〜2〜

「という事で、越後君は今月をもってレスラーを引退する事になった」
 社長の言葉に、集まった選手達の間にどよめきが起こる。引退者が出るのは一番星プロレス始まって以来の事だ。驚きの表情を浮かべる選手達がほとんどだったが、中にはある程度予想していたのか、諦めが混じった表情の選手もいる。
「じゃあ越後君。一言頼む」
「はい。……自分の力の衰えを感じ、引退する事になりました。ただ、引退するまでは私もプロです。皆と同じように練習も試合もこなしますので、遠慮はしないで下さい」
 しのぶらしい一言だった。そして社長の解散の声の後、各々練習を再開する……はずだったのだが、しのぶは何人かの選手達に囲まれていた。
「ちょっとしのぶ、どういう事ッスか、引退って。もっと自分と熱い試合やりましょうよ」
「そうだよしのぶちゃん。私と一緒に正義の為に戦うって決めたじゃない」
「……勝手に決めるな。私はそんな事、言った覚えはないぞ」
 予想通りの反応に、しのぶは苦笑した。真田美幸と藤原和美。同期の二人だ。二人共、良くも悪くもプロレス一筋の、プロレスバカ。目の前の事に常に一生懸命な二人は、自分の体の衰えに気づいていないのか、それとも気づいていても気持ちでねじ伏せているのか。その真っ直ぐ過ぎる心根が、少し羨ましくもある。
「ちょっと二人共、しのぶだって自分で沢山悩んで決めたんだろうから、そんな事言っちゃダメだよ」
「だってぇ」
 これまた同期の、沢崎光が間に割って入る。どちらかといえば光も思い込んだらまっしぐらなタイプではあるが、少々行き過ぎな二人の為に、抑え役に回る事が多い。
「話は後にしてくれないか。言っただろ。引退するまでは私はプロのレスラーなんだ。練習の時間は無駄にしたくないんでな。走りに行ってくる」
「あ、ちょっと、しのぶっ」
 しのぶは彼女達に背を向けると、ジムの外へ出て行った。
「もう、相変わらずだなあしのぶちゃんは」
「ほら二人共、早く練習始めないと、明日は我が身だよ」
「うっ、イヤな事言うッスね、光は。よし、じゃあ練習始めますかっ」
『オー!』
 そこだけ温度の違う3人と、しのぶの出て行った扉を交互に見つめながら、伊達遥はストレッチを続ける。しかし、どうにも集中できていない。
「気になるなら話してくればいいじゃない」
 横で同じくストレッチをしていたラッキー内田(本名、内田幸)が、動きは休めずに話しかける。
「……うん……でも……」
 これから引退するという立場のしのぶに、どう接していいかわからないのだろう。遥はあいまいに答えて、身の入っていないストレッチを続ける。
「人の事を気にして気の抜けたトレーニングとは、ずいぶん余裕なんだな、チャンピオンは」
「……真琴ちゃん」
 同じく旗上げからの同期である近藤真琴が、ムスッとした顔で言う。
「そんな事で、ベルトを守れるのか? 腑抜けた練習をしていて、せいぜい北条や滝に奪われないようにするんだな。それに、私だってまだベルトは狙っているんだ」
「ちょっと真琴っ」
「フンッ」
 言いたい事だけ言うと、幸の声に振り返ることもなく、真琴は背を向けてジムを出て行ってしまった。走りに行ったのだろう。
 昨年のUVC(アルティメットヴィーナスカップ)から、遥と真琴はどうも折り合いが悪い。お互い、嫌っているわけではないのだが、前にも増して真琴の態度がつっけんどんなのだ。
「気にする事ないわ。真琴も焦ってるんでしょ。しのぶだけじゃない、真琴もかなり、自分の限界が近づいてきてる事を感じてるみたいだし。認めなくないんでしょうけど」
「……うん……ありがとう、ユキちゃん」
「礼を言われるような事じゃないわ。それに、真琴の言ってる事だって本当よ。私だってまだ、ベルトを諦めたわけじゃないんだし。ぼやぼやしてると……貰っちゃうわよ」
 口調は柔らかいが、幸の目がスッと細められる。背筋にゾクリと悪寒が走り、思わず遥は身震いする。が、次の瞬間にはいつもの表情に戻ると、遥の肩をポンと叩いて腰を上げた。イージス中森と関節のスパーリングを始めるようだ。
