気がつくと、そこは海の中。温かな水の流れに優しく包まれて、とても心地良い。
(ここは、どこなのだろう)
 気にはなったけど、ゆっくりと開いた瞳には揺らいだ景色がぼんやりと映し出されただけで、像を結ばず。何より、あまりに心地良くて、脳に血をめぐらせる事すら億劫になってしまって。
 再び目を閉じて水の流れに身を任せると、意識もまた、ゆっくりと水の流れに乗り、溶けていった……。

 目を開くと、そこには、見知らぬ天井。そんなどこかで聞いた様なフレーズが思い浮かんだけれど、ぼんやりと眺めていると、実際には見覚えのある光景のような気がする。
 でも、自分の部屋ではないのは確か。
(だって、あんな豪奢なシャンデリアが私の部屋にあるわけないもの。)
 体を包む布団の感触はあまりに柔らかで心地良くて、気を抜けばまたすぐに眠ってしまいそうなほど。第一、こんなフカフカすぎる布団の上に寝ていることもまたどことなく違和感を覚えて。重い体をなんとか元気づけて、首だけをめぐらせてみた。
「祐巳……」
 そこには、心配そうに祐巳の顔を覗きこんでいる祥子さまのお顔があった。どこか疲れた表情で、不安げに祐巳を見つめている。両手でギュッと握られた自分の右手を通して、お姉さまの体温が伝わってきて温かい。
「……そっか」
 ようやく合点がいった。ここは、お姉さまのお部屋のベッドの上なのだ。
 そういえば、今日はご家族が皆外出するとかで、祥子様のご自宅には誰もいらっしゃらない日で。一人きりのお留守番は心細いだろうという事で、祐巳はお泊まりに来たのだった。むしろ、それを名目におしかけたと言った方が正しいかもしれないけれど。
 視線をめぐらせてみても、この広い部屋の中にはお姉さまと二人きりのようだ。
「蓉子さまと聖さまは、まだいらしていないんですね」
 そう。たしかお二人も今日はいらっしゃる予定なんだけれど、遅れて来るという話だった。
「……ええ、まだいらしていないわ」
 一応答えてはくれたけれど、お姉さまの関心はそこにはないみたい。ただ、なんともいえない切なげな瞳で祐巳を見つめている。
 ……ふと、優しい香りが鼻をくすぐった。
「あ、せっけんの匂い」
 祐巳の呟きに、祥子さまはピクリと反応した。
 なんだかいつもより、せっけんの匂いが濃い気がする。たしかに、お姉さまのお宅にお邪魔するからと、念入りに体を洗いはしたけれど、それは昨夜の話で。今朝は身だしなみを整えただけで、朝にシャワーは浴びていない。それに、この匂いは福沢家のものではない。
(眠ってしまう前に、こちらでお風呂に入ったんだっけ?)
 などと、すっぽり抜け落ちている眠る前の記憶をたどろうと頭をひねっていると、お姉さまが低い声でボソリと呟いた。
「何も言わないのね」
「えっ」
 何もって、何を?
 一人で先に眠ってしまった事を怒っているのだろうか。でも、それにしてはあまりに空気が重い。
「ねえ、祐巳。ちゃんとこちらを見て」
 お姉さまの手のひらが、そっと頬に触れ。祐巳の顔を、その美しい面差しと向かい合わせた。すごく、真剣な瞳。
「ごめんなさい……。あんな目にあわせてしまって」
 消え入りそうな声で呟く。あんな目、って、何の事だろうか。
 落とした肩が、小さく震えだした。お姉さま、もしかして……泣いている。
「私のワガママのせいで……祐巳が、もう目を覚まさなかったらと思うと……私……私はっ……」
 今までずっと、こらえていたのだろう。大粒の雫がしたたり落ち始める。
「私……祐巳の姉、失格よね。……ロザリオ、返したくなったでしょう」
「なっ」
 どうしてそんな事を。そう思ったものの、あまりの言葉に返す言葉が見つからない。
 祐巳の右手を握っていてくれた祥子様の両手を、今度は逆に祐巳が強く握り返していた。
「祐巳……」
 お姉さまが、わずかに顔を上げる。
「私がお姉さまにロザリオを返すなんて事、あるはずないじゃありませんか。逆ならともかく」
「私だってそんなこと言わないわよっ」
「わっ。あ、いや、今はそういうことを言っているんではなくて。えっと、とにかく、私はお姉さまにロザリオを返さなくてはいけないような事、された覚えはありませんし」
 お姉さまがどうしてご自分を責めているのかはわからないけれど、それだけは断言できるから。祐巳は、力強く言いきった。
「………………」
 しばし黙って思案するお姉さま。すると、祐巳に軽く微笑んで見せた。ただ、その微笑みは、どこか諦めや疲れの色濃い、痛々しいものだった。
「優しいのね、祐巳は……」
「へっ」
 思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。だって、また訳のわからないことをお姉さまが言い出したものだから。
「今日の事はお互いに、なかった事にしてしまおうと言うのでしょう」
「………………」
 今日のお姉さまは少しおかしい。たとえ悪いと思っていても、簡単には謝らないのがアマノジャクの祥子さまで。こんなふうにメソメソ自分を責めてばかりいるのは、絶対に似合わない。
「でも、私は、全くなかったことにして祐巳の姉として振舞い続けるなんて、できそうにない。だから……」
「お姉さま!!」
 自分が思ったよりも随分と大声を上げてしまったようで、祥子さまは目を丸くしてこちらを見ている。だって、言葉は悪いけれど、こんなに情けない祥子さまは見ていられなかったから。
「私のお姉さまは、たとえ何が起こっても、祥子さま一人だけ。それは、未来永劫変わる事はありませんから」
「祐巳……」
 祥子さまは両手で顔を覆って、わんわんと泣きだしてしまった。本当に、子供のように頼りなげなその姿に、思わず両手でその体を抱き寄せた。今だけは、自分が姉になったような気がした。

