〜13〜

「…………」
「…………」
 室内を沈黙が支配している。遥は何か話しかけようとチラチラとしのぶの横顔を盗み見ていたが、しのぶはただぼーっと天井を見つめている。時折手に持ったドリンクボトルから、ストローで液体を吸い上げ喉を潤す。いざとなると何から口にして良いかわからず、遥は床としのぶの顔を交互に見ている。その視線に気づいたのかしのぶが急に遥に向き直った。
「……あ」
「飲むか」
 そう言って、ドリンクボトルを遥の膝の上に置く。
「……あ……うん……ありがと」
 遥は手渡されたそれを両手で握ると、ストローを口に咥えた。一口飲み込む間にまとまったのか、ストローから口を離して言葉を紡ぐ。
「……さっきね……ここに来る前に、あずみちゃんとすれ違った」
「そうか」
「……しのぶの所に行くっていったら……お疲れ様でしたって言っておいてほしいって。……試合前は集中したいから今は行けない、って」
「あいつらしいな。今日の結果如何でUVCの決勝がかかってるからな」
「……うん」
「誰が来ると思う、決勝」
「……わかんない。……みんな、強くなったから」
「そうだな」
「……うん」
 そしてまた、遥はストローを咥えた。もっと違うことを話したかったはずなのに、でもこんな話をしているのもそれはそれで貴重な気がして。
「なあ、遥」
「……なあに」
「ありがとな」
「っ、ゴホッ」
「おいおい、大丈夫か」
 自分がずっと言いたかった言葉を、もたもたしている内に先に言われてしまい、遥は思わず咽てしまった。そんな遥の背中をしのぶが優しく撫でる。
「今日は、気持ちいいくらいにやられたよ。本当に、何も出来なかった」
「……ごめんなさい」
「バカ、謝って欲しいわけじゃないことくらいわかるだろ。気持ちいいくらい、って言ってるんだから」
「……うん」
「おかげで今は、すっきりしてる。これで心置きなく辞められるよ」
 しのぶの横顔は、本当に思い残す事がないような、すっきりとした表情をしていて。それが悔しいやら悲しいやらで、答えはわかっているのに、遥は尋ねずにはいられなかった。
「……しのぶは……もう、プロレス、やりたくないの」
「…………」
 遥の一言に、黙り込むしのぶ。言ってはいけない一言を言ってしまったような気がして、遥は慌てて次の言葉を探す。だが、それを見つける前に、先にしのぶが口を開いた。
「お前には、まだわからないか。自分の思い通りに体が動かなくなる感覚」
「……うん……」
 写真集や映画の撮影などで練習時間が少なかった月の翌月に、一時的に体のキレが鈍る感覚はあっても、それは練習時間さえ取れれば解消された。だから、しのぶの言う感覚はきちんとは理解できない。
「一昨年にさ。タッグのベストバウトに、選ばれかかった事があったろ。私達のタッグで」
「……うん。覚えてる」
 2年前。一番星プロレスはGWAとの抗争を興行の柱に打ち出していた。その中で、伊達遥、越後しのぶ組 vs ローズ・ヒューイット、ワイルドローズ2号組のタッグマッチが、年間ベストバウトの候補にノミネートされたのだ。結局は年末に、新女のExタッグリーグでの外国人同士のカードに攫われてしまったのだが。
「あの時は、嬉しかったな……。私はタイトルやイベントに縁がないだろ。いつも、最後の最後で取り逃がす。若手の頃からそうだった。詰めが甘いって、よく言われたよ」
「…………」
「まあ、結局それも取り逃がしちゃったんだけどな。でも、あの時は楽しかった。頭で考えるプロレスと、自分の体の動きがぴったり合ってきて。光や幸を抑えて、ナンバー2って呼ばれたりもしてさ。このまま行けば、お前の背中にも手が届くって、そう思ってた」
「……うん……あの頃、しのぶ、すごく充実してた……」
「でも、去年あたりからか。急に、頭と体にズレを感じるようになった。ようやく掴みかけてきたプロレスなのに、体がそれを表現できないんだ。はっきり見えていたお前の背中も、また霞んでいく気がしてな……」
 いつの間にか、しのぶは膝の上で拳を握り締めている。思わず遥は、その拳に手を重ねていた。
