〜12〜
鉄製の重い扉がゆっくりと音を立てて閉まる。背後から聞こえていた大歓声のボリュームが途端に小さくなる。と、しのぶの膝が急にカクンと落ちた。
「お、おいしのぶっ。大丈夫か」
扉にもたれてへたりこむしのぶに、真琴が慌てて声を掛ける。
「ああ、ちょっと疲れただけだ」
そう言って笑ってみせるしのぶに安堵したのか、幸が憎まれ口を叩く。
「あんな試合しておいて、一人で歩いて退場なんてカッコつけるから」
「だからだよ。最後くらいカッコつけさせろ」
しのぶは扉に背を預けたまま、大きく息を吐いた。
「少し休んだら一人で控え室に戻る。お前達は先に戻っててくれ」
「でも」
「八島と中森はこれから大事な試合が控えてるんだ。行ってやれよ」
「んじゃ、そうさせてもらうぜ」
千秋が背中を向けて、さっさと歩き出す。アドミラル八島の試合はこの次のセミファイナルだ。それを見て、チラリと振り返るも、幸も歩き出した。
「……お前は行かないのか、真琴」
「あたしは別に、ついてやる相手もいないからな。それに、そんな状態のお前を一人残していくわけにも行かないだろ。控え室に戻るまではちゃんと見届ける」
顔を背けてぶっきらぼうに言う真琴。しのぶは微笑むと、目を閉じる。まだ会場の熱気は冷めていないようで、扉越しにビリビリと伝わってくる。
「あ、いたぁっ。じのぶぜんぱいぃ〜っ」
「ん?」
突然名前を呼ばれて目を開けると、そこにはミネルヴァ石川が大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて立っていた。その後ろにはREKIの姿も見える。
「どうした、何かあったのか」
「わあ〜ん、じのぶぜんぱあ〜いっ」
何事かと尋ねるも、それには答えず石川はしのぶに駆け寄ってくると、しのぶの頭をギュッと胸に抱きしめた。
「お、おい。なんだいったい」
「しのぶ先輩、試合見ましたぁ〜。すごかったですぅ〜。うえぇ〜ん」
溜まっていた滴が一気に溢れ出し、石川はしのぶを抱きながらボロボロと涙を流している。困り果てて目線を移すと、真琴がREKIに何かあったのか尋ねていたが、REKIは黙ってただ首を振る。
「お前……それだけ言う為に、わざわざ私の所に来たのか」
「はいぃ〜。グスン」
「お前、次の試合だろう。第一お前の入場は青コーナーだろう。こんな所にいる場合じゃないだろうが」
「そ、そうなんですけどぉ〜。うっく。でもぉ〜」
まだ泣き止まず、石川はボロボロ泣きながらしのぶをよりきつく抱きしめた。しのぶは溜息を吐くと、ポンポンと石川の頭を優しく撫でてやった。
「お前の気持ちは嬉しいよ。ありがとうな。ほら、立て。私も立つから」
「はいぃ〜。グスッ」
しのぶは石川を立たせると、自らも扉に背を預けながらも立ち上がった。
「ほら、もう行け。時間がなくなるぞ。こんなに顔をグチャグチャにして」
「ふ、ふぁあい」
目尻に溜まっている涙を拭ってやると、石川は泣きながら微笑んだ。
「涼美、お前も今日のメイン次第では決勝トーナメントに残れる可能性があるんだ。しっかり戦ってこい」
「ふあい、がんばりますう〜」
「よし」
大きな体をしていても子供のような石川の頭を、しのぶは撫でてやった。そしてREKIに手招きすると、近寄ってきた彼女も一緒に肩を抱いてやる。
「涼美。REKIも。お前達はゆっくりだが確実に成長してる。この一年しっかりやれば、必ずベルトに手が届く所までいくはずだ。私がいなくなってもしっかりやれよ」
コクンと頷く石川。REKIは口は開かないが、ペコリと頭を下げる。と、背後から石川の入場曲が流れ始めた。
