〜1〜

「本当に、いいのか?」
「はい。悔しいけど、潮時かもしれません……」
「そうか……」
 一番星プロレスの社長室。テーブルを挟み、その社長と、中心選手である越後しのぶが来客用のソファに腰掛け、向かい合っている。社長も、社長の傍らに控える秘書の井上霧子も、どこか諦めの混じった、寂しげな表情を浮かべていた。
「ウチに入団して、およそ8年か。長いような、でも短かったような気もするな」
「そう、ですね」
 しのぶが視線を落とす。テーブルの上には、自らしたためた引退届け。今ならまだ、手を伸ばしてビリビリに破り捨てればなかった事に出来る。何度もそうしてしまえという衝動が湧き上がるが、拳を握り締め、グッと堪える。
「初めて私と会った時の事は、覚えているかい?」
「ええ。何か、胡散臭い人が現れたなと」
「ひどいな。そんな風に思っていたのか」
 頬を掻きながら苦笑する社長に、しのぶも思わず笑みを漏らす。
「それはそうですよ。他団体に入団したての新人に、旗上げ前の団体の社長がいきなり声をかけてきたんですから」

〜〜〜

「移籍、ですか? 私が?」
「はい。ぜひ、越後さんに我が団体に来て頂けないかと」
 4月。新日本女子プロレスに入団したばかりの少女、越後しのぶが朝自主的にランニングをしている途中、男性に声をかけられた。その男性はプロレス団体の社長と名乗り、自分に移籍して欲しいといきなり申し出たのだ。デビュー戦もまだ済ませていない新人の自分に、こんな早朝から、である。
「人違いじゃないですか? 先輩達に用があるなら話はしておきますけど」
「いえ、私は貴方に来ていただきたいのです。越後しのぶさん」
「なぜ私なんです? まだデビューもしていないのに」
「先日のプロレス雑誌に、新女の今年度入団テストの合格者が載っていましてね。その写真を見た時に、ピンと来たんです。我が団体に必要なのはこの子だ、と」
 ……胡散臭い。そんな、写真を見ただけで他所の新人を引き抜こうとする団体など存在するだろうか。いったい何が目的なのだろう。怪しい勧誘かとも思うが、見た目という事なら、同期の藤島の方がよほど目をつけられやすいだろうし。
「ええと……一番星プロレス、でしたっけ。聞いた事のない団体名ですけど」
「はは。まあ、まだ旗上げ前ですからね」
「旗上げ前っ?」
「ええ。とりあえず越後さんに参加して頂きたくて、まず最初に声をかけさせていただきました」
「はっ? という事は、まだ選手も揃ってないんですか?」
「そうなりますね。越後さんが、我が団体の記念すべき初の所属選手です」
 ハハハ、と笑いながら頬を掻く男性。その瞬間、しのぶの頭に血が上った。
「ふ、ふざけないで下さいっ! そんな、嘘か本当かもわからない、真面目にやる気があるのかすらわからない団体に、移籍なんてできるはずないでしょうっ。失礼しますっ」
 しのぶは渡された名刺を地面に叩きつけると、男性に背を向けて走り出した。
「ま、待ってください越後さん。では、ちゃんと我が団体が形になってからもう一度伺いますからっ。越後さ〜んっ」
 背後から聞こえる声を無視し、しのぶはムカムカする気分を抑える為に、ランニングのスピードを上げた。


 その後、その男性はしのぶの前に現れなかった。タチの悪いいたずらだったのか、と数日はムカムカが残っていたものの、ハードな練習やデビュー戦を経て日々の試合などに追われ、いつしかそんな出来事があった事すらも忘れていたのだが。

 連日の練習や試合の疲れは一晩休んだだけでは消えはしない。いずれは慣れて体もペースを覚える、そう言う先輩達の言葉を信じて、ダルさの残る体を引きずって今朝もランニングに出る。同期の藤島などは規定の練習以外にも自主的にランニングを行うしのぶを、まるで別の生き物を見るような目で見ていたが、一度決めた事はやり抜くのがポリシーのしのぶとしては、どんなに体がきつくてもやめるわけにはいかなかった。

