〜1〜

「富沢ぁっ!」
 澄み切った青空に、怒声が響く。だが、大声で名を呼ばれた少女は遥か後方でまろびながらついてくるのがやっとで、返事もできなかった。
 9月の秋晴れの空の下。一番星プロレスのメンバー数名が、お決まりの河川敷のランニングコースを走っている。最初は一団となっていたのだが、先頭を引っ張る近藤真琴のペースに入団3ヶ月目の富沢礼子はついていけず、いつの間にか大きく離されていた。
 仕方なく、真琴は足を止めて少女が近づくのを腕組みをしながら待つ。彼女のイライラは、せわしなく地面を何度も叩く足裏を見れば嫌でも伝わってくる。
「はぁっ、はぁっ……す、すみませぇん……真琴、せんぱぁい……はぁ、ひぃ……」
 ようやく追いついた少女は、顔を上げる事も出来ずに両膝に手をついたまま荒い息を吐き、それでもなんとか謝罪を述べる。
「謝るくらいなら最初から遅れるなっ。行くぞ」
「ひえ……もう……?」
 すぐに少女に背を向けて前を向いた真琴に、思わず礼子は情けない声を漏らした。
「なんだ。何か言いたいことがあるのか」
「あ、あのぉ……はぁっ……もうちょっと……休ませてくださいぃ……」
「何を言ってるんだ。お前はもうプロレスラーなんだぞ。情けないことを言うなっ!」
「はうぅ……でも……」
 二人の様子を見かねて、真琴の傍らに立っていた沢崎光が真琴の肩に手を置いた。
「真琴、飛ばしすぎだよ。私達だってギリギリのペースだもん、レイにはまだ無理だって」
 苦笑しながらその光が言う。その横で、おっとりした少女、ミネルヴァ石川がうんうんと頷いている。
「そうですね〜。まだレイちゃんには大変かもしれないですね〜」
「お前ら……甘すぎるんだっ。こいつだってもうプロなんだぞ。この程度で根を上げて、プロレスラーが務まるかっ」
「真琴の言いたいこともわかるけど、だからって無理して倒れでもしちゃ何にもならないじゃない。貴方達はどう思う」
 光は真琴の横で沈黙を守っている二人に水を向けた。
「私は別に問題ないペースだと思います。……大方、深夜番組でも見て夜更かしして、寝てないから体調が悪い、なんて所じゃないですか」
 真壁那月の言葉に、礼子はギクリとして顔を上げる。だが那月は礼子の顔を見る事無くつまらなそうにプイと顔を背けていた。
「あたしは……もうちょっとゆっくりの方が、ラクチンかなあ」
「貴方ね。それじゃ練習の意味がないでしょう。まったく、楽する事ばっかり考えて」
 野村つばさの脳天気な言葉を、すかさず那月が否定する。
「そんな事ないもん。ギリギリの練習をするのも精神力を鍛えるには大事だけど、無理せず自分のペースを守って練習するのも余計なケガをしない為には必要な事だってしのぶ先輩が……あ」
 思わず口にしてしまった名前に、つばさは慌てて口を押さえる。真琴は舌打ちすると、皆に背を向けた。
「とにかく。ちんたらやってたんじゃあたし達自身の練習にならん。あたしは先に行く。お前達は好きにしろ」
 そう言い放つと、真琴はさっさと走り出してしまった。その後を無言で那月がついていく。
「え、あ、あれ?」
 つばさが走っていく二人とその場に留まった三人を交互に見て、困惑した表情を浮かべる。
「つばさ、行っていいよ。レイは私と涼美で見てるからさ」
 光の言葉に涼美もコックリと頷く。
「わ、わかりました。じゃ、レイちゃん、頑張ってね。……真琴先輩、なっちゃん、待って〜っ」
 礼子に一声掛けると、つばさは慌てて前を走る二人を追いかけていった。
「……すみません、光先輩、涼美先輩」
 俯いたまま謝る礼子の肩に、光が手を置いて優しく語り掛ける。
「気にしなくていいよ。自分のペースで頑張ればいいからさ」
「そうそう。マイペースが一番ですよ〜」
「アハハ、涼美はマイペースすぎだけどね」
「え〜、そんな〜」
 ようやく呼吸も落ち着いたのか、二人のやり取りに笑みを浮かべて礼子が体を起こした。
「もう大丈夫です。行けます」
「よし、そんじゃ行こっか。私が先頭になるから、どうしてもきつかったら言いなさいね」
「はいっ」
 光が先頭になって、三人は走り出す。先を行った真琴達の背中は全く見えない。
「レイ。真琴の事、悪く思わないでね」
「……はぁ、はぁ……えっ?」
 ランニングを続けながら、光が前を向いたままぼそりと呟く。
「あの子なりに必死なのよ。貴方に何かを残してあげたいって。……もう、時間もそんなにないから」
 その呟きは耳には入ったものの、礼子はランニングのペースについていくのに必死で、その言葉の意味を正しく理解するまで頭が回らなかった。