「お、もう時間だ。早く行かないとお客さんを待たせてしまうぞ。ほら、急げ」
そう言って、しのぶは石川の尻をぺちんと叩いた。
「は、はぁい。私、頑張って来ますからぁ。行こう、REKIちゃん」
「…………うむ」
走り出した石川にREKIはコクンと頷くと、一瞬にしてその場から消えた。
「あわわわ、待ってえ、REKIちゃぁ〜んっ」
慌てて石川も走っていった。
「……本当に大丈夫なのか、あいつらは」
「アハハ、母親みたいだな。しのぶ」
「笑い事じゃない。私が寮を出たら、面倒みてやってくれよ」
「あ、あたしに言うなよ」
慌てて両手を振る真琴に、しのぶは思わず吹き出した。
「アンタら、まだこんなとこにいたのかよ」
そこに、八島を連れだって千秋が現れた。
「ああ、ちょっと捕まってな。これから戻る所だ」
「しのぶさん、お疲れさまでしたっ。やっぱケンカはココだねえ。あの遥さんが怯んでたじゃないか」
そう言って、八島が自分の大きな胸を叩く。
「ケンカじゃないぞ。それに、結局負けてたら仕方がない」
「んな事ないさ。勝ち負けじゃない、下のモンは上の背中を見てるものさ。おかげでアタシも気合が入ったよ。そろそろアタシも天下を獲りにいこうかね。手始めに、今日は涼美を叩き潰してくるか」
「あいつもあいつなりに気合入ってる。そう楽な相手じゃないぞ。気を抜くなよ」
「そりゃあわかってるよ。でもま、せっかくあずみに勝って掴んだチャンスだ。逃す手はないさ」
八島はグルグルと腕を回す。その時、石川の入場曲が鳴り止み、八島の入場曲が流れ始めた。
「さて、それじゃ行ってくるとするか。見てなよしのぶさん。近い内に遥さんの腰からベルト引っ剥がしてやるからさ」
「ああ。楽しみにしてるよ」
千秋が扉を開けると、八島はしのぶに背を向け意気揚々と入場して行った。
「……頼もしくなったな、あいつ」
「気楽だなお前は。あたしはこれからもあいつらと戦わなきゃいけないんだぞ」
「ハハ。頑張ってくれ」
真琴の背中をポンと叩くと、しのぶはようやくその場から歩き出した。
「しのぶせんぱあーいっ!」
控え室の扉を開けると、いきなり何かが飛びついてきた。
「うわっ。つ、つばさか」
こうしてしがみつかれるのは二人目だ。真琴がしのぶの肩を叩くと、目配せしてその場を離れる。しのぶは頷いて見せると、抱きついたつばさをそのままに控え室の扉を閉めた。
「ちょっとつばさ、何やってるのよ。ちゃんと出迎えようって言ったじゃない」
「だ、だってぇ〜っ、うくっ」
室内には那月が立っていた。振り返ったつばさの涙でぐちゃぐちゃの顔を見て、那月が思わず顔を背ける。
「こういう時は、私達がしっかりしないといけないのよ。そうじゃないと、しのぶ先輩が安心できないでしょう。だから……クールに見送って……ヒクッ」
那月は顔を背けたまま、肩を震わせている。しのぶは手を伸ばすと、那月も一緒に抱きしめてやった。
「ありがとうな。那月。つばさも」
「いえ、私は……わた……し……ヒ〜ンッ……」
しのぶの言葉に堪えきれなくなったのか、那月もぽろぽろと涙を零し始めた。しのぶは黙って、二人の頭を抱きしめ、落ち着くまで髪を撫でてやっていた。
「駄目だ」
そう言って首を振るしのぶに、つばさはキョトンとした顔をした。落ち着きを取り戻した二人は、しのぶを挟んで両脇に座り、先ほどの試合を振り返っている所であった。そこで「あたしもしのぶ先輩を見習って」と口にした途端に当のしのぶから否定の言葉が飛んできて、驚きに目を丸くしている。
