明美の提案 P4
息苦しい。
身体が熱い。
腕を、足を、誰かの手が拘束したような気がした。
正体の見えないそれから逃げたいと思い、力いっぱい抗ってみる。
自分の指が何かを引っ掻いたような気がしたが、痛みはなかった。
また、今度は手首をしっかりと掴まれた。
氷のように冷たい手だ。
男…?
覗き込んでくるその人物は、父親の知り合いだったような気がする。
ニコリと微笑むその顔に恭平の背筋はふっと冷たくなった。
モリサカ、と彼を呼ぶ声がした。
足元から近付いてくる。
腹や胸のあたりにすり寄るように。
長い髪がさらりと首元を撫でた。
私、佐久間くんのことが好きだったの。
聞きたくもない声が何度も方角を変えて響いてくる。
赤い唇が動く。
こちらは女だ。
サエグサレイコ。
彼女の影の向こうに、鏡に映った自分の姿があった。
二人の男女に凌辱され淫らに曝け出された自分の裸体が。
ズキリと心と体が引き裂かれる。
「私たち愛し合ってるのよ、佐久間くん。」
また女の声がした。
違う。
違うんだよ、父さん。
こんなこと俺は望んでなんかない。
決して望んでなんかないんだよ。
わかってくれるよね、父さん?
鏡の向こうの裸の自分と目が合う。
この姿ではあまりにも説得力がない。
父の背中が見えた。
いつも見ていた、家族に向けた背中だ。
母が生きていた頃はなんて冷たい姿だろうと思っていたが、彼を知る度にその印象は変わっていった。
不器用なその背中を、姿勢を少しずつ理解した。
理解できたことが嬉しかった。
温かさを知ってしまったその背中が、不意に遠ざかっていく。
行かないで、父さん。
「と…、」
ゼイ、と喉の奥が鳴っっている。
何度も何度も、うまく吸おうと思うのに空気が入ってこない。
気管が痛い。
苦しそうな呼吸の音が胸をこする。
やがてこれは自分の発している音かもしれないと自覚し、恭平は目を開けて起き上がろうとした。
すぐさま、ぐっ、と何か柔らかいものに押さえつけられた。
「はっ!」
「恭平。」
すぐ目の前で声がした。
視界が涙で霞んでいたが、しばらくして焦点が合ってくる。
シルエットが、そして何よりその声の音程が、恭平が今一番求めている人だと伝えてきた。
「とうさ、父さん…っ」
「気が付いたか。」
ほっと息を付いたのも束の間、恭平の腕が首元にしがみついてきた。
帰宅したばかりの孝平のワイシャツに涙と汗が染みていく。
布団を抑えていた良平が力を緩めて額の汗を拭った。
「兄貴、」
父にしがみついた恭平を支えようと良平が腕を伸ばす。
その肩に杉野が手を置いた。
「え?」
良平が振り返る。
杉野は目を合わせて意味ありげに微笑んだ。
「?」
「水を取って来よう。良平も疲れたでしょ。」
「…確かに。くたびれた。兄貴、大丈夫かな?」
「意識が戻れば大丈夫だろう。呼吸に集中すれば、たぶん。」
良平は一度兄に視線を戻した。
ベッドの脇に座り込んだ父の膝の上に身を委ねたまま、兄は父にしがみついて泣いていた。
呼吸音は未だに苦しそうだ。
孝平が彼の耳元で何かを囁いている。
落ち着いて、ゆっくり息を吐けとか、大丈夫だからとか。
良平はふと、兄が一番安心するのは父親なのかと、今更ながらに悟った。
いつからだろう?
…考えても思い出せない。昔からだったような気もする。
良平のそばに立っていた杉野拓巳はそれを知ってか知らずか、先に踵を返し、右手で首の裏を揉みながら歩いて部屋から出て行った。
それに気付いて良平も後を追う。
時刻は夕方18時。
良平が呼んだ孝平が、驚く早さで帰ってきたばかりだった。