雷雨 P8



腑に落ちないことが渦巻いたまま、聡平は祖父の家を出た。

恭平の部屋を出る前に、彼を布団の中に寝かせることを手伝った。
確かに、彼の右足は何らかの変調を起こしていて、時折兄は苦しそうに顔の表情を歪めた。
肩を貸したとき、触れた肌は火照っていた。

体調の悪い身内を見ることは、望まずとも亡き母を思い出す。
とても気分の悪いものだ。

「くそっ…」
聡平は毒づいて、足早に帰路を歩いた。
兄は時々、壁をつくる。
見えない壁が、とてももどかしかった。


雨はしとしとと降り続く。
ここ数日、やむことはなく。
やんだと思っても、太陽の出る時間帯ではなかったりして、ずっと曇り空である。
恭平の為にも晴れてほしいと。

「父さん。」

障子を開け、軒先から空を見上げてぼんやりとしていた孝平の背中から、恭平の声がした。
「ん?」
あえて振り向かずに、孝平は返事をする。
「今日は、家に帰ってよ?」
「ああ。…こだわるね、君も。」
まるで、自分から遠ざけるように。

「俺はもう、大丈夫だから。」

「…。」

振り返ることができない。
この期に及んで何を言っているのだろう。

”大丈夫”な人間は、あえてその状態のことを言葉で表現することはしないものだ。
当たり前すぎて笑える。

孝平は肩越しに振り向いた。
布団に横になったままの恭平と目が合う。
何も言わないでいると、恭平も何も言わなくなった。
今にも泣きそうに見えるのは、気のせいだろうか。

「恭平。」
「何?」
「言うとおり、私は今日は向こうへ帰るよ。確かに子供たちだけ残して、何日も家を空けるのはいくら私でも気にかかる。あの家には今、君もいないことだしね。」
「だよ。母さんも、怒るよ。」
「そうだな。」

ふと、妻の顔を思い浮かべて孝平は目を閉じた。

その姿を見て恭平が、胸を締め付けられていることを知らない。
自分で振った話であるのに、複雑な気分だ。

孝平は、立ち上がって室内へ入った。
障子を閉め、恭平の元へ近づく。

立ったまま見下ろされると、ちょうど影になった。
見上げる孝平の顔が、表情が、ほとんど見えなくなる。
「その前に頼みがある。」
影は言った。

恭平は布団の中で身をすくめた。
「な、何?」
そのシルエットは嫌だ。
なんとなく、悪寒が背筋を走る。
「熱があることも、足が痛いことも、承知で言う。」
「…なんでしょうか。」
「恭平の作る料理が食べたい。」

・・・。

「カレーでも、お茶漬けでも、なんでもいいよ。」
「…。」
「サラダでも煮物でも、魚でも肉でもいい。」
「…今日?」

コクリ、と影は頷いた。

なんて。
…なんて、あたたかい。優しい影。

「それから。」
影は、すっと動いて腰かけた。
影の背後から光が差し、恭平は一瞬目を細めた。
孝平の顔を、はっきりと光が映し出す。

「私は今も、明日も明後日も。君を抱きたい。」

突然の不意打ちに。
心の臓が震えた。

「できればあの時。連れ帰ってすぐにでも、抱きたいと思ってた。」
「っ…」
「それを覚えておいてくれ。」
「あ…」
「恭平がどう思ってるか知らないが、俺は、今でも、」

目頭が熱い。
こぼれる。

そう思った時には既に、恭平の目じりから熱のこもった涙の粒が、ぽたりと落ちた。
重力に従って肌を流れ、耳元から枕へ、ポタリと音を立てた。

「君を抱きたいんだよ。」


世の中の、恭平に手を差し伸べたいと思う人間となんら変わりなく。
孝平は抱くことでしか愛することを表現できない。
むしろ抱くことしか知らない森坂のような人間と同じである気さえする。

ただ、そういう人間と違うのは。


「でも。今はしない。」

恭平が少し目を見開いた。

「安心するといいよ。」

外では雨が、また少し強まってきていた。


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