「日に日にその感覚は強くなっていく。お前の背中はもう、ほとんど見えない。このまま続けていれば、お前の背中もまた見えるかもしれない。でもそれは、私が前に進んだわけじゃなく、お前が後ろに下がった時だろう。それじゃ意味がないんだ。私が勝ちたかったのは、強い伊達遥なんだから」
「……しのぶ……」
「プロレスは好きだよ。大好きだ。一生続けていたいくらいさ。でも、ずっと続けてきて、プロレスの楽しさ、奥深さがわかってきたからこそ……もう、これ以上は続けられないんだよ。試合のたびに感じるのが、楽しさじゃなく、もどかしさばかり。このままじゃ、嫌いになってしまいそうだからな。プロレスも、自分も」
「…………」
「そうは言っても、やっぱり続けていたい気持ちはある。だから、今日の相手は遥にしてもらいたかったんだ。他の奴らなら、それなりの試合にはなったかもしれない。でもそうしたら、わかってはいても、思い込みたくなってしまう。あそこでああすれば勝てた、もう少しこうすれば流れは変わっていた、次はこうすればよくなる、だからまだ辞められない……てな」
 いつの間にか遥は、しのぶの手をきつく握っていた。そのプロレスへの熱い想いが痛いほど伝わってくる。
「だから、今日は嬉しかったんだよ。試合前の、私の張り手の意味をお前がきちんとわかってくれていてさ。本当に何も出来なかった。痛感したよ。私はやっぱり、もうプロレスを続けるべきじゃない。私が目指したお前の背中には、もう絶対に手が届かないんだから、って」
「……うくっ……」
 いつの間にか、遥の瞳から、また涙が零れていた。ぽろぽろ、ぽろぽろ。
「泣くなよ。私まで、泣きたくなってくる」
「……いいの……もう、リングの上じゃないから……誰も見てない、私達だけしかいないから……」
「……そうだな。お客さんも見てないもんな。泣いたって、いいのかもな」
 しのぶは涙を零し続ける遥の肩を抱き寄せた。遥は素直にもたれかかり、頭をしのぶの肩に預ける。
「……しのぶ、ごめんなさい……あんな事聞かなくても、しのぶの気持ち、知ってた……プロレス、大好きだって、ずっと続けていたいって……でも……もしかしたら、やっぱりまだやりたいって……まだまだずっと、続けたいって、引退なんて止めにしようって……言ってくれるかな、って……」
「ありがとう。……ごめんな」
 指で、遥の涙をすくってやる。でもすぐにまた、溢れてくる。だから、止めるのは諦めて。ただ、頭を撫でてやる事にした。
 遥の涙は止まらない。ぽろぽろ、ぽろぽろ零れ続ける。でも今はもう、咎める必要なないのかもしれない。今の遥は無敵のチャンピオンではなく、昔と同じ、ただの内気な少女のままで。もう戦う事のない、ライバルではなくなったしのぶは……只の親友、なのだから。

「……社長にね」
「うん」
 このまま止まる事はないのではと思えた遥の涙だったが、それでもいつの間にか乾いていて。けれど頭はしのぶにもたれたまま。しのぶもその重さを心地よく感じていたから、そのまま受け止めていた。
「……試合の後、謝りに行ったの……お客さん無視の、あんな試合をしてしまって、ごめんなさいって」
「悪かったな。本当は私が自分で行くべきだったんだが、何やら客が多くてな。タイミングがなかった」
「……ううん……そしたらね、ありがとうって言われた」
「ありがとう? なんで社長が礼を言うんだ」
 会社としては、とても褒められた試合内容ではなかっただろう。それに、下手をすれば看板選手の遥にマイナスイメージがついてしまった可能性もある。なのに、何故ありがとうなのか。
「……しのぶは、いつも回りの世話ばかり焼いていて、苦労ばっかりかけたから……最後くらい、好きなようにやらせてあげたかったんだ、って……だから、しのぶが最後に私とやりたいって、我が侭を言ってくれて、嬉しかったって……それで、しのぶの望んだままを受け止めてくれて、ありがとうって」
「社長がそんな事を……」
 今日の展開も、最初からお見通しだったのかもしれない。