「ねーねー遥先輩っ。しのぶ先輩が引退するって知ってたの? じゃなかった、知ってました?」
「ううん……私も今日、初めて聞いた」
「ビックリですわよね、あのしのぶ先輩が引退だなんて」
 後輩の野村つばさと真壁那月が遥に話しかけてくる。比較的先輩後輩の垣根が薄い一番星プロレスだが、誰に対しても丁寧に接する(というより及び腰な)遥は、後輩からも話しかけやすいようで、特にこの小さな後輩二人には懐かれている。
「でもさ、しのぶ先輩が辞めちゃったら、練習も少し軽くなるかな?」
「全く。貴方はそんな事ばかり言ってるから成長しないんですわ。このままじゃ一生前座ですわよ」
「ムーッ。なっちゃんだって、この間REKIちゃんにシングルで負けたくせに」
「まっ、なんて事言うのこの口は」
「ひゃ、ひゃめへよ、このーっ」
「ふぎゅ、ひゃりまひたはねーっ」
「……あ、あの、二人共……」
 お互いの口を引っ張り合う後輩達に、オロオロする遥。いつものじゃれ合いと言えばそれまでなのだが、かといってどうして良いかもわからない。
 と、いつの間に現れたのか、音もなくつばさの背後に立っていたREKIが肩をトントンと叩く。
「ひゅあ? なに、れひひゃん」
 遥などはいつ見ても驚くのだが、つばさはとうに慣れっこのようで、REKIの突然の登場にも驚かない。REKIの指差す方向に視線を向けると。
「こらっ、野村。いつまで遊んでるんだ。さっさと練習始めんと、一ヶ月道場にカンヅメで特訓だぞっ」
「ひゃっ! トックンいーや〜んっ」
 ジタバタするつばさを、REKIが無言で北河コーチの元へ引っ張っていった。

「はっ、相変わらず賑やかな事で」
 ジムの一角で、村上千秋とアドミラル八島が体をほぐしている。ヒールという事で一応距離は置いているが、練習場を別にしたり全く話さないかというとそれほど険悪でもない、微妙な距離感を保っていた。
「さて。じゃ、外でも走ってくるかな」
 千秋が腰を上げると、八島が不思議そうな顔をする。
「珍しいね、姐さんが走りにいくなんて。アタシも付き合おうか?」
「失礼なヤツだな。それにアンタにはあのマッチョコーチがいるだろ」
「アタシ苦手なんだよアイツ。あ、姐さんも付き合ってよ、練習」
「それこそゴメンだよ。じゃあな」
 なんとか千秋を引きとめようとする八島だが、千秋が背を向けたタイミングでちょうど自分に声が掛けられ、思わずタイミングを逸してしまった。
「お、八島、こんな所にいたのか。さ、練習始めるぞ。早くしないと筋肉がなまってしまう」
「ぐあっ、見つかった」
 ヒールの、というよりすでに彼女の専属コーチである戸山コーチが八島に近づいてくる。
「さあ、早く練習だ練習。そして俺のように素晴らしい鋼の肉体を手に入れるんだ。プロレスはパワーだよパワーッ」
「あーっ、もう、わかったよ。暑苦しいから筋肉見せつけないでおくれよっ」
 八島は頭を掻き毟り、渋々戸山コーチの元へ向かう。
 しのぶの引退宣言でざわついていた道場も、いつの間にか普段どおりの光景に戻っていた。


 河川敷のいつものコースを、いつものようにランニングする。こうしていると、今月で引退するだなんて、悪い冗談ではないかとさえ思えてしまう。実際、こうしてランニングする分には、ペースが落ちたなどと感じる事はない。ただ、実際にリングに上がってどうかとなると、話は異なる。そのギャップが、決断を鈍らせるのだ。
 ふと気づけば、背後から足音と息遣いが聞こえてくる。しのぶも結構なペースで走っているはずだが、それを上回るペースで近づいてくる。そして足音の主は、しのぶにピタリと並走した。
「真琴……」
「…………」
 走ってきたのは近藤真琴だった。しのぶの呟きに視線を送ることもなく、ただ前だけを見て黙々と走っている。しのぶも、あえて話しかける事もなく、黙ってランニングを続ける。
 しばらく二人並んで黙々と走っていたが、ふと真琴がスピードを上げた。しのぶが並べば、またスピードを上げる。2・3度それを繰り返すと、真琴は全速力で走り出した。
「……ムカつくんだよな、そういう態度はっ」