「いいか。ああやって全てを自分の体で受け止めていては、近い内にすぐガタがくる。体が小さいお前達は尚更だ」
小さいと言われるといつもは反発する二人だが、しのぶの真剣な口調に口を挟めない。
「私はああいう戦い方しか出来ないし、今日で最後だから尚更ああいう試合になった。でもな。いつも言っているように、私達はアマチュアじゃない、プロレスラーなんだ。年間80試合もこなすんだ。負ける時は負けたっていい。体を壊して何十試合も棒に振るくらいならな」
「でも……」
「もちろん、だからと言って手を抜いていいってわけじゃない。むしろ、気を抜くとかえってケガをしてしまう。だが、今日の私のような戦い方は褒められたものじゃない。あれは私の最後の我が侭だ。お前達にはお前達の戦い方がある。それを伸ばしていけばいい」
「しのぶ先輩……はい」
しのぶの言葉に、つばさは頷いた。那月もまた同様に頷く。
「難しいですね。プロレスって」
那月がポツリと呟く。
「ああ。難しいよ。明確な答えなんてない。私だって、まだわからないくらいだ。10年近くもやってきたのにな」
「しのぶ先輩も?」
つばさが不思議そうに尋ねる。
「ああ。例えば今日の試合は、はっきり言って私の自己満足の為に社長に組んでもらったカードだ。お客さんに見せられる価値のあるものじゃなかったかもしれない。私を応援してくれる人達には、あんな何も出来ない姿は見たくなかったと思ってる人もいるだろうしな。でも、最後にはお客さんは拍手をくれたし、お前達も何かを感じてくれた。だから、自分で思うほどダメな試合じゃなかったのかもしれないな」
「そ、そうですっ。ダメなんかじゃなかったですよ。しのぶ先輩、凄かったもん。遥先輩に、あんなに……」
そこで、つばさが俯いて口ごもる。
「つばさ。お前まさか、あれで遥の事を嫌いになった、とか言わないよな」
「そ、そんな事……ないです……多分」
ぼそぼそと呟くつばさの頭をしのぶはクシャッと撫でてやる。
「遥には悪い事をしたよ。私の我が侭を汲んでくれて、あんな試合に付き合ってもらった。お陰で私は未練を残さないで済んだんだ。あいつには感謝こそしても、恨む事なんか一つもない。むしろ、あいつの方が辛い思いをしただろう。だから、お前達は今まで通り遥に接してやってくれ。遥の事、好きだろう?」
つばさの顔を覗き込む。つばさはしのぶを見つめると、にっこり微笑んだ。
「はいっ」
「よし」
もう一度頭を撫でてやると、つばさはくすぐったそうに首をすくめた。
「それじゃあたし達、今から遥先輩の所に行ってきます。行こう、なっちゃん」
「あ、ちょっと待ちなさいったら。もう。それじゃ、しのぶ先輩」
元気に飛び出していったつばさに続いて、那月も頭を下げて出て行った。しのぶは一息吐くと、天井を見上げる。と、扉がノックされた。
「落ち着く暇もないな。……開いてるぞ」
しのぶは苦笑すると、扉に向かって声を掛ける。扉が開くとそこには、長身の華やかな二人の女性が立っていた。
「お前達……メインの方はいいのか」
「ええ。これから向かう所です。その前に、少しご挨拶に」
北条沙希が、そう言って頭を下げる。
「しのぶ先輩。素晴らしき戦いでした。その魂の気高さに、すっかり魅せられてしまいましたよ」
滝翔子がしのぶの前まで歩いてくると、跪いてしのぶの手を取り、一輪のバラを乗せる。
「あ、ああ。ありがとう。でも今日は、お前のスタイルとはかけ離れた試合だっただろう」
「いえ、あの何度でも立ち上がる、決して屈しない姿。それは魂の穢れなき美しさ。不死鳥、バンビーノ達が遥先輩への羨望を込めてそう呼びますが、今日ばかりはしのぶ先輩にこそ相応しい名前です」