「……しのぶも……明日は一緒に、寮に戻るん……だよね?」
「ん、ああ、もちろん。試合に集中したかったからな。荷造りもまだ手をつけていないし」
「……いつまで、寮にいられるの」
「一応、今月いっぱいかな。あと一週間くらいか。来月には新人テストもしたいだろうし、部屋を開けないとな」
「……一週間……」
 遥が寂しげな表情を見せる。
「……あのね……寮に戻ったら、しのぶのお別れパーティーやるって、社長が……それと、光ちゃんが、同期のみんなで飲みに行こうって……あと、和美ちゃんが、みんなで遊園地に行きたいって……それから、ええと……」
「わかったよ。ありがとな、色々」
「……ううん……みんな、しのぶと色んな思い出、ほしいから……」
 しのぶがぽんぽんと頭を優しく撫でてやると、遥は安らいだ表情を見せた。
「……道場、継ぐんだって言ってたよね」
「ああ、そのつもりだ。もっとも、一人で素振りはしていたとは言え、お爺様は厳しい人だからな。練習生の面倒を見るまでには、半年はみっちりしごかれそうだ」
「……大丈夫だよ……しのぶ、教えるの上手いから……でも……そのうち……お見合い、とかするのかな……」
「見合い? なんで」
「……だって……後継ぎ、必要でしょ……それとももう、許婚がいる、とか……」
「……プッ」
 遥の言葉に、しのぶは肩を震わせて笑い始めた。
「……ど、どうして笑うの……?」
「だって、お前……アハハッ、何を言い出すかと思えば。いるわけないだろ、そんなの」
「……で、でも……」
「許婚なんかがいたら、プロレスやるなんて許すはずないだろう。いないよ、そんなの。見合いはまあ、話は来た事はあったけど、全部断ってたよ。プロレスに忙しくてそれどころじゃなかったからな。男と遊んでる暇なんかないって」
「……そっか……良かった」
 遥はホッとした表情を浮かべた。
「良かったってなんだ。そういう言い方されるのもなんかムカつくな」
「……そ、そういう意味じゃないよ……」
「じゃあお前はどうなんだ。昔から人気あったからな。彼氏の一人や二人くらい」
「わ、私は……その…………まともに話せる男の人……お父さんと、社長くらいだから……」
「……そういやそうだった。お互い、そういう意味ではまだ先は長そうだな」
 しのぶは思わず肩を竦める。
「……うん……変な事聞いて、ごめんね……」
「いや、別に変じゃないだろ。ただ私らには縁がないだけで。まあこんな仕事してたら、男に頼る理由なんて別にないからな。いいんじゃないか、当分は一人で」
「……そうだね……私も男の人は、いい……」
「まあ、上がそんなだから、『一番星プロレスは百合の園』なんて噂が立つのかもな」
「……あ……それって……」
 以前、週刊レッスルのアンケートコーナーで性別ごとの人気度を調べた際、新女は男性ファンが、星プロは女性ファンが多い、というような統計が出ていた。その時のライターのコメントに『男との噂話がほとんどなく、北条や滝といった女性が憧れるタイプのレスラーが多いため、その清廉な空気が女性ファンにとっては百合の園のように美しく映るのだろう』という一文があった。それを聞いた時、皆一様に微妙な表情を浮かべていたのだが、翔子だけが満足気に頷いていたのだった。
 その時の事を思い出すと、二人は顔を見合わせ、肩を震わせて笑い合った。

「……なあ」
「……うん」
 お互いに笑い合ってすっきりしたのか、寄り添いあいながらぼーっとしたり、何か思いつけば口にしたり。この一ヶ月は特にお互いに避けざるをえなかっただけに、こうして二人並んでいるだけで、幸せに感じられた。それは、お互いが戦う宿命から解放されたことも大きかったのかもしれない。
 そして、全てを終えた今だからこそ聞ける疑問を、しのぶは遥に投げ掛けた。
「重くないか、ベルト」
「……え……」
 唐突なしのぶの問いに、意図がわからず遥は聞き返す。
「ウチの団体のベルトができて、丸5年。20回だったか、防衛」
「……うん」