 ひとしきり泣いて、お姉さまは落ち着きを取り戻したようなので、祐巳は改めて尋ねてみた。
「お姉さま。『あんな事』って、何の事です?」
 祐巳の腕の中で、お姉さまの体がピクリと反応した。もう取り乱すことはないけれど、恥ずかしい事なのか耳が真っ赤になっている。
「……今日は随分といじわるなのね、祐巳は」
「へっ」
 また変な声が出る。もう落ち着いたと思ったけれど、やっぱり言っている事がわからない。
「そんなに私の口から言わせたいのね」
 あえて口を挟まず、次の言葉を待つ。本当の所がわからない以上、事情を知る本人の口から聞いた方が手っ取り早い。
「……はだか、で……おしり……私の……うん……」
 あまりに小さい声でボソボソ話すので、断片的にしか聞きとる事ができなかったけれど、聞きとれたキーワードを頭の中に並べてみる。
 はだか、おしり、うん…………?
(………………)
 その瞬間、祐巳の脳裏にものすごい光景がフラッシュバックした。
「あああーーーーーーーーっ!!?」
 いきなり屋敷中に響き渡りそうな大声を張り上げたため、お姉さまは心底驚いた顔をして心臓を押さえたけれど。瞬間湯沸かし器のように頭の中が一気に沸騰してしまった祐巳は、そんなお姉さまを気にかける余裕もなく、あまりにいたたまれなくて掛け布団を頭から引っかぶった。
「まさか、祐巳……」
信じられないといった口調で、お姉さまが呟く。
「本当に、さっきの事、覚えていなかったの」
 ……そうなのだ。どういうわけか、わずか数時間前のその行為の記憶が、すっぽり抜け落ちてしまっていたのだ。あまりに強いショックを受けると記憶が抜け落ちると聞いた事があるけれど、たしかに刺激的すぎる事があんなに続いたものだから、脳が非日常と断定したとしても仕方のない事かもしれない。
「っーーーー!!」
 恥ずかしすぎてどうにかなってしまいそうで、ベッドの中でますます体を小さく縮こまらせる。
「…………ふふっ」
 小さく笑いが漏れたかと思うと、お姉さまは我慢できなくなったのかアハハハハッと大声で大笑いした。
 こんなふうに笑うお姉さまなんてまずお目にかかれるものではないけれど、そんなお姉さまと一緒に笑う余裕なんて、今の祐巳にはまるでないのだった。
「お、お姉さまぁっ」
 あまりに大声あげて笑い続けるものだから、文句の一つも言ってやろうとベッドの中から頭だけ出して見上げると、お姉さまはボロボロと涙を零しながら笑っていた。
 あっけにとられて見つめていると、お姉さまは祐巳の首筋にギュッと抱きついてきた。
「私、バカみたいね。一人で思いつめて、先走って」
 大笑いすることで、溜めこんでいた余分な感情を全て吐き出せたのか、お姉さまはスッキリとした顔をしていた。
「ねえ、祐巳。改めて、聞かせてほしいの。……全てを思い出して、それでも」
 お姉さまの聞きたい事はわかっている。だから、まだとても恥ずかしいけれど、祐巳ははっきりと言いきった。
「たとえ、何があっても。私のお姉さまは、未来永劫、小笠原祥子さまただ一人です」
 祐巳の宣言を聞いて、浮かんだお姉さまの笑顔は、天使もかくやというとても素敵な笑顔だった。

「さて、と。どうする?」
 運転席の聖が尋ねてきた。目の前に広がるは小笠原邸。何度も訪れているとはいえ、やはり圧倒されるものがある。
 今しがたまで、聖の黄色い車で街を一周していた。一応、祥子の家には遅れて到着するという設定になっていたから、時間潰しの為に。
「……やめましょうか」
「へえ、どうして」
 散々運転手としてこき使われた割に、聖の口調には不満の色がない。私がそう言いだす事を予めわかっていたかのように。
「二人のジャマをしちゃ、悪いじゃない」
「あら、何かあった時の保険として、私を連れてきたんじゃないの」
 聖がおどけて言う。なぜ今回私が誘ったのかを、よくわかっているようだ。
「だいじょうぶ。二人はうまくいっているわ。そんな気がする」
「蓉子さんはいつから超能力に目覚めたのかな」
「バカ」
 ニヒヒと笑って見せる聖に、私も笑いを返した。
 今日は私達の出番はナシ。妹達は互いに、新たなステップを踏み出せたはず。明確な根拠はないけれど、大豪邸の一室、祥子の部屋の窓だけが半分ほど開いていて、カーテンがそよいでいるのを見れば、確かにそう思える。
 私と祥子とはまた別の、二人の関係……。
  ブニ。
「……なんなの」
「いや、なんとなくね」
 物思いにふけっていた私の頬を、聖の人差し指が突っついていた。
「さて。じゃ、もうひとっ走りしましょうか」
「そうね。お願い」
「姫の願いとあらば、喜んで」
 走り出す前に、もう一度祥子の部屋へ視線を向けた。柔らかな風に、ゆったりとそよぐカーテン。
 今回は、もう安心。おせっかいはここまでにして、親友とのドライブを楽しむことにしよう。


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