「そ、そうか。……お前に褒められると、背中がくすぐったくなるな」
どう答えてよいものか、困って頬を掻いていると、沙希が翔子の肩を叩く。翔子は立ち上がると脇に控え、沙希が前に進み出た。
「しのぶ先輩。お疲れ様でした」
沙希が深く頭を下げる。
「ああ。ありがとう」
しのぶは立ち上がると、沙希の耳に唇を寄せて、そっと囁いた。
「なあ、沙希。私は今、遥を止める可能性が一番高いのはお前だと思ってる」
「しのぶ先輩……」
「あいつはもう、十分戦ったよ。もっと早く肩の荷を下ろしてやりたかったが、私達にはそれができなかった。……お前が、そろそろあいつを楽にしてやってくれ」
「は、はいっ!」
沙希はもう一度、しのぶに頭を下げた。
「では、失礼します。いくぞ、翔子。この試合、必ず獲る。そして来月、遥先輩に挑む権利をこの手に掴んでみせる」
沙希は表情を引き締めると、身を翻した。翔子も優雅に頭を垂れ、沙希に続く。そしてまた、部屋にはしのぶが一人残された。
「さて……」
腰を下ろそうとした所で、再び扉がノックされた。
「おいおい、またか。……開いてるぞ」
しのぶの声に扉が開くと、そこには一人の男性が立っていた。
「しゃ、社長っ」
「やあ、越後君、お疲れ様」
そこには、にこやかな表情を浮かべて一番星プロレスの社長が立っていた。
「社長、今日はすみませんでしたっ。あんな試合をしてしまって」
しのぶはバッと勢い良く頭を下げる。
「いや、いいんだよ越後君。ああいう展開になるだろうとは、薄々思っていたからね。それより体は大丈夫かい」
「ええ、問題ありません」
「それは良かった。問題ないそうだよ」
社長が扉の外の誰かに声を掛ける。すると扉の影から、長身の女性が現れた。
「遥……」
そこには、遥が俯いて立っていた。
「試合の後、伊達君が私の所に来たんだ。さっきの越後君と同じ事を言う為にね。私は君達が良ければそれで構わなかったんだが、やっぱりプロだな、君達は」
社長は頬を掻きながら扉の前を離れると遥の背中をトンと押した。
「……あの……社長」
「もう試合は終わったんだ。今まで、色々話したいこともあったろう。セレモニーの時間になったら呼びに来させるから、二人でゆっくりするといい」
「……ありがとう……ございます」
遥がペコリと頭を下げた。その時。
「あーっ! いたっ」
廊下から大きな声が響くと、つばさと那月が部屋に戻ってきた。
「もう、あっちの控え室に行っても遥先輩いないんだもん。どこ行っちゃったのかと思っちゃった」
「あ〜、悪いんだがね、野村君。少し、二人きりにしてやってくれないか」
「えっ、えっ? ああ〜ん、せっかく会えたのにい」
社長に押し出されるように背中を押されると、つばさがじたばたと暴れる。
「もう、後でいいじゃないの。私達はいつでも話す時間はあるんだから」
那月も察しがついたのか、つばさの背中を押すのを手伝っている。
「ちょ、ちょっと待ってっ。一言だけっ。……遥先輩っ。 私、遥先輩の事、大好きですからっ」
突然の告白に一瞬呆気に取られた遥だったが。
「……ありがとう」
そう言うと、優しい微笑みを浮かべた。それで満足したのか、つばさは満面の笑みを浮かべてすんなり部屋を出て行った。
「とりあえず……座るか」
「……うん」
すっかり静かになった部屋の中で、二人は並んで腰掛けた。
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