雷雨 P5



「今日、兄さん帰ってこないのよ。」

バイト先から帰宅した良平は、玄関先で靴も脱がないうちにそう告げられた。
目の前の明美は不満そうだ。

「おじいちゃんが。兄さんに相談したいことがあるんだって。」
「相談?じいさんが?…なんだろ。」
「さあ。…あ。濡れてる傘、ちゃんと巻いてからしまってよ。」

うっせーな、と一瞥し、しかし素直に良平は傘をクルクルとたたんだ。
ビニール傘から大きな水滴がポタポタと滴る。
良平はそれを傘立てに手荒に突っ込み、靴を脱いだ。
俯いた際に伸びた前髪が目にかかったので、雨に濡れた手でかきあげる。

前髪がないと本当に双子の弟とそっくりだ。
もはや慣れきった明美ですらふとした瞬間に驚く。

「ま、いーや。飯どうする?お前作んの?」
「う…。作れって、電話掛かってきたんだもん。」
「じゃあやれよ。塩と砂糖は間違えんな、しっかり見ろ。味見をしろ。」
「良ちゃんも一緒にやろうよ。」
「やだよ。たまには一人でやれよ。食べるから。」

明美が甘えたい時に、そばにいてくれても甘やかしてはくれない良平なのだった。
こういうところが、長兄や三男とは違う。


リビングに来たところで、ピリリリ、と着信音が鳴った。
良平は体のポケットのある位置を素早く探り、ズボンからストラップ毎引っ張って携帯電話を見つけ出した。名前も良く見ず、通話を受ける。
「あー、もしもし?…うん。終わった?」
声の調子から、杉野先輩かなと明美は思った。
親しげな、温かい、大切な人に向ける声。
口から出てくる言葉の羅列は悪くとも、明美には理解できるものがあった。

「ごめん今日…、うん。いや、違うバカ!言ってろ!じゃなくて…家で飯食べるから。そう。……うん。ごめん後で話す。」
ちらりと明美を見て、良平は電話を終えた。

「今日、外食する予定だったの?」
「特に約束はしてなかったからいいんだよ。あー、腹減ったー。聡平は?」
「まだ連絡してない。」
「あっそう。ま、いっか。そのうち帰ってくんだろ。」
「良ちゃんと違ってね?」

「うっせ!」

良平が毒づいたのに小さく笑い、明美は台所に入った。
窓の外で激しく打ち続ける雨の音や時折響く雷鳴は、いつからか明美にはさほど気にならなくなっていた。



深夜。

日付も変わろうかという頃。

外はまだ、雨と雷が、まるで神様に何か嫌なことがあったのだろうかと思われるような機嫌の悪さで激しさを増している。
孝平は、義父の家で風呂を借り、着るものも借り、静かに畳の上に座っていた。

部屋の片隅に、意識を朦朧とさせた恭平が眠っている。
眠っているのか?

しきりに苦しそうに寝返りをうつので、安眠できてはいないだろう。
うなされているのだ。
孝平は、足を崩して柱にもたれかかった。
年季の入った建物を支える木がきしむ。

ここも、しばらくしたらリフォームを考えるべきだな、なんて意識を飛ばす。

「…ん…、」

恭平がまた、うめいて寝返りを打った。
何か言っているのかもしれないが、言葉にはなっていない。

ちらりと横目で見やり、なんともいたたまれない気分になった。
そっと近付いて、額に手を当てる。
汗がジワリと、掌を濡らした。

恭平の、浅く速い呼吸に合わせて、胸がしきりに上下する。
喉が熱に震えている。

「恭平。」

額から、前髪に触れ、指の裏で頬を撫でる。
嫌がられるかと思ったが、恭平はその指が何かを確かめるように首を傾けた。
眉根が寄る。

雷が光った。

照らされて一瞬見えたのは、こんな時だというのに不謹慎な感情を抱かせるに十分なものだった。
肌蹴た布団の中から、恭平の汗ばんだ肌が浮き上がる。

「…。」

孝平は無言で、そのまま首筋に指を走らせた。
「ぅ、…っ」
恭平は朦朧としながら腕を上げた。
体に流れる自分ではない何かを跳ねのけようと宙をかく。

その手を優しくつかみ、孝平は、布団の脇に押さえつけるように縫い付けた。
「恭平。」
名を呼んでも返事はない。

仕事を終えて帰ってきてから、こうして何度も呼んでいるのだ。
何度も、何度も。

悪夢から帰って来いと。

「恭平。」

再び名を呼び。
孝平は、汗ばんだ恭平の唇に、自分のそれを合わせた。


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