〜2〜
「ふええ〜」
手に持ったいくつかの皿が乗ったトレイを置くと、情けない声を上げて、礼子はテーブルに突っ伏した。一日の練習を終え、ようやく向かえた夕食時である。
一番星プロレスでは食事は専門の栄養士が作りに来ており、バイキング形式で必要な分量を自分で取る事になっている。従来の豪快なプロレスラーのイメージとはかけ離れているが、アスリートとしてバランスの取れた食事を、という社長の方針である。もっとも若い女性を預かっている事もあり、選手寿命も長くはない為その後社会に出ても困らないようにと週に一度は栄養士の指導の下、若手にも食事を作らせる。礼子は心底、今日がその日でなくて良かったと思っていた。
「あらあら、おつかれさま〜」
隣の席に石川が腰掛ける。
「あ、涼美先輩。お疲れ様です」
「それしか取ってないの、量。明日の朝までもたないわよ〜」
礼子のトレイには御飯、味噌汁とおかずが二品ほど。ぱっと見て、石川のトレイの半分ほどしか皿数がなく、スカスカである。
「今日は特にキツかったんで、食欲ないんですよ」
元々食が太くはない上に練習で疲れ果てていて、まったく食欲がわかなかった。それでも最低限詰め込める分だけは確保している。
一度あまりに疲れて食べずに寝てしまった際、夜中に空腹が襲ってきてひどい目にあったことがある。ある程度自由が許されているとはいえ、新人が夕食を食べずに夜中にコンビニで買出しなど許されるわけもない。翌日の朝食でその分空腹を満たしたのだが、食べ過ぎた分その日の練習でどうなったかは想像に難くない。
それ以来、どれだけ疲れていても最低限は食事を取る事を誓った礼子だった。
「でも、沢山食べないと大きくなれないわよ〜」
「私はこれ以上大きくならなくてもいいですよ。横に広がっちゃったら衣装着れなくなっちゃうし」
そう言って苦笑いすると、後ろから頭を軽くはたかれた。
「あたっ」
「生意気言うわね、貴方」
頭を擦りながら声の主を目で追うと、その人は礼子の斜め向かいの席に腰を下ろした。
「いったーい。いきなり何するんですか、那月先輩」
礼子の非難にも目を合わせる事無く、済ました顔で言う。
「入団して半年も経っていない新人がプロポーションを気にするなんて百年早いのよ。そんなだからランニングにもついてこられないんでしょう」
「そ、それは……」
正論を突きつけられてぐうの音も出ない礼子。
「なっちゃん、あんまりレイちゃんいじめちゃダメだよ」
「私は本当の事を言っているだけよ」
笑いながらつばさが礼子の前の席につく。最近は食事の際はだいたいこういった並びになる。気さくな人達とはいえ、旗上げメンバーの側ではあまりに大先輩すぎて落ち着かない。必然的に馴染みやすい先輩としてつばさや涼美と共にいる事が多くなる。もっともつばさと行動を共にしている那月は、どうにも自分に冷たいような気がして礼子は馴染みにくかった。石川とは同期のREKIが行動を共にしている事も多いが、どういうわけか食事と入浴の際には姿が見えなくなる。石川曰く、口元を他人に見せるのは掟に反するから、という事らしい。よくわからない。
「いつも思いますけど、つばさ先輩よく食べますね」
礼子はつばさのトレイを見ながら感心したように言う。ざっと見て石川と同じくらいの皿数がある。そして、妙に乳製品が多いのがつばさの食事の特徴だった。
「あたしも最初はそんなに食べれなかったんだけど、前にいた先輩に食事はしっかり取らないとダメだって口を酸っぱくして言われてたから」
そう言って、グラスになみなみ注がれた牛乳に口をつける。
「でも、そのお陰でだいぶ体力ついたんだよ」
そう言って、つばさが胸を張る。そんなつばさを見つめる礼子。……残念ながら、身長と胸には努力は反映されていないようだ。
「……レイちゃん、今何か失礼な事考えたよね」
「えっ、いえ、別に」