 しのぶも気づけば全力で真琴を追いかけていた。のどかな河川敷を、全速力で走り抜けていく若い女性二人。すれ違う自転車やランニング中のおじさんが、目を丸くして見つめているが、それでも二人は止まらない。
 やがて、真琴は勢いそのままに河川敷を駆け下り、一本の大きな木に辿り着くと、背中を預けてへたりこんだ。わずかに遅れて、しのぶもそこに到着する。
「ははっ……あたしの、勝ちだなっ……ハァッ、ハァッ……」
「ハァッ、フゥッ……こんな勝負、無効に決まってるだろう……スタートもゴールも、勝手に決めて……」
 悪態を吐きながらも、自然と顔がほころぶ。真琴は地べたに座って、しのぶは膝に手を置きながら、息を整える。
「それにしても、まだ十分、走れるじゃないか」
「当たり前だろう。私を誰だと思ってるんだ」
「だったら……辞めるなよ」
「……それとこれとは、話が別だ」
 しのぶの差し出した手に、真琴が掴まり、立ち上がる。そして、自然に体を捻ると、いきなり裏拳を繰り出した。
「っ! ……おいおい、こんな所で殴りあったって、せいぜい明日のスポーツ新聞の三面記事に載るだけだぞ」
 間一髪、右手でブロックしたしのぶ。真琴は拳を戻し、しのぶを真っ直ぐ見つめる。
「今のだって防げたじゃないか。ならっ」
「全盛期のお前の拳のスピードなら、今ので顎を打ち抜かれていたさ」
「なんだとっ」
 カッとなって思わずしのぶのジャージの襟に掴みかかる真琴。その両手首を掴むと、しのぶは持ち上げられた襟首ごと、じりじりと元の位置に下ろしていく。
「私だって、散々考えた上での決断なんだ。今さらとやかく言われたくないんだよ」
「逃げるのか、遥に勝てないままでっ」
「なら、お前みたいにしがみついていれば、いつかは遥に勝ってベルトが巻けるっていうのかっ」
「なっ!」
 パンッ。乾いた音が辺りに響く。真琴は呆然と、熱くなった自分の手のひらを見つめる。
「……私だって、このまま終わるつもりはないさ。最終戦、社長に頼んで、遥とのシングルを組んでもらった。ノンタイトルだけどな」
 赤くなった頬を押さえもせず、しのぶは呟く。
「このまま月日を重ねたって、どうなるもんじゃない。ますます体が思い通りに動かなくなるだけだ。なら、今覚悟を決めて、その覚悟を気合に、力に変えて、全力でぶつかり遥に勝って見せるさ」
 真琴はしのぶの頬と自分の手のひらを交互に見比べると、ギュッと握りしめ拳を作り、しのぶに背を向けた。
「フンッ。好きにすればいい。そうして例え遥に勝てたって、もうウチには戻って来れないんだぞ」
「……わかってるよ」
「せいぜい田舎でテレビの前で、ミカンでも食べながら、あたしがベルトを巻く姿を眺めていろっ」
 そう言い残し、走り去っていく真琴。
「……なんだよミカンって。引退したら婆さんにでもなってしまうと思ってるのか」
 呟きながら、左頬を今頃になって押さえる。そのジンジンとした熱さが、なぜか心地よく感じられた。

 ランニングを終え道場に戻ってくると、玄関脇に千秋がもたれ、煙草をふかしていた。
「よう。さっき近藤が泣きながら走ってきたぞ。泣かすなよ、暑苦しいから」
「知らん。私のせいじゃない。それより、煙草は止めろと言っただろう」
 しのぶは千秋の煙草を取り上げると、地面に投げ捨て踏みつける。
「ちぇっ、もったいない。でも、アンタが止めるとなると、来月から煙草吸い放題だな」
 まるでそうされることがわかっていたかのように、千秋はつっかかるでもなく、ニヤニヤとしのぶを見つめている。
「私が辞めた後にお前が何をしようと、私の知った事じゃない」
「ハハッ、冷たいんだな結構。アンタのそういうとこ、アタシ好きだぜ」
 千秋はしのぶの肩に腕を回ししなだれかかる。
「……私にそういう趣味はないぞ」
「ハッ、そりゃアタシだってそうさ。……なあ。最後の試合、アタシと組んでデカい事やらないか? 自慢の木刀振り回してさ」
「何を言うかと思えば」
「いいじゃねーか。最後にパーッと。元タッグパートナーのよしみでさ」
「悪いが、お断りだ。武器なんかなくても、この体一つで十分だ。それがプロレスラーってものだろう」
「おーお、マジメな事で」
