですが、それと同じくらい、貴方の息子さんも愛してます。だから大丈夫です。」
半分は彼を安心させるための偽りだ。自分のライバルが長男の恭平だと知った日から、半分が偽りへと変わった。
だが、もう半分は相も変わらず、本当のことだった。
孝平と知り合った時からずっと彼ら四兄弟のことは見てきている。愛しい男の子供達を愛せないわけがなかった。
孝平は意を決したようにドアを開け、中に踏み込んだ。その後を竹本が追う。
入ってすぐの部屋に、玲子と森坂がソファに座ってこちらを見ていた。
その脇で、俊夫が立ち尽くしている。
孝平は素早く部屋を見渡して、状況を把握しようとした。
恭平が、いない。
沈黙を破ったのは、森坂だった。
「こんにちは、佐久間さん。初めまして。」
にっこり笑った表情の向こうに胡散臭さを感じながら、孝平は頷いた。
「ああ。君は?」
「僕は三枝社長の秘書の、森坂といいます。」
言って胸ポケットから名刺を取り出す。
「悪いが、後でもらおう。」
孝平は拒絶した。ひどい威嚇の一瞥をもって。
俊夫が横から声をかける。
「孝平、忙しいのに悪いことをした。」
「いいよ。それよりどういうことだ?三人も三枝関係の重役が集まって、一体こんなところで何をしている。」
「それが…」
俊夫が口を開きかけたが、それを制する様に玲子が立ち上がった。
自然、全員の視線が玲子へと向く。
「佐久間建設を貶めて、我が社の地位を上げる相談をしていたのよ。」
声高々に言い放った。
孝平の表情がより一層、険しくなるのがわかった。
しかし、すぐに力を抜いて、お得意のポーカーフェイスを表した。
「どういう意味だ?」
声も冷静さを取り戻す。
「お前達の営業を妨害しているつもりはない。」
玲子は笑って、目を細めた。
余裕のあるその表情に一体何を隠しているのだろう。
「かといって協力はしてくれないでしょう?私達の会社がのし上がるには、佐久間くんの会社が邪魔なのよ。」
「状況による。それに玲子、お前のやり方は根本的に私に合わないんだ。それはお前にとってもわかってると思っていたが。」
「わかってるわよ。だから私なりのやり方でやらせてもらった。」
孝平の背筋にぞわりと鳥肌が立った気がした。
かつて、大学時代に、授業内でディスカッションを行ったことがあった。
いくつかの班に分かれて行うのだが、最後まで佐久間班と三枝班が相容れなかった。孝平はたかが授業、と割り切っていた部分があったのだが、玲子は違ったようだ。
ある日、人気のない教室に呼び出された。
「授業のことで、相談があるの。」
確かそんなことを言っていた。
行ってみると、二言三言話した後、いきなり押し倒された。
困ったような顔をして、それでも少し羞恥を残した瞳で、若い玲子は囁いた。
「私達には和解が必要だと思うわ。そう思わない?」
「…だから?何の真似だ。」
一見ぼんやりした表情で、孝平が聞き返す。まっすぐな瞳が玲子を見つめていた。
「お互いを理解すれば、授業もスムーズに進むわ。私も貴方の考え方を受け入れられるようになる。」
「そうだろうか。お前、人の話を聞かないから。」
「聞いてるわよ?でもちょっと伝わりにくいだけ…。ちゃんと、教えて?」
玲子は美人だった。
少し微笑んだだけで何人かは振り向くような、魅力的な女性だった。そして自分が異性から好かれやすい女だということを理解していた。
一瞬だけ、孝平が、そんな彼女の美貌に目を奪われたのも事実。
孝平がそれを認めた頃には、二人の唇は重なっていて。
孝平はそこで初めて、しまった、と思った。