非日常 P3



いつの間にか朝になり、杉野に起こされた良平は食欲がわかないと言って布団の中で丸まっていた。
昨夜よりも体中の関節が痛い。

ガチャガチャと杉野が動く音がして、出かける前に、彼の指が良平の前髪をそっとかき上げた。
「行ってくるけど。」
「んー…ああ。」
「水とバナナと、あとヨーグルトと薬。そこのテーブルに置いといた。タオルと着替えも一応出してあるから。」
「…うん。」

ほんと、準備のいい奴…。
良平は朦朧とした頭で、なんとか頷いた。

「何かあったら携帯に電話して。一応、恭平さんには」
「黙ってろって。」
「…そんな感じだから。」
「ああ。わりぃ。」
「インフルエンザかもしれないから、薬が効かなかったら電話するんだぞ。」
「わかった…早く、行けよ。遅刻する。」
「…じゃあ、行って来る。」
良平の髪から指を離して、杉野はベッドから離れた。

玄関で靴を履いていると、背後から良平の声がした。
「杉野。」
「えっ?」
「早く…帰ってきて。」
消え入りそうな小さな声で。
ともすれば寝言なのではないかとも取れる良平の言葉を、杉野はなんとか聞き取った。

玄関からでは姿の見えない良平に届くような大きな声で、杉野は答えた。
「そのつもり!」
「よし…。」
「行ってきます!」

バタン!

声と同時に扉の閉まる音。
うるせぇよ、あいつ…
良平は舌打ちしつつも、安心して目を閉じた。


夢を見た気がする。
ここのところずっと見ていなかった夢だ。

台所からイイ匂いがして、鍋がコトコトと音を立てる。
台所を覗くと、背丈のさほど変わらない兄の恭平ではなくて、もっと小さくて華奢な、女の人が立っている。
良平が何も言わずにぼんやりとその光景を見ていると、その人は彼に気付いて、優しくほほ笑む。

起きた?

それでも何も言わないと、その人は笑ったまま近付いてきて、そっと、良平の頭に手を当てた。

まだ熱があるのかしら。

額と額をくっつけてくる。
それが嬉しいような、恥ずかしいような。
咄嗟に彼女を突き放して、良平は逃げ出した。

しばらく走って、はっと気付いた時には既に遅く。
慌てて振り返っても、その人はおろか台所すら見る影もない。

あれ?
どこ行ったの?


「………はっ!!」

良平は、不快感に思いきり目を開けた。
これ以上見ていたくなかったのかもしれない。
夢の中でも現実でも同じだ。
良平はいつまでたっても素直になれない自分に苛立った。

がばりと身を起こすと、会社へ出掛ける前に杉野が用意してくれていた品々が目に入った。
「…。」
しばらくぼやっとして、それからのそのそと着替えに手を伸ばした。
汗をかいた分だけ、朝よりは気分がスッキリしている。

何気なく時計に目をやると、すでに昼の三時になろうとしていた。
熟睡していたらしいが、依然としてお腹は減らない。
タオルで体を拭いていると携帯が鳴った。名前も確認せずに乱暴に携帯を開く。

「あー、もしもしっ。」
『もしもし佐久間くん?今日、どうしたの?』

聞き覚えのあるような…えーと…

家族から大学の友達までいろいろな知り合いの顔が脳裏に浮かんでは消える。
「…。」
『今日君、二時間前からシフト、入ってるけど。』
「あッ!!」

やっべー!バイト先の店長だ!!

「あ、すいません!昨日からちょっと…俺、寝込んでて。」
『ああ、そうなんだ。風邪?』
「はぁ…たぶん。」
『そう。じゃあ今日は無理かな。』
「あー…いや。店混んでます?」
『そうだねぇ…今はまだ混んでないけど。』
いつもは週末と水曜日の夜が混む時間帯。
つまり、そろそろだ。

『慣れた子がいなくて、来てくれると助かるんだけど…風邪なら仕方ないかな。』
「はあ…」
『少し前に連絡が欲しかったかな。』
「すんません。」

完全に忘れていた。
申し訳なくなった良平は、立ち上がって、鏡の前に立った。

「あの…今から行ってもいいですか。」
『えっ?大丈夫なの?声に元気がないけど。』
「はあ、たぶん。」
思ったより顔色は悪くないし…急ぎでシャワーを浴びれば、なんとかなるだろう。

『じゃあ、来て。何分くらい?』
「電車なんで…三十分くらいかと。」
『いいよ。ではよろしく。無理しないようにね。』
「うす。」
良平は電話を切ってベッドに放り投げ、服を脱ぎ始めた。
杉野になんて言おう。
汗と一緒に熱も流れればいいのにと思った。

シャワーから上がり、ダッシュで荷物をまとめた良平は、靴を半分つっ掛けて駆け足で玄関を飛び出した。
階段まで行ったところで慌てて戻り、鍵をかけて、再び駆け出した。
あーやっぱり体が重いや。

階段の最後で、買い物袋を持ったおばさんとすれ違った。彼女は一瞬良平を見て、視線を前に戻してから、え?と不思議そうな顔をして走り去る青年の背中をもう一度見つめた。
良平はそんなことに構う余裕もなく、駅までひたすら走る。
定期券を使って改札をすり抜け、停車していた電車に飛び乗った。
いつもより呼吸が上がるのが早いし、動きづらい。
良平は舌打ちをして、大きく溜め息をつきながらドアにもたれて座り込んだ。電車内の人たちが不審そうに見て来るが、この際気にしない。

ああ、しんどいよ、杉野。


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