 千秋はしのぶから体を離すと、しのぶに踏みつけられてすっかり火の消えた煙草を拾い、手の中で弄びながら呟く。
「あーあ、アンタがもうちょっとコッチ寄りなら、この団体ももうちょっと面白くなったのにな」
「八島がいるだろう。あいつと一緒に動けばいい」
「アイツはアタシなんかとは器が違うよ。その内ベルトだって獲れちまうタマさ」
 千秋は煙草をポケットに押し込めると、しのぶに背を向ける。
「ま、せいぜいあと一ヶ月、頑張りなよ。最後、伊達とやるんだろ? なんならチェーンでも持って助けに行ってやるよ。アタシがふん縛ってやるから、後は好きにしたらいい。ベルトを奪うなり、抱くなりさ」
「余計な事はしなくていいから、黙って私の試合を見ていろ」
「へいへい」
 ヒラヒラと手を振りながら去っていく千秋。
「あいつ、気づいてたのか。……って、まだ練習時間内じゃないか。まったく、仕方ないヤツだな」
 首根っこを捕まえて道場まで連れ戻そうかと思ったが、さっきの今でそれではお互いに格好がつかない。今日だけは、見逃してやる事にした。


 その日の食事は、てんやわんやだった。練習中に話を避けた為、終わった途端に美幸と和美が集まってきた。シャワーを浴びるから、着替えるから、とその都度後回しにしていたが、さすがに食事の時間は逃げようもない。
「しのぶーっ、考え直してくれよ。まだ引退なんて早すぎるッスよ」
「そうだよしのぶちゃん、正義の味方は簡単に諦めちゃダメなんだよ」
「しつこいな。私は自分で散々考えて決めたんだ。今さらとやかく言われたくない」
「だってぇ〜」
 左右を暑苦しい二人に挟まれ、しのぶは閉口していた。この二人には遠慮という文字はないのだろうか。自分を思ってくれているのは分かるが、その気持ちを押し付けすぎだ。
「アハハ、モテモテだねしのぶ」
 食事を乗せたお盆を持った光が、しのぶの前の席に座る。
「光、このバカ二人をなんとかしてくれ。こううるさくちゃ御飯の味も分からない」
「なんスかその言い方はっ。遥もなんとか言ってやってよ」
「え……うん……」
 少し離れて、しかし気になるのかチラチラとこちらの様子を窺っていた遥に、美幸が無遠慮に話題を振る。この無神経な所が、美幸の悪い所であり、良い所である。ようやく話すきっかけを得た遥が、おずおずとしのぶに声をかける。
「えっと……本当、なんだよね……引退って……」
「ああ。さっきからそう言ってる」
「そっか……うん……あの……お疲れ様」
「……ああ」
「って、お疲れ様じゃないッスよ! 引き止めなくてどうすんのっ」
「でも……しのぶが決めた事だから……」
「もーっ、遥ちゃんは押しが弱すぎっ」
「お前らは強すぎだ」
「アハハッ、そうかも」
 そんな感じで(しのぶは御免なのだが)同期でガヤガヤやっていると、突然しのぶの背中に何か大きく丸いものが押し付けられた。
「涼美か?」
「はうう……しのぶ先輩ぃ」
 後輩のミネルヴァ石川が、大きな瞳一杯に涙を溜めながら、しのぶの背中に抱きついてくる。
「しのぶ先輩が辞めちゃうなんてぇ……グスッ……お肉あげますぅ」
「変な気は使わなくていいから自分の分はちゃんと食べろ。お前はまだ成長期なんだから」
「あーっ、じゃあ私も、しのぶ先輩の為にピーマンあげちゃうっ、じゃなくて、あげちゃいますっ」
 つばさが立ち上がり手を挙げて言う。
「それはお前が嫌いなだけだろ。何でも食べろっていつも言ってるだろう」
「ぶーっ」
「まったく、みっともないわねつばさは」
「那月もだ。その皿の端に寄せたニンジン、残すなよ。エレガントじゃないぞ」
「うぐっ」
 ドッと笑いがおき、和やかな空気が満たされる食堂。ガラじゃないとは思いつつも、周りがこうクセの強い子達ばかりでは、どうしてもしのぶが手綱を締める役になってしまう。 やれやれと肩をすくめつつも、いつの間にか体に馴染んでいたこの空気に触れていられるのも後わずかだと思うと、一抹の寂しさを感じるしのぶだった。


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