「まさか、そんなに続くとはな。最初は、悔しいだけだった。いつかは私も、と思っていたよ。でも、お前が防衛し続けるにつれて、一人で遠い所へ行ってしまう気がしてな」
「…………」
「置いていかれるのが悔しい反面、お前一人で先に行かせてしまうのが、申し訳なくてな。正直、お前のガラじゃないだろ、チャンピオンで居続けるなんて。だから、早く楽にしてやりたかったんだが……いかんせん、私じゃ力が足りなかった」
「……しのぶ……」
「もう何年も、お前にはチャンピオンという肩書きがついて回っている。それがある限り、お前はいつでも団体の象徴で、下手な試合はできない。その責任に、純粋に試合が楽しめていないんじゃないか。そう思えてな。少しでも肩の荷を軽くしてやりたい、そう思っていたんだが、結局、間に合わなかった。自分の方が先にガタが来てしまうなんてな」
 そう言って、しのぶは遠くを見つめた。その横顔を見て、遥もまた、前を見つめて語り始めた。
「……重いよ……すごく、重い」
「遥……」
「……一つ勝つたびに、みんなの汗と涙の分だけ、重くなっていく……本当は、投げ出してしまいたいと思うこともあった……でも……」
 遥の表情が、いつの間にか王者のそれになっていく。
「……社長が私達の為に作ってくれて、みんなが目指したベルトだから……守るにしろ、失うにしろ……ベルトの価値を下げるような事は、できないから……それが……ベルトを持っている私の、義務なんだと思うし……みんなの夢を奪ってきた私の、背負わなくちゃいけない、責任なんだと思う」
 遥はしのぶの方へ向き直り、正面から見つめる。しのぶも、遥をまっすぐ見つめ返した。
「……だから、私……これからもこのベルトを、守り続けるよ……沙希ちゃんも、あずみちゃんも、強くなったけど……簡単には渡せない……しのぶの想い、みんなの想いが詰まったベルト……誰にも、渡したくない……この体が動かなくなるまで、持ち続けていたいの……私の、宝物だから……」
「遥……」
 しのぶは思わず、遥を抱きしめていた。遥もそのまま身を預け、しのぶの胸の中で、目を閉じる。
「ガラじゃないなんて言って、悪かったな。お前は立派なチャンピオンだよ、遥」
「……ううん……しのぶがいて、みんながいて……だから、私も、守ってこれたの……ベルトは、一人しか持てないけど……でも、今のベルトを作り上げたのは、私達みんなの力だから……」
 遥の柔らかな頬に触れる。先ほどの試合で張ったからか、少しだけ腫れている。ひんやりしたしのぶの手のひらが心地良いのか、遥は目を閉じたまま、うっとりとその感触に身を委ねている。
(……強いな、遥……こんなに優しい顔、してるのに……)
 こうして間近で顔を見つめたのは初めてで、なぜだか胸がドキドキと高鳴り始める。
(私にもう少し、素質があれば……いや、私がもっと、努力していれば…………お前と同じ景色が、見られたのかな……)
 ふと。遥の唇が、ほんのわずかだが、ついと突き出されたような気がした。
「……遥……」
 無意識に、しのぶの顔が、遥に吸い寄せられていき……遥もまた、じっとその時を待つように、目を閉じたまま……。
 バタンッ。
「しのぶ先輩、そろそろ時間……あ」
 突然の物音に驚いて視線を巡らすと、大きくドアを開け放ったつばさが、口をあんぐりと開けて呆然と立っていた。
「あ、あたしっ、何も見てませんからっ」
 つばさは両手でそれぞれ両目を隠すと、慌ててそう口にした。
「お、おい。お前、何か勘違いしてないか」
「し、してないですっ。しのぶ先輩と遥先輩の仲が良くても、全然変じゃないっていうか、むしろ自然っていうか」
 つばさは両目を隠したまま、回れ右をした。
「何言ってるんだお前。そうじゃなくてだな」
「あ、あのっ。もうメイン終わったから、もうすぐセレモニー始めるって社長が。……だから、その……終わったら来て下さいーっ」
「あ、ちょっと待て、おい、つばさっ」
 しのぶの静止も聞かず、つばさは両目を押さえたまま部屋を飛び出して行ってしまった。
「……あのバカ。何を勘違いしてるんだ」
