女社長 P21



孝平が玲子に許したのはキスだけだった。
合わせた唇を、逆に煽り、重ねなおし、舌で誘った。玲子を押し返した。机に押し付けてキスを返す。玲子はきっと、このまま流れに乗れると思っていたはずだ。

しかし、孝平は離れた。

濡れた唇をペロリと自分で舐め取って、玲子を見下ろす。
「俺がお前を嫌いでなくてよかった。キスくらいはできたから。でも、もうするな。したら許さないよ。」
容赦ない眼光で玲子を睨んでから孝平はその場を後にした。
玲子が彼の性癖を知ったのはそれから数日後、自分の兄と孝平がデキでいると知った時だった。


玲子は閉じていた目を開けた。
ここにいるのは、あの頃から何年も時を経た孝平と、自分だ。兄もいる。
お互い社長という立場に立って、かつての教室の中のように向き合っていた。
孝平は険しい顔をして玲子を見ていた。
「お前…恭平は玩具じゃないぞ。道具でもない。」
「わかってるわ。孝平くんの大事な息子よ。でも…私にとってはそうじゃない。」
玲子は意味ありげに微笑む。
少し乱れた、彼女の長い髪が気になる。孝平は首を振った。
これ以上、玲子と話していても時間の無駄だ。

孝平は俊夫の方に顔を向けた。
彼はいぶかしげに妹の顔を見ていたが、孝平に気付いて目を合わせた。
「恭平に会わせなさい。どこにいる?」
「それが…ちょっと、眠っている。」
「え?」
再び襲い来る嫌な予感。
俊夫も孝平の心を読んでいるかの如く、申し訳なさそうに俯いた。
「…会うか?」
「会うよ。もちろん。携帯も返して欲しいな。」
俊夫は頷いて、ポケットから携帯を出した。その時ちらりと玲子に目をやる。
孝平はそれを見逃さなかったが、あえて何も言わなかった。
携帯を受け取って、俊夫の後に続く。

彼は隣の部屋のドアを開けた。
「寝ているというか…気を失っているんだ。起こさないことを、俺はオススメするよ。」
「…。見てから決めるよ。頭痛の種が増える。」
真面目な顔で冗談ともつかないことを言って、孝平は部屋の中に入った。

その部屋の中にある一つの大きなベッドの上で、彼は横たわっていた。
見た限りではただ眠っているようにしか見えない。
近付くと、疲れたような顔色に、悲しみの傷が残っているようだった。
それ以外は、驚くほど綺麗な寝顔だ。
傷一つない。

「恭平。」
念のため声をかけてみるが、彼はピクリとも動かなかった。
まさか、と咄嗟に体へ触れるが、呼吸と心拍は正常だった。生きている。
触れられたことにより、恭平が小さく呻いて、目を開けた。
天井に焦点が合い、鏡に写った自分の姿を見て、目を背けた。その視界の端に、信じられないものが写る。

「恭平。」

言葉を発した。
懐かしい響きがする。
恭平は目を合わせた。孝平が、すぐそばに立っている。

「と、さん…?」
「恭平。大丈夫か。」
心配そうに頭を撫でてくれる。自分は大丈夫だと証明しようと体を起こそうとして、異変に気付いた。正確には、思い出した。
一瞬にして襲い来る、生々しいまでの記憶。

「や、だ…っ!」
「え?」

恭平は突然、孝平の手を振り払った。
驚く孝平に背を向けて、後ずさる。胸元の着物を引き寄せて、肩を抱いた。
「駄目だ…来ちゃ駄目。触らないでっ!」
「恭平?何を言ってる…」
「だめ…俺、自分が情けなく、て…っ」

途端に力が抜ける。体に力が入らない。
気持ち悪い…

孝平が咄嗟に、倒れこんだ恭平の体を支えるために腕を出した。
「恭平、大丈夫か?」
「さわ、んっ、ないで…っ」
恭平は消え入りそうな小さな声で、息を詰まらせた。力が入らない腕でどうにか、孝平の服を掴む。言葉とは裏腹に、離れたくないというかの如く強い意思表示だった。


「心配ないわ、鎮静剤を打ったのよ。ちょっと、興奮状態だったから。」
玲子が部屋に入ってきて言った。
その後に森坂も続いている。

「…どうしてそんなものを打った。玲子…お前、恭平に何をした?」

孝平の問いに、玲子は微笑んだ。
勝利を目前にした、余裕の微笑みにも取れる。

「私たち愛し合ってるのよ、佐久間くん。」

孝平の腕の中で、恭平がビクリと痙攣した。
震える体を静かに孝平から離そうとする。それを感じた孝平は、無言で恭平のことを引き寄せた。
ベッドに顔を伏せたままの恭平の顔を膝に乗せ、背中を摩る。

静かで、自然な流れのように。

恭平はすぐそばに孝平の体温があることに、これほど安心したことはなかった。
無意識に速度の上がっていた呼吸が、落ち着いていくような気がした。しかし相変わらず、気分は悪く眩暈がする。

孝平や玲子の声が、とても遠くに聞こえた。
「愛し合ってる?誰と誰がだ。」
「私と恭平くんがよ。今日、私達は結ばれたの。」
「…強引に、だろう。」

孝平は語尾を強めた。
無意識に背中を摩っていた手が止まりかけた。恭平が擦り寄ってきて、ぎゅっと抱き締めてきたのではっとした。
冷静に判断しないと、大きな失敗をしかねない。

「強引にかどうかは、これに聞いてみる?」

玲子が言うのと同時に、森坂がいつの間にか持っていたウォークマンを顔の高さまで上げてちらつかせた。
孝平には、いくらで買い取る?と言っているように聞こえた。

「…何が目的だ。」
「目的?愛に目的とかあるのかしら。私と恭平くんは愛し合ってるのよ。結婚するのに理由が必要?」
「結婚?」
突拍子もないことを言い出した。


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