「なっちゃん、やっぱいじめていいや、レイちゃんの事」
「そんなーっ」
テーブルが笑いと共に和やかな空気に包まれた。
「下らないこと考えてる暇があったら、早く一人前になりなさい。今の貴方に後輩ができたって、後輩がかわいそうだわ」
突然そうピシャリと言われて、礼子は呆気に取られて那月を見た。那月はそんな礼子に視線を送る事無く、空になった皿の乗ったトレイを持ち上げてさっさとテーブルを後にした。
「……あ、あの……私、なにかマズい事言いました?」
食事中、各々の新人時代の話で盛り上がっていた。その流れで、同期のいない礼子はぽろりと口にしたのだ。「私にも早く、後輩ができないかなあ」と。
「あ、うん。気にする事ないよ。それじゃ、私ももういくね」
つばさは曖昧に答えると、トレイを持ち那月の後を追うように席を立った。つばさも去ってしまい、礼子は泣きそうな顔で隣の石川に目を向ける。石川は立ち去る事無く、いつものようににこやかな笑みを浮かべて礼子の頭を撫でてくれた。
「別に、レイちゃんが悪い事を言ったわけじゃないの。同期もいないし、一番年の近い私でも3つ上だものね。早く年の近い後輩がほしいって気持ち、わかるわ〜。でも今ウチは宿舎がいっぱいでしょう。レイちゃんに後輩が出来るって事は、誰か一人、今のメンバーがいなくなるって事だから」
「……そうですね。うっかりしてました。すみません」
新しい選手が入るという事は、馴染み深い仲間が一人いなくなるという事。礼子にはまだピンとこないが、何年も共に過ごしている先輩達にしてみればそれはとても辛い事なのだろう。
だが、礼子自身すぐにも誰かがいなくなると思って口にしたわけではない。だって先輩達は、礼子の何十倍も強いのだから。あの先輩達の誰かが引退するなんて、まだまだ当分先の事だろう。まだ先の事なのだから、いつかできるであろう自分の後輩に少しくらい思いを馳せても良いではないか。何もそんなにナーバスにならなくても……。
思っていることが顔にはっきり出ている礼子を見ながら、石川は苦笑した。この子はまだ、ピンとこないのだろう。だが、自分達は知っている。礼子がここにいる事の引き換えに、大事な人がここから去ってしまったという事を。そして、礼子に後輩が出来る時。それはおそらく、那月にとっては特に、辛い別れを経験せねばならないであろう事を。
「ふ〜」
入浴を済ませ、礼子は鼻唄など歌いながら上機嫌に廊下を歩いていた。キツイ練習を終えた後、この入浴から深夜にかけての時間が、礼子の至福の時である。そのまま部屋の扉を開けると、礼子は慌てて鼻唄を止めた。すでに同室の先輩が自身のベッドに入って目を閉じていたからである。
「礼子か」
「は、はい。あの、起こしちゃいました?」
「いや、まだ眠ってはいなかった。気にする事はない」
ベッドに入ったまま目を開けて、その先輩、イージス中森はそう言った。まだ9時だというのに、もう床についている。無趣味なのか、夜は驚くほど早く寝てしまう。プロレスは仕事、と言い切る割に、他に何か趣味があるわけでもない。よくわからない所がある先輩であった。
プライベートでは掴み所がないものの、先輩としては礼子は中森を尊敬していた。自分とほぼ同じような体型で、足関節技を駆使するそのファイトスタイルは礼子の目標である。ルームメイトとしても、口数が多くはない分干渉も少ないので、最初は先輩との同室という事で気後れしていた礼子だったが、今ではすっかり気兼ねなく暮らしている。最初の内は隠していた礼子の趣味も、中森が何も言わないのを良いことにどんどん露出していく。すでに部屋の半分、礼子のスペースはポスターやらフィギュアやらで何やらごちゃごちゃとしていた。
「あ、あの、私もすぐ寝ますね」
「いや、構わないよ」
慌てて電気を消そうとした礼子を、中森が止める。
