雷雨 P10
平静を装いながら孝平が答える。
「二日ほど前じゃないか。…いや三日前かな。」
「何故それを、俺たちに連絡しなかった?熱もあるんだろ?」
「…。」
「親父、何か知ってるな?知ってて隠してるな?」
「何をだ。」
「俺は、心配してんだよ。俺だけじゃない、みんな心配してる。」
「わかってるつもりだよ。」
「じゃあ、なんで連絡してこない?歩けないくらい痛いんだったら、もっと早く病院に連れて行くべきだった。兄貴の足に関しては、今更ほっといて自然治癒するようなもんじゃないだろ!」
「…承知の上だよ。」
ほら。
やっぱり何か隠してる。
病院に行けなかった別の理由が、あるということだ。
そしてそれを、わざわざ呼びつけた聡平には打ち明けなかった。
今回に関しては不自然な点が多すぎる。
何故、自宅ではなく祖父の家に隠れるように身を寄せているのか。
何故、聡平だけを呼びつけたのか。
初めは聡平にだけ何かを打ち明けるつもりかと思って黙っていたのだが、なんてことはない。
結果から判断するに、聡平が選ばれたのは兄弟3人の中で最も従順だから、だ。
良平は拳を握った。
「…まさかとは思うけど」
「?」
「病院に行けないような、何か理由があったんじゃねーよな。」
「…例えば?」
「…例えば。孝介叔父さんの時のような。」
身体に、恭平の名誉を傷つけるような何かが刻まれているとか。
嫌でも蘇る、忌まわしい記憶。
兄は、何故かそういう乱暴される側の運命の星にいるのだろうか。
無表情の父の顔色を窺っていても埒が明かない。
良平は彼の横をすり抜けた。
「待ちなさい、良平!」
「待ってらんねー!」
「落ち着きなさい…」
「兄貴、どこだっ!じーちゃんも!」
室内の騒ぎに、袈裟に数珠をもった祖父の旭も駆けてきた。
何事かと、良平の背中に続いて孝平を見やる。
義理の息子はこめかみに指をあてて小さく首を振る。
誰に似たのか、この横暴さは。
良平、と小さく呼ぶ声が聞こえた気がして、奥の一室を勢いよく開けた。
「兄貴!」
中には恭平がいた。
畳に敷かれた布団の上で上半身だけ起こし、少し寝ぼけた様子で面喰った表情をしている。
後ろ髪が寝癖で方向を違えている。
「な、どうした?」
「兄貴っ…」
「大丈夫か、なんでそんな急いで…」
「大丈夫か、じゃねーよ。こっちの台詞だッ!」
ぐっと胸を反らし、良平は室内に入った。
濡れたヘルメットがガタンと音を立て、足元に落ちた。
ぐんぐん近付いてくる良平の形相には、恭平でなくとも恐怖を味わうだろう。
「り、りょう、落ち着けよ。止まれ。」
兄の制止の声も届かず、良平は濡れた手で恭平に迫った。
よもや殴り掛からんばかりの勢いだ。
しかし良平は、恭平の布団の脇で膝を折り、座り込む。
それでも上から兄を見下ろし、来た時の速さとは打って変わってゆっくりと、両手で胸倉を掴んだ。
その瞬間に恭平がビクリと肩を強張らせた。
「り、」
「…どうしたんだよ。」
「…、え?」
「どうしたんだよ。言えよ、全部。」
「ぜ、全部って」
「全部だよ。三日前、何があった?」
恭平にとってはいきなり核心に迫る日にちだった。
背筋が凍り、急速に意識が遠のく。口の中の水分が失われていく。
その異変に、良平も気付いた。
「兄貴…?嫌なことでもあったのかよ。」
「や、やめろって。」
「言えよ、全部。」
「やめろ良平。」
「兄貴!」
「離せって!」
普段は大人しい兄が声を荒げて叫んだ。
良平の潜在意識の中で警鐘が鳴り響く。
これ以上はダメだ。嫌われる。
それでも良平の掴んだ力が緩まらない。
恭平が苦しそうに、良平の手に自分の指を重ねた。
外の気温に晒されて冷たく濡れた良平には、熱すぎるくらいの温度が伝わる。
兄の力は、良平や聡平に比べると弱い。
逆らうことなど簡単だ。
「白状するまで、今日は俺、ひかないから。」
「わかった…」
目を閉じた恭平は、ふうと息を吐いた。
「わかったから、頼むよ良平。」
「え?」
「離れてくれ。…お前、怖いよ。」
「当たり前だろ、俺、怒ってんだよ。」
「そうじゃなくて。頼むよ…近過ぎんだよ…」
最後の恭平の台詞の意味がわからない。
そんな、言うほどに近くはない。
間に人が一人くらいは入る距離がある。
ハッ、と息をのんで良平が、やっと指の力を緩めた。
それと同時に恭平の体も重力に逆らわず落ちていく。
予想以上に落ちるので、慌てて良平は、今度は兄の体の下に腕を入れて支えた。
「おいっ?」
とさり、と良平の腕の中で恭平が脱力する。
自分の腕で肩を抱いて、顔を伏せる。
じんわりと汗が、額や頬、首筋の見えるところから、おそらく服の中までも、無数に肌の上に浮かび上がっていた。
良平が息をのむ。
「自分でも。」
「え?」
「自分でもどうしようもないんだ。わかってるんだよ、このままじゃいけないって。」
「…。」
「兄弟相手でもこんなになるなんて、本格的にダメだな俺…」
恭平の言葉は、肩と等しく震えていた。
それはとても微かで、触れていなければわからなかったかもしれない。
背後に父の影が差した。
顔を伏せたまま、恭平の唇が動く。
揺れるまつ毛が濡れているのは、良平の服についた水滴ではないだろう。
「病院に行かなかったのは、俺の我儘なんだ。」
「…。」
「人に会いたくない。触れ、られたく…」
「兄貴?」
「いっ…」
痛い。
恭平の異変を感じとり、様子を見ていた孝平が動いた。
「お義父さん、氷、取ってきてもらえますか。」
「ああ、そのようだね。」
良平の背後ですっと、祖父が立ち去る。
恭平を支えたまま振り向くと、ゆっくりと父が近付いてきた。
「良平、恭平を布団に寝かせて。その姿勢が響くんだと思う。」
「あ、ああ…」
最後の言葉は、足に対してか。
ややこしい、と良平は心の中で毒づき、枕を引き寄せた。
恭平の頭をそこに乗せる。