 あれからしばらく結構なペースで走り続けた真琴たち三人は、予定より早く道場まで辿り着いていた。すると、道場の玄関横にもたれた村上千秋が煙草をふかしている。
「何をしているんだ、千秋。まだ練習時間だぞ」
「……うるせえなあ。一服だよ、一服。見りゃわかんだろ」
 眉を顰めた真琴が次の言葉を発する前に、つばさが大声をあげた。
「あーっ! 千秋先輩、タバコ吸ってるーっ。いけないんだーっ」
「うっせえなあ。ほっとけ」
「ダメなんですよっ。しのぶ先輩が言ってたもん。タバコ吸うと持久力が落ちるからって」
「ったく。アイツがいなくなってもおちおち吸えやしねえのかよ。……そうだ。オマエ、ちょっとこっち来い」
「へ?」
 千秋に手招きされて、つばさは恐る恐る近づく。千秋は背の低いつばさの頭にポンと手を置くと、ニヤリと笑った。
「オマエにタバコの味、教えてやんよ。オラ」
 千秋はそう言うと、つばさのお尻の中心に煙草を押し付けた。もちろん火のついた方ではなく、口で咥える方である。
「酒もケツから入れれば回りが良いって言うしよ。タバコもケツから吸えばすぐ味を覚えるんじゃねえのか。ヒャハハッ」
「いや〜んっ」
 ジャージの上からとはいえ千秋にお尻の穴の辺りをグリグリと攻められて、つばさは悲鳴を上げて飛び退いた。
「もう、千秋先輩なんか知らないんだからっ。肺ガンになっちゃえっ」
「あぁん!?」
「きゃーっ!」
 悪態を吐いたものの、千秋に凄まれてつばさは悲鳴を上げて道場の中に逃げていった。それを見て、千秋はまたヒャハハと笑う。そんなおよそエレガントとは言えないやりとりを、那月は眉を顰めて見ていた。
「那月。先に戻ってろ」
「……はい」
 真琴に促され、那月も道場の中に消える。真琴は千秋に近づくと、煙草を取り上げた。
「……何すんだよ」
 千秋が真琴を睨む。
「つばさの尻に押し付けたコレをまた吸うつもりか」
「……ハッ、それもそうだ」
 千秋は薄く笑うと、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。しかし、一本取り出すより早く真琴の手が蓋をする。
「……んだよ」
「タバコは止めろ」
「るせえなあ。関係ねえだろ、アンタには」
「関係なくない。後輩に示しがつかないだろう。それに、選手生命を縮めるぞ」
「今更コイツを止めたからってんなもん五年も十年も伸びるかよ。ほっとけっつの」
 千秋はぼやくと、壁から離れて真琴に背を向けた。
「待て。どこに行くんだ」
 真琴が後ろから千秋の腕を掴む。
「ああっ? しつけえな。走ってくんだよ。なんか文句あんのか」
「本当か」
「ったく、うぜえなあ」
 千秋は振り返ると、背の高い真琴を下から睨みつけた。
「アイツに何言われたか知らねえけどよ。ガラじゃねえんだよ、アンタが他人の世話焼くなんてよ」
 千秋の言葉に、真琴は一瞬言葉に詰まった。
「あ、あたしは、そんな……」
「大方『後を頼む』とか言われたんだろうけどな。別にアイツはアンタに自分の真似をしろって言ったわけじゃないんだぜ。だいたい、今まで自分の事で手一杯で他人の事は我関せずだったヤツが、今更うるさく言ったって誰も聞きゃしないんだよ」
「……くっ」
 言い返せず、真琴は唇を噛む。
「張り切るのは勝手だけどよ。それを周りに押し付けんなよ。せっかく新しいパシリが入ってきたってのに、逃げられちゃたまんねえからよ。じゃあな」
 千秋は言いたい事だけ言うと、背を向けて行ってしまった。一人残された真琴は、震える拳を握り締め、道場の壁を殴りつけた。
「……くそっ!」
「……何やってるのよ、真琴」
 急に声を掛けられ、顔を向ける。そこにはラッキー内田が立っていた。
「ユキ……」
「その拳は大事な商売道具でしょ。そんな乱暴に扱うなんて、自覚が足りないんじゃないの」
「……ほっといてくれ」
「ま、いいけどね。で、レイは? まだ戻って来ないんだけど。スパーリング始められないじゃない」
 幸はチラリと道路に目をやる。つばさ達が戻ったというのに、なかなか入ってこない礼子が気になって道場の外に様子を見に来たのだろう。
「その内、光や涼美と一緒に戻ってくる」
「どういう事」
「置いてきたんだよ。あんまりもたもたしてるから」
「はあ?」
 真琴の言葉に、幸は額を押さえた。
「アナタね。面倒見きれないんなら、最初から連れ出さないでくれる」
「うるさいなっ。あのくらいのペースについてこられないようじゃ話にならないだろっ」
「……あのね。アナタがしのぶのいなくなった穴を埋めようとして、レイの指導を気にかけているのはわかる。でも、だったら最後まで責任持ってちょうだい。中途半端で放り出すような事しないで。かえって悪影響だわ」
 幸のキツイ言葉に、真琴はバンと平手で道場の壁を叩いた。
「だからあたしは精一杯やってるだろっ。あいつがついてこられないだけでっ」
「ついてこられないような練習させたってパンクしちゃうだけでしょ。しのぶならちゃんと成長段階を見ながら教えてるわよ。そんなに急に詰め込んだって」
「もう時間がないんだよ、あたしにはっ!」
 真琴の叫び。幸は言葉を飲み込み、大きく息を吐いた。
「……真琴。まだプロレスの右も左もわからないあの子に、いきなりアナタの全てを注ぎ込もうとしても無理よ。残念ながら、あの子にはそこまでの素質はなさそうだしね。それはしのぶが教えていたって、同じだったと思う」
「…………」
「しのぶはアナタに自分の代わりになってほしかったわけじゃないはずだわ。時間がないなら、アナタはアナタの出来る方法で、あの子に何か一つ、伝えてあげれば良いんじゃないの。……私は関節技のテクニックを教える。あの子がこの世界で生き残っていくには、それしかないだろうから」
 幸は背を向け、道場の中に戻っていった。残された真琴は、拳を振り上げ、……しかし、壁に叩きつける事無く、拳を下ろした。
「……どうしろって言うんだよ……」
 晴れやかな空を見上げ、真琴は小さく呟いた。


次へ

リプレイへ戻る