 そしていつもの巡回コースの公園に差し掛かったところで、見覚えのある男性の姿が目に入った。
「おはようございます、越後さん」
「あっ? あなたはあの時の」
 先月、朝っぱらから変な声を掛けてきた、プロレス団体の社長を名乗る男性である。
「先日のデビュー戦、拝見させてもらいましたよ。気合の充実が伝わる、実に良い試合でした。結果は残念ながら、来島選手に敗れてしまいましたけど」
 男性の言葉に、悔しさが甦る。一つ上の先輩であるボンバー来島にデビュー戦でいきなり勝てるとは思っていなかったものの、それでも負けると悔しいものだ。しかし、なんでそんな事を知っているのだろう。これは、噂のストーカーというやつか。
 手元に木刀があれば叩きのめしてやりたい所だが、プロとなった自分が素人に手を上げるわけにはいかない。しのぶは男性を無視し、ランニングを続ける事にした。
「わっ、ちょ、ちょと待ってくださいよ越後さん。話を聞いてください」
 慌てて追いかけてくる男性。どうせすぐに根をあげるだろう、と思っていたのだが、スーツ姿でありながら男性はしのぶのペースにぴったりついてくる。数分走った末、公園の中心の噴水の前でしのぶはランニングを止めた。
「もう、なんなんですかいったい。ついてこないでください」
 立ち止まり、男性の正面に向き直る。物腰が柔らかいせいか軟弱なイメージを持っていたのだが、よく見るとスーツの上からでも意外とガッチリした体つきをしている。結構走ったのだが、息を切らせた様子もない。
「いや、約束したじゃないですか。ちゃんと我が団体が形になったらもう一度伺う、と。ウチもテストやスカウトで有力な新人が入ってきましてね。とりあえず現在は5人。あと一人、そう、越後さんが参加してくれれば、今月にも旗上げしたいと思っているんですよ」
 男性が名刺を差し出す。思わず受け取ると、そこにはまた『一番星プロレス』の文字。
「いやあ、先月捨てられてしまいましたからね。一応こちらに連絡先が書いてあるんで、何かの際はここに」
 しのぶは名刺と男性の顔を交互に見比べる。この一見頼りなさそうな男性が社長。第一印象よりはマシになったが、まだ信用しきれない。そんな所に自分が身を置くとなれば尚更だ。
「……とりあえず、これはもらっておきます。でも、口で数を揃えたと言われても信用できませんから。何か形で示してください。では」
 しのぶは男性に背を向け、再び走り出す。
「ああ、越後さんっ。次は良い返事を聞かせてくださいねーっ」
 今度は追いかけて来ず、しのぶの後姿に声をかける男性。とりあえず手渡された名刺をジャージのポケットにしまい、しのぶはランニングを続けた。


 そしてまた、男性はしのぶの前に現れなくなり、彼女自身も練習と試合の毎日にその事自体を忘れかけていた頃。
「なんやこれ、新団体設立やって。一番星プロレス、か。なんやびみょ〜な名前やねぇ」
 練習の合間の休憩中、藤島が今週の週刊リングを見ていた。聞き覚えのある名前に思わず振り返ると、これまた同期の菊池が背後から首を突っ込んで覗き込んでいる。
「なになに……へえ〜、新人だけを集めて旗上げするんだって。面白いね。私もここに入団してれば、メインイベント張れちゃったりしたのかな」
「アカンのと違う? ここの子ら、みんな背高いし、キクチみたいなチビッこいのじゃムリムリ。ま、ウチほどかわいい子もおらんから、ウチならメインになっとったかもしれんけどね」
「ムカッ。もう、なんでそういう事言うかな」
「それに、こんなちっちゃい団体すぐに倒産してまうよ。スターも呼ばんと新人だけなんて。今までもいっぱいあったやん、そんな団体」
「ウドとタケノコってやつだね」
「それを言うなら雨後のタケノコや。て、なんか違う気ぃするわ。まあ、ここにもウチみたいな未来のアイドルがおれば良かったのにねえ。それにどっちにしろ、キクチは祐希子さんのおらん団体なんて誘われてもいかへんかったやろし。キクチは祐希子お姉さま一筋やからね。ああ〜ん、ゆきこお姉さま〜っ、チュッチュッ」
「もーっ、いい加減にしなさいよーっ!」
 練習では根を上げてへたりこんでいた二人だが、どこにそんな力が残っていたのかふざけて走り回っている。床に投げ出された雑誌を手に取ると、しのぶは開いていたページに目を止めた。
「あっ……この人……」
 モノクロページだが半ページを使って写真が写っており、数人の、どれも根性のありそうな新人達の横に、この間の男性が収まっていた。
「本当だったんだ。社長さんって」
 記事には6月に旗上げし関東を中心に興行を行うことと、現在も別の選手と交渉中であることなどが綴られていた。

