雷雨 P3
机の一点を見つめたまま動かない孝平を、旭はしばし見守った。
今、この男が何を考えているか。
考えてもわからないことだった。
「戻るのかね。」
旭は聞いた。
孝平が顔を上げる。
「…はい。私には…。」
「わかっているよ。恭平は預かるから、安心なさい。」
「すみません。お願いします。それから…」
「なんだね。」
「今夜、何時になるかわかりませんが、私もこちらに泊めていただくわけにはいかないでしょうか。」
「え?」
旭は驚いてじっくりと孝平を見た。
まさか、そんなことを言い出すとは夢にも思わなかった。
旭の知っている佐久間孝平という男は、少なくとも仕事と家族を天秤にかけてこちらに傾くような、家庭的な温かさを持った男ではなかったから。
妻の喪失が、それとも別の何事かが、この男を旭の知らない男に変えたのかもしれない。
良い方向に、だといいが。
「…私は構わないよ。寺は年中無休だ。」
旭が答えると、孝平は安心したように眉尻を下げ、ふ、と笑った。
「それは、いくらなんでも無用心ですよ。」
「はは。そうかねぇ。」
「日付が変わらぬうちに、戻るようにいたします。」
「気にするな。予定が変わりそうなら電話をおくれ。」
「わかりました。」
孝平はもう一度深く頭を下げ、それから立ち上がった。
結局濡れた頭や肩は一度も拭くことがなかった。
孝平は玄関で立ち止まり、奥の座敷へ繋がる襖に目をやった。
恭平の眠る、座敷へ。
その視線は、驚くほど暖かく、優しい光を帯びていた。
同じ瞳で旭を見、お願いします、とハッキリと言い、孝平は雨の中を出て行った。
門前に車が一台停止していて、彼がその助手席へ滑り込むのを旭は見届けた。
結局、恭平がなぜ気を失った状態で旭の元に運ばれたのかは聞けなかった。
明らかに態度が、それを聞いてくれるなと、立ち入ることを拒絶していた。
孫の容態よりも、義理の息子の顔色の方が心配になったのだから仕方がない。
彼の顔は紛れもなく、父親のそれとなっていた。
恭平のことを面倒に思っているわけではなく、心底心配しているからこそ、ここにつれてきたのだと信じることができる顔。
祖父に、孫娘に対して嘘まで吐かせて。
旭は、その期待に応えるまでだと思った。
娘の愛が選び、死ぬまでついて行くと誓った相手に、初めて頼られ必要とされているのだ。
とても光栄なことだとは思わないか。
座敷の奥から聞こえる、苦しそうな恭平の息遣いだけが、旭の不安をかきたてた。
「恭平…」
遠くから呼ばれた気がして、恭平は振り向いた。
が、振り向いたつもりでも思うように首が回らない。目線が泳ぎ、背後に意識を集中させる。
…誰?
返事はない。
ただの空耳か。
視界が霞んでいて、よく見えない。
自分が何処にいるのか、恭平はとっさにはわからなかった。
「恭平…」
また声がした。
さっきより近付いたか。
ふとシャツが揺れたような気がして、視線を落とす。
白くてごつごつした、男の手が目に入った。
指が綺麗だった。
親指と人差し指がボタンにかかり、そっと穴を通す。
外れるとすぐに、指はその内側へ滑り込んだ。
「あっ…?」
声が出た。
…気がしただけかもしれない。
唇が塞がれた。
これも、実体はなくてただそんな気がしただけのような気がした。
何せ視界が霞んでいる。
白いような、青いような、もやもやして定かではない色だ。
恭平はそれを心地良いと感じなかった。
嫌な色だ。
息がうまく吸えなかった。
水の中にいるような。周りの空気が突然薄くなったような。
もがいて腕を掻くと、その腕を押さえられた気がした。
ぐいっと頭上に引っ張りあげられて、びくともしない。
体中に何かが這っている。
もやもやとして、はっきりしないけど、ほのかに温かいそれはさっきの手かなと考える。
肩や腕、脇や腰の輪郭を確かめるように撫でられてゆく。
背中にぴったりと寄り添われた。
前に回された手が、指が、恭平の胸元を弄る。
何故かそれだけはハッキリと、嫌悪感たっぷりに恭平の神経を刺激した。
ひくっと肘が震え、恭平は仰け反った。
逃れたくて腕や足に力を籠めるが、何かに阻害され、思うように動けない。
息が苦しくて、首を振った。
そのタイミングを見計らったように再び胸元の二点を交互に掬われたような気がして、恭平は目を閉じた。
鼻の奥から小さく息が抜ける。
頬を赤らめ、救いを求めて瞳を潤ませる。
と、さん………
呟いた途端、ふわっと宙に浮いた気がした。
誰かが腰を、後ろから前へゆっくりと愛撫した。
覚えている。
この感覚を。
伸びた爪が当たっている。
女性の手。
利己的で、傲慢な、あの人の。
父さんを困らせる、許せないヒト。