「……これじゃ本当に、百合の園だね……ふふっ」
 頭を掻いているしのぶを、遥は楽しそうにクスクス笑いながら見つめていた。


 引退式は、ごくごく簡素に行われた。入場テーマもなく、テンカウントゴングもない。それは、しのぶ自身の要望によるものだった。プロレスラー越後しのぶの人生は、試合中千秋が言っていたように、今日、伊達遥に敗れたことによって、終わりを告げたのだ。
 覚悟を決めたとはいえ、入場テーマはしのぶの中の眠らせたレスラーの血を滾らせてしまうだろう。体は動くのに、黙ってテンカウントを受け入れるなど耐えられるはずがない。下手をすればエイトカウント、ナインカウントで、引退を撤回してしまうかもしれない。だからしのぶは、通常のプロレスラーの引退式の慣例を敢えて排除したのだった。
 観客の中には、あまりにも簡素な引退式に、拍子抜けしてしまった者もいた。だが、長年のしのぶのファンなら、こう思ったはずだ。決して派手な演出を好まない、『彼女らしい最後だ』と。
 リングの中央で、社長から労いの言葉を掛けられ、社長秘書の井上女史から花束を渡される。そして、若手から一人ずつリングに上がり、しのぶと握手を交わす。残された者へ、しのぶは一つずつ言葉を残していく。ある者は涙し、ある者は感情を押し殺して、しのぶの言葉を受け止めた。
 全員と握手を交わすと、皆はリングから下り、しのぶはリング中央へ一人残される。手に持った花束を置いて、代わりにマイクを拾い上げた。
「プロレスを始めて8年。ここまで走り続けてきました。悔いがない、とは言いません。ベルトを獲れなかった事も、トーナメントやリーグ戦で星を落としたことも、今考えれば悔やまれる事ばかりです」
 静まりかえる会場に、しのぶの声のみが響く。
「でも、私は私なりに、いつでも全力で取り組んで来ました。そして今日、燃え尽きました。だから、今日でリングを去ります」
 感極まった一部のファンから、「やめるなーっ」と声が飛ぶ。
「出来る事なら、一生プロレスを続けていたい。でも……プロレスラーは、常にリングの上で輝き続ける存在でなければならない。私はそう思います。だから今日、去らなければいけない。大好きなプロレスを、穢さない為に」
 天井を見上げる。照明の眩さに、目を細める。そしてもう一度、力強く前を見た。
「私に目をかけ、この団体に招き入れてくれた社長。仲間でありライバルでもあった、旗上げから一緒にやってきた同期の皆。立派なプロレスラーに育った後輩達。支えてくれた、スタッフの皆さん。そして、これまで応援してくれた、ファンの皆さん。
……本当に、ありがとうございましたっ!」
 万感の思いを込めて。しのぶは大きく頭を下げる。一つ、二つ、ポツポツと沸きあがった拍手は、あっという間に会場中に伝播し。越後コールと拍手の大喝采が、ホールの中を埋め尽くす。しのぶは頭を上げると、残り三方にも深々と礼をし。拍手と歓声を耳に焼き付けるように、リング中央で目を閉じた。
「じゃ、そろそろやるとしようか」
「よ〜し。みんな、準備はいい?」
「よっしゃあっ!」
 ふと、リング下の仲間達が何事か言葉をかわしているのに気付き、しのぶが目を開けると。その瞬間、皆が一斉にリングに雪崩れ込んできた。
「お、おい。な、なんだ?」
「さあっ、いくよっ」
 八島に背後から抱え上げられると、一斉に皆の手が伸びてきて、しのぶは宙に放り投げられた。
「ちょ、ちょっと待てっ。なんで胴上げなんだっ」
「いいからいいからっ」
 訳も分からず、何度も宙に放り投げられる。宙を舞いながら、皆の顔を見る。皆、気持ちの良い笑顔を浮かべている。手の届かないつばさや那月も、輪の回りで飛び跳ねている。
「まったく……お前らと来たらっ」
 しのぶは宙を舞いながら、両手足を一杯に伸ばし、心の中で叫んだ。

『ありがとう、一番星プロレス!』


"鋼のディフェンス" 越後しのぶ  9年目5月、引退


(終)


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