 それから数日後の6月頭。だいぶ体もプロレスラーとしての生活に慣れ、ランニングも生活の一部としてすっかり馴染んでいたしのぶ。いつものコースを走っていると、公園の入り口にあの男性がいた。
「おはようございます、越後さん」
 男性の挨拶を一瞥すると、しのぶはスピードを落とさずランニングを続ける。すると、男性も慌てず、しのぶを追いかけてくる。数分走った後、噴水の前でスピードを緩めた。
「……何か、スポーツか格闘技でもやっているんですか」
 しのぶの問いに、息も切らせずついてきた男性が頬を掻きながら答える。
「まあ、過去に色々と。それに、ウチの団体はコーチがいないんで私がコーチ代わりですからね。それなりに動けるようにはしておかないと」
 にこやかに答える男性が名刺を差し出したので、しのぶが手で制すると男性は嬉しそうに名刺を引っ込めた。しのぶが以前の名刺を持ってくれていると判断したらしい。
「週刊リングの記事、見ましたよ。本当に社長さんだったんですね」
「うわ、まだ信じてもらえてなかったんですか。ひどいなぁ」
「口では何とでも言えますから。でも、ああいう形で見せられると、納得せざるを得ません」
「そうですか。とりあえず、信じてもらえて良かったです。で、移籍の件ですが」
「……なぜ私にこだわるんです? もう6人揃って旗上げなのでしょう」
「あれ、記事読んでませんか? 他にも交渉中だって記者さんには伝えておいたんだけど。今は宿舎が一杯なんで、来月増築予定なんですよ。まだ旗上げ前なのに資金が大変で、いやまいった、ハッハッハ」
「…………」
 しのぶには理解できなかった。なぜデビュー数ヶ月の自分に、この人がそれほどこだわるのか。いや、最初に声をかけられたときにはデビューすらしていなかったのに。
「まだ、良いお返事はもらえませんか」
「……理解できないんです。どうして私を必要としているのかが」
「う〜ん……なんというか、私の理想のプロレス団体には、どうしても貴方が必要な気がするんですよ。まあ確かに、根拠はないんですけど。よく秘書にも怒られますよ。先も分からない他所の新人の為にいくら使う気だ、ってね。でも、私はどうしても、貴方が欲しいんですよ、越後さん」
「…………」
 しのぶは答えられなかった。自分にそこまでの価値を見出してくれるこの人を無下に断って良いものだろうか。だが、これからのプロレス人生を、新女を蹴ってまで委ねられるほど、この人を信用して良いのかもまだ判断できない。
「……わかりました。本当は、越後さんには旗上げメンバーとして参加して欲しかったんですが、仕方ない。これ、ウチの旗上げ戦のチケットです。確かこの日は新女さんは興行がなかったはず。見に来ていただけませんか、ウチの試合を」
 手渡されたチケットを、じっと見つめるしのぶ。
「ウチの試合を見て、私の理想が少しでも伝われば、移籍の件、考えていただけませんか。では、これで失礼します」
「……あ……」
 しのぶが返事をするより先に、男性はしのぶに背を向けて歩き出した。初めて見る男性の後姿と手渡されたチケットを交互に見比べながら、しのぶは自分がランニング途中であった事も忘れ呆然とたたずんでいた。


