抱擁 P8



「…え…?」
良平は名前を呼ばれたような気がして、うっすらと目を開けた。
すでに見慣れ始めた天井を見上げて正気に戻り、はっと顔を上げる。
部屋の中には智哉の姿はなく、隣の部屋への扉がうっすらと開いていた。耳を澄ますと、誰やらの話し声が聞こえてきた。

「…野田って、昨日会った関西弁の奴だろう。なんだ、もうフられたのか?」
良平は手錠で拘束されて真っ赤に腫れた手首を刺激しないように動かして、なんとかベッドの上に座ってみた。
体に力が入らない。
足でタオルケットを引き寄せて、できるだけ傷だらけの体を隠した。

あれから……何日経ったのだろう。
変な時間に眠らされ、変な時間に起こされるために日にちの感覚が薄れていた。
「…裏切られたってわけ。じゃあ、こっちにももう来るかもしれないな。」
更に耳を澄ますと、智哉の抑揚のない声がハッキリと聞こえた。
ドキリとした。
こっちにも来るかもしれない?誰が…?

「…ふむ。早めに逃げたほうがよさそうだな。またおふくろにでも頼むか。」
逃げる?
誰から?

良平は妙な胸騒ぎがして、今のうちに手錠が外れないかともがいてみた。
彼のいない時には必ずこうして手錠をいじっていたので、手首が傷ついて血が滲んでいた。
壊れそうなのに、壊れてくれないのだ、この手錠。

カチャカチャという音をたてていたのがよくなかったのか、智哉が良平に気付いた。
「ああ、良平さん起きたみたい。じゃあ、早めに逃げるから。後始末はよろしくな。」
良平がギクリと動きを止めた。
電話を切った智哉がゆっくりとした足取りで近付いてくる。

「良平さん。あんた、男で俺が初めてってわけじゃないんだね。」
唐突に何を言う。
電話の内容と関係あるのかないのか。
良平は唇を噛み締めて、智哉のことを睨みつけた。
「…別に。どうだっていいだろ、そんなことは!」
「どうでもよくないよ。だってそのために我慢してきたんだから。」
「は?」
「初めてだったらかわいそうだなぁと思って。良平さんの気持ちが堕ちるまで待ってあげてたんだよ。」
「……。余計なお世話だ…っ」
声が震える。
杉野のことを知られてしまった。
杉野、だめだよ、早く逃げて……っ!

智哉が一歩、良平の方へ近付いた。
反射的にびくついて、良平は壁に背をついた。
「へぇ、その男、そんなに大事なんだ。怯えちゃって、カワイイ〜。」
「ふ、ふざけんなっ!!」
「強がっちゃって。そうか、わかったぞ。良平さんを堕とすにはまずその男を忘れさせなきゃいけないんだな。」
「……っ!!」
ゾワリ、と今まで感じたことのないほどの悪寒がした。
顔色を変えた良平のことを智哉はニヤニヤとした眼で見下ろしている。

怖い。

初めて本気で、そう思った。

良平はもう自分の保身のことなど忘れて、立ち上がるくらいの勢いで智哉に食らい付いた。
「…好きにしろよ、クソ野郎が!一人じゃ何にもできないくせによ!」
「なに?」
智哉の表情が動いた。
動揺したらしいが、必死の良平はまったく気付いていない。
「俺のことを手に入れるだけのことに、友達何人も使っちゃってよ!結局てめぇは俺一人とまともに話すこともできねぇんじゃねぇか!」
良平の瞳から、初めて、熱い涙が零れ落ちた。
監禁されてから生理的な涙は流しても、感情的な涙は流さなかった良平が。
自分以外の人のために、次から次へと涙を流した。

「そんな弱虫に犯されたって、痛くも痒くもねぇ!どうせ一人じゃ勇気が出なかっただけだろっ!」
「…それ以上言ってみろ。」
「言ってやるさ!お前は弱虫だ!友達や親の力を借りないと何にもできない、ただの子供だ!!!」
「黙れ!!」
智哉のがっしりした腕が、良平の首を締め上げた。
苦しそうに顔を歪めた良平がベッドの上に押さえ込まれる。
圧倒的な力に逆らう術はなかった。

「く、は…っ。」
「立場を思い知れ!お前は俺のものだ。口答えは許さない!!」
「……っ!!」
誰が従うものか、と良平は歯を食いしばった。
喉が締め付けられて呼吸ができない。

一瞬、このまま殺されてしまうのも悪くないかな、と思った。
杉野が痛い目に逢うくらいなら。
ふっと意識が遠くなりかけた瞬間、しかし智哉の指の力が弱まった。
離された反動で息を吸い込み、良平が激しく咳き込む。
苦しそうに喉を押さえて呼吸を落ち着けている良平を見下ろして、智哉は呆然と立ち尽くしていた。

「…けほ…っ。…智哉…?」

立ち尽くした智哉は、良平の首を締めていた両手を見つめて、両目から涙を流していた。
その顔には表情がなく、智哉自身も驚いているようだった。
良平は咳き込むことも忘れて、しばしその泣き顔を見つめていた。


++
++
+表紙+