「どうせすぐには寝ないんだろう。前から言おうと思っていたんだが、暗い中でテレビを見ると目に悪いぞ。プロレスラーにとって目は命だ。私は構わないから明るくしているといい」
そう言って、中森は起き上がると簡素な机の引き出しから何かを取り出し、再びベッドに潜り込むとそれを身につけた。アイマスクだった。
「あずみ先輩、知ってたんですか」
「もう何ヶ月も同室だからな。気づかないわけがないだろう」
仰向けのまま返す中森。顔半分がアイマスクで隠れている為、表情はわからない。
「言ってくれれば良かったのに」
「私が言えば深夜番組を見るのを止めるのか」
「それは……」
人によっては他愛もない事と思われるかもしれないが、礼子が寮に入る上で最も気になったのが『深夜アニメが見られるか』であった。半ば諦めて入寮したのだが、同室の中森が寝つきが良い事もあり、今ではこっそり夜中に見る事が定番になってしまっている。
「練習時間以外は好きにするといい。極端にうるさくしなければ、何をしても構わないさ。慣れているからね」
そう言って、中森はクスリと笑った。相変わらず表情はわからない。ふと、礼子は前に石川から聞かされた話を思い出した。礼子が入寮する前は、中森は同期入団のアドミラル八島と同室だった、と。どう考えてもウマが合うようには思えない二人だったが、今のように中森は非干渉だったのだろう。
「ただ、それが練習に影響を及ぼすのは感心しないな。真琴さんのランニングについていけなかったんだろう」
「あ、あれはその、ペースが速すぎて」
「見ていないようで、真琴さんはちゃんと見ている人だよ。礼子でも何とかついてこられるペースで走っていたはずだ。万全であれば、ね」
「…………」
確かに、ランニング前は寝不足で少しぼ〜っとしていたかもしれない。だが、睡眠を十分取ったとしてもあのペースに自分がついていけたかと言われると、到底そうは思えなかった。
「自己管理もプロの仕事の内。どういう生活を送るかは礼子次第だよ。……そろそろ眠くなってきた。おやすみ」
「お、おやすみなさい」
すぐに、静かな寝息が礼子の耳に届き始めた。相変わらず、恐ろしく寝つきが良い。礼子はベッドに横になり、中森に言われた事を考える。だか考えがまとまるよりも早く、睡魔が襲ってきた。
(う、眠い……だ、ダメよ、ダメ。今日見逃しちゃったら話がわからなくなっちゃう。もう後半なのに。……はう、でもやっぱり寝ちゃいそう)
必死に目を凝らしたりしてみるものの、とてもじゃないが眠気をこらえられそうにない。なるべく身軽に、目をつけられないようにと、入寮の際には小さなテレビしか持ってこなかった。当然録画機能もない。
礼子は起き上がると携帯電話を手に取り、音を出さないようにタイマーをバイブにしてセットし、パジャマの胸ポケットに入れた。
(これで大丈夫。時間になったら起きて、見たらまた寝よう、うん)
礼子は目を閉じる。しかし彼女の体は、自分で思っているよりずっと疲れがたまっていたようだ。夜中にどれだけ胸が震えても、泥の中に引きずり込まれたその意識は決して戻ってはこなかったのだった。
「……う……うそでしょ……」
しっかり睡眠を取ったというのに、礼子はげっそりとした顔をしてベッドの上でへたりこんでいた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、窓の外から鳥の声が聞こえてくる。
……完全に、寝過ごした。
「あ〜ん、あんまりだよーっ」
礼子は泣きそうになりながら、ベッドに潜り込んで掛け布団を引っかぶった。
「誰か、録画してるかな……」
中学の同級生達の顔を思い浮かべる。幸い寮から礼子の実家まではそう遠くない。
「……次のお給料出たら、HDDレコーダー買おう」
そう心に誓った礼子だった。
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