 運が良いのか悪いのか、その日休日をもらってしまったしのぶは、散々悩んだ挙句、東京はタイタン有明の前にいた。新団体の旗上げに老舗団体の選手が視察、と見えなくもないが、デビュー間もないしのぶの、しかも私服姿に気づくなどよほどのプロレスマニアでも難しいだろう。
 タイタン有明はおよそ千人収容可能。東京では大会場での興行が多い新女に所属しているしのぶとしては新鮮だ。規模は地方の小会場クラスだが、プロレスに慣れたこの場の空気が心地よい。会場は半分ほど席は空いていて、いまいち成功とは言えないが、しのぶとしてはゆっくり見れるのでありがたい。用意された、リングサイドから5列目というなかなか良い席に座り、試合開始を待つ。
 やがて、リングにあの男性……社長と、所属選手6人が上がり、旗上げの挨拶があり、そして試合開始。メニューはシングル3戦。フリー選手も外国人選手もいない、試合数としては新女の半分以下の小さな興行だ。
 皆デビュー戦なのだから当たり前だが、試合運びはぎこちなく、選手たちの実力も、今年入団の自分はともかく先輩達の足元にも及ばないだろう。最初は冷めた目で見ていたしのぶだが、選手達の放つ熱気、そしてそれぞれの目の輝きに、いつしかリングの上から目が離せなくなっていく。
 メインのシングル戦の頃には、いつの間にか拳を握り締め身を乗り出しており、長身の選手のジャンピングニーが相手の顎に決まり3カウントを奪った瞬間には、思わず声を上げる所だった。

 その日寮に戻りベッドに入ってからも、しのぶはなかなか寝つけなかった。しのぶが入団した頃には、過去にはいくつかあった女子プロレス団体もほとんどは倒産、あってもごく小規模の活動しかしておらず、ほぼ新女の独壇場であった。故に、しのぶも新女への入団しか選択肢がなかったのだが、元来反骨心の塊のような彼女である。大きな団体の中で自分を磨きトップに昇りつめるのも確かに一つの、いやむしろ真っ当な道だろうが、旗上げしたばかりの小さな団体で、自分の実力だけではなく団体としての価値も磨き上げ、やがては老舗を越える実力と人気を得るまでに育てる。そうなれば、どれほどの達成感を得られるのだろうか。寝転がったまま、自分の手のひらを見つめる。ようやく寝ついたのは、外が明るくなり始めた頃であった。

 それからのしのぶの練習態度は、これまで以上の熱の入れ方で、藤島はともかく元来練習熱心な菊池さえ舌を巻くほどであった。そして、自分の練習だけでなく、先輩達の練習や試合での動きも穴が開くほど熱心に見つめていた。まるで、その全てを焼き付けておくかのように。


 7月。いつものように早朝のランニングを行っていると、公園の入り口に立っていた男性がしのぶへ向けて片手を上げた。あの男性だ。それに気づくと、しのぶはいきなり全力で公園の中へダッシュした。一瞬慌てながらも、男性もまたしのぶを追って駆けてくる。全力で駆け抜けたにもかかわらず、しのぶが噴水の前に到着したのとほぼ同時に、男性もその場に辿り着いていた。
「ハァッ、ハァッ……やっぱり……すごいですね……」
 全力ダッシュの後なので息を切らしながら話しかけるしのぶに、男性もさすがに息も切らせずとはいかなかったのか、荒い息を吐きながら答える。
「いや、選手達のランニングに、つきあってますからね……ハァッ……でも、朝からスーツでダッシュは、さすがにキツイなあっ……フゥーッ……」
 男性は一つ大きく深呼吸して息を整えると、しのぶの方にまっすぐ向き直る。
「先日は旗上げ戦を見に来ていただいてありがとうございます。本来ならすぐに挨拶に伺いたかったんですが、巡業やら何やらで忙しくてこんな時期になってしまいました」
「いえ。私も少し考える時間が欲しかったですから、ちょうど良かったです」
 しのぶも息を整えると、姿勢を正して男性に向き直る。
「いかがでした? ウチの旗上げ戦は」
「……正直に言えば、まだまだ実力不足です。試合運びも体力面でも、ウチのトップ、いや中堅の足元にも及ばないでしょう」
「ハハ、これは手厳しい」
 男性が頬を掻く。癖なのだろうか。
「ただ」
「ただ……?」
 男性が興味深そうに、しのぶの次の言葉を待つ。
「……試合を見ていて、色々と感じるものはありました。それは、私にとって好ましいものではあります」
「では」
「その前に、私からも質問させてください。私はやるからには、妥協はしたくない。どこに行こうと、頂点を目指すつもりです。貴方も、そのつもりはありますか? 新女を越える、日本一の団体にしようという意志は」
 頬を掻いていた手を下ろし、真剣な表情でしのぶを真っ直ぐ見つめる男性。
「旗上げしたばかりの弱小団体の社長が何を言うんだと笑われるかもしれませんが、私は必ず、我が団体を日本一の団体にしてみせるつもりです」
 きっぱりと言い切る男性。一見頼りなさ気だが、言うべきときは言うようだ。
「……わかりました。これから、よろしくお願いします」
 しのぶは覚悟を決め、深々と頭を下げた。その言葉に男性はパッと満面の笑顔を浮かべると、小躍りしそうな勢いでしのぶの両手をギュっと握りしめた。
「あっ、ちょ、ちょっとっ」
「ありがとうございます、越後さんっ! いや〜、これでまた我が団体も理想の団体に一歩前進しましたよ。よし、じゃあ早速新女さんに挨拶に行きましょう。キチンと筋は通さないとっ」
「な、何言ってるんですか。こんな朝っぱらじゃまだ事務所も空いてないですよ」
「あ、そうか。じゃあ先に越後さんのご両親にご挨拶を」
「私の実家は秋田ですってば」
 こうして越後しのぶは、入団数ヶ月で他団体へ移籍という、業界内でも類を見ないレスラー人生を歩む事になったのだった。

