雷雨 P4
「恭平くん…」
さっきから呼んでいたのはこの人だったのか。
恭平は頭に血が上るのを感じた。
基本が穏やかな彼にとっては珍しいこの感情に、理性が追いつかず制御を失う。
恭平はより一層もがいた。
ふざけるな。
触るんじゃない。
消えてくれ!
ドンッ
耳元の衝撃に恭平は目を開けた。
今度は本当に、現実世界で見開かれた。
目の前に拳がある。
ぎゅっと強く握られ、鬱血して色が白く変わっている。
頭が冷静になってくると、はぁはぁと肩で息をしながら泣いている自分に気がついた。
枕が冷たい。
「あれ…。」
思わず呟いて、恭平は頭をもたげた。
寝違えたように首が痛い。
見渡すと、襖が見えた。十畳ほどの畳の上に敷かれた布団の上に、恭平は寝ていた。
息が苦しかったのは、枕に顔を埋めていたからかもしれないと気付き、ふと安心した。
暗闇の中に手を突き、体を起こす。
着ているものは肌着一枚で、なんだか妙に寒気がした。
よく見るとべったり汗が肌に浮き上がり、それで寒いのかと納得がいく。
立ち上がりかけた途端、外が激しく瞬いた。
すぐ音も鳴る。
雷だ。
恭平は左足に力を入れてふらりと立ち上がり、光が見えた方の襖を開いた。
激しい雨音が耳をつく。
曇天を見上げるが、今が何時か見当もつかない。
恭平は、すでに自分の居る場所が何処であるかわかっていた。
何故此処にいるのかも。
誰が連れてきてくれたのかも、思い出していた。
自分の身に起こったことも、身体の痛みが思い出させてくれる。
ふと力を緩めると、放たれたものが溢れ出てしまいそうな不快感が、体中を占めていた。
「…はっ。」
恭平は息を吐いた。
自嘲気味な笑みが浮かぶ。
父さんは今、どうしているだろう。
どんな気持ちで。
何をしている?
利用された。
こんなに屈辱的で、情けなくて、無意味なショックを与えられたのは初めてだった。
愛だとかいたわりだとか、優しさなんて言葉を、この世からきれいに忘れてしまうくらいに。
孝平はそんな恭平を見て、何を思ったのか。
論理的思考の持ち主なのに、意外と嫉妬深くて独占欲の強い、あの父親が。
ふらふらと他人に陵辱され、私事だけでなく仕事の上でも迷惑をかける、この強くない息子を、これ以上構うだろうか。
例え意志がなくとも。
セックスは成り立つ。
これを浮気と呼ばず、謀略と呼ばず、なんと呼ぶ?
恭平は、唇を噛み締めた。
もう傍には居られない。
こんな自分は必要ない。
存在そのものが、とても無意味に思えた。
「良ちゃん…。」
と、情けない声で妹から電話がかかってきた時、良平はバイト先の裏手にいた。
外は雨がバケツをひっくり返したように土砂降りで、傘を持っていないことに立ち往生していたのだ。
「何だよ?情けねぇ声出すんじゃねぇよ。」
『うう…今日、帰ってくる?』
「わかんね。この雨だし。」
杉野が仕事を終えるの待って、迎えに来てもらおうかなんて自分の都合中心に考える。
もちろん口には出さなかった。
「なんだよ?」
『じゃがいもをね、』
「うわ!!!!」
叫んだのは、誰でもない良平だ。
上空の空一面が、カメラのフラッシュより強烈な光を放った。
…と思った瞬間に、大地が裂けたかと思うくらいの轟音が聞こえたのだ。
さすがの良平も肩をびびらせて空を仰いだ。
叫んだことすら、自然すぎて意識に残らない。
数秒遅れて、あれっいまの情けない声俺か?、なんて考える。
『やだー、さっきからずっと、雷。びっくりしたー。』
「そっちも光った?」
『うん。なんかさ、一人だとけっこう怖いね。』
そんな風に言われては、良平としては帰らないわけにはいかない。
杉野が拗ねるかもだけど、仕方がない。自分よりデカい男より、雷に怯える妹を守るのが筋ってもんだろう。
良平は店に引き返し、ビニール傘を買った。
バイト仲間の後輩が意外そうな顔をして言った。
「あれ、良平さん。まだ帰ってなかったんすか。」
「雨がすげー。」
「雷、やばいっすねー。」
良平は肯いて、背中越しに手をひらひらと振った。
その背中に後輩も作業に戻りながら答える。
「お疲れっす〜。」
良平は、雷雨の中に傘を開いた。