〜〜〜

「いやあ、あの時は大変だったな。越後君はなかなか首を縦に振らないし、入団を決意してくれたらくれたで、今度は新女やご実家への挨拶回り。特に越後君のお爺さんの説得が大変だった」
「剣道場の道場主なんてやっている分、祖父は礼節には特にうるさい人ですからね。せっかく入団したのに数ヶ月で他所へ、なんて事になって烈火のごとく怒ってしまって」
「説き伏せるのに三日はかかったからなあ。最初は竹刀で叩き出されそうになるし」
「こちらも大変でしたよ。旗上げ直後の忙しい時期に社長が三日も戻られなくて」
「はうっ。それは言わないでくれ、井上君。ちゃんと謝ったじゃないか」
 当時を思い出して笑いあう。室内に流れる和やかな空気。しかし。
「……結局私は、そこまでしてくれた社長に、何一つ応える事ができなかった。大一番での結果も残せず、ベルトも巻けず……結果、誰よりも早く、リングを去ることになった……情けないですよ」
 唇を噛み締め、俯くしのぶ。一転、室内に重苦しい空気が流れる。
「それは違うぞ、越後君」
 社長が腰を上げ、膝の上に置かれていたしのぶの両手をギュッと握ると、真正面から見つめて言う。
「私はプロレスラーとしての才能だけを見込んで君をスカウトしたわけじゃない。だったら当時からダイヤの原石と言われていた、マイティ祐希子君にでも接触していたはずだ。だが、私は君という人間そのものに惚れ込んだんだ。確かにベルトや形になる結果は残せなかったかもしれないが、君はウチの団体や同期の仲間達、後輩達に、色々なものを残してくれたよ」
「社長……」
 両手を握り締め、ごく近い距離で見つめ合う二人。
「コホンッ」
「おあっと。いやいや違うんだよ井上君、これはね」
「私は何も言っておりませんが」
 今し方、社長に握られていた両手を見つめるしのぶ。今の言葉で、胸の奥に引っかかっていた何かがすっと溶けていった気がした。
「じゃあ、後で道場へ挨拶に行こうか。私も一緒に行くよ。今月の巡業は、本来は関西シリーズだが、せっかくだし最終戦は越後君の地元、秋田でやろうか。セレモニーは最終日にやるとして、試合はどうする?」
「引退するまではプロですから。試合にはキチンと出ます」
「そうか。そういうと思ったよ。じゃあマッチメイクは普段通りでいいな」
「はい。……社長、一つだけ、お願いがあるのですが」
「なんだい?」
「私の、最後の試合の事なんですが……」


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