〜11〜

「ほら〜。ギブアップしちゃいなよ〜」
「んぎぎ……い、いや〜っ」
「も〜。新人のクセにしつこすぎっ。じゃあ、もうちょっといっちゃうよ」
 ギュウウ〜。
「いーっ、いた、いたいーっ」
 礼子は涙目になりながら、渡辺のコブラツイストを必死で耐え続けた。

 シリーズ2戦目、福島大会。すでに陽も傾き始めたこの時刻、秋の涼やかな風が吹き抜ける屋外でありながら、ここ、いわき市平レース場特設会場には続々と人が集まり続けている。この分なら最終的には会場を観客が埋め尽くす事になるだろう。
 本日のオープニングマッチは富沢礼子vs渡辺智美。図式としては星プロvs新女という事になるが、入団間もない礼子と、前座を主戦にしているとはいえすでに中堅にさしかかっている渡辺では相手にならないだろう、というのが大方の予想であった。
 事実、時折礼子も技は繰り出して見せるものの単発止まりで、試合自体は常に渡辺のペースで進んでいた。そして今、彼女得意のコブラツイストでまさに仕上げに入ろうとしている所であった。

「ああぁぁぁっ」
 礼子の悲痛な悲鳴が風に乗り空へと吹き抜ける。
「礼子っ、しっかりなさいっ」
 セコンドについている那月が、マットの縁をバンバンと叩く。
「見映え重視の締め方ですから一発でギブアップとはなりませんでしたが、しかしあれだけ締め続けられてはそろそろ礼子も限界でしょうね」
 あずみが冷静に分析する。
「…………」
 真琴は何も言わず、ただ無言でリングの上を見つめていた。

「うぐぐぐぐ〜っ」
 礼子は歯を食いしばって痛みをこらえる。しかしそれで堪えきれるかと言えば、到底我慢できるものではない。
(うう、いたいよーっ。お腹が裂けて真っ二つになっちゃう〜っ)
 礼子は泣きそうになりながらも必死に耐える。しかし、ただ黙って耐えていれば終わりが来るかと言うと、そんなはずはない。むしろ礼子が我慢すれば我慢するほど、絞り上げる力は強くなっていく。
(いたいいたいいたい〜っ。もう、イヤだよーっ)
 次第に頭が痛みでいっぱいになっていき、なぜ自分が我慢しているのかもよくわからなくなってくる。スリーパーで落ちるのならばまだ最後は気持ちよくもなれようが、コブラツイストではそうはいかない。延々と拷問が続くだけだ。
(いいや、もう。私、十分頑張ったもん。渡辺さん、あずみ先輩と同い年なんだよ。私が勝てる訳ないじゃん)
 礼子の脳裏に一瞬よぎった諦め。それはあっという間に礼子の頭をいっぱいに埋め尽くしてゆく。申し訳ないと思いつつも、礼子は許しを請うように青コーナーを見た。そこには、礼子の考えを読み取ったのか、マットを叩いて叱咤する那月の姿、諦めたように目を閉じるあずみの姿。そして。
「…………っ」
 腕組みをしたまま、まっすぐ礼子を見つめている真琴の姿があった。
 言葉は無い。しかしその瞳は、礼子に問うていた。
『お前は、本当にそこまでなのか?』
 非難しているわけではない。ただ、確かめるように。真琴は真っ直ぐに、礼子を見つめ続ける。
(そう、だよ……)
 消えかけていた礼子の瞳の中の炎が、微かに揺らめく。
(私、決めたんじゃない。真琴先輩みたいになりたいって。なるんだって。だからっ)
 段々と礼子の力が抜けていくのを肌で感じていた渡辺は、そろそろ終わりが近いと感じていた。
(プロなんだから仕方ないんだけど、新人ちゃんにはかわいそうな事しちゃってるなあ。早くギブアップしてくれないかな)
 ホトケ心が出た訳ではない。だが、ここから返されるなどと夢にも思っていない渡辺は、無意識にふと力を緩めてしまった。その瞬間、
「うああぁぁーーっ!」
「わわっ?」
 礼子は最後の力を振り絞って、体を無茶苦茶に揺すった。それが一瞬の綻びを生むと、長い手足で懸命にもがき、戒めを崩す。リングに折り重なるように倒れこんだ二人は、しかし不意を突かれた渡辺より逃れたいという意志を持ち続けていた礼子の方が動き出しが早く、礼子は懸命に手を伸ばしてロープに触れた。
「ブレイクッ」
「うっそ?」
 レフェリーがそれを確認し、二人の体を放す。渡辺はポカンとしながら立ち上がり、ロープにもたれてよろよろと立ち上がりかけている礼子を見つめる。すると、驚きがだんだん怒りに変わり始めた。
「……なんなのよ、も〜っ! こうなったら、絶対コブラで決めてやるんだからっ」
 自分の必殺技が新人に外された。これでは面目丸潰れである。さほど勝敗にこだわるタイプではないとはいえ、彼女なりのプライドもある。新人相手など勝って当たり前。求められるのは内容だ。このまま別の技で勝ったとしても、観客も、何より自分が納得できない。
 渡辺はズンズンと足を踏み出した。強引にでも捕まえて、もう一度絞り上げてギブアップを奪ってやろう。それしか考えていなかった。
 礼子は右手でロープを掴み、左手を膝に置き、荒くなった呼吸をわずかずつ整えながら、下げた頭からわずかに視線を上げて渡辺を見つめた。驚きの表情から、怒りの表情に変わっている。思わず逃げ出したくなったが、それでは何の為に逃れたのかわからない。重い体を引き起こすと、構えを取る。それは、真琴に教えられた打撃を放つ際の基本の構え。極度の痛みと疲労で余分な力は入らない。それ故に、自覚は無いものの教えられた通り自然体に構える事ができていた。
 反撃があるなどと思いもしなかった渡辺は、あまりにも無防備に礼子に近づきすぎた。手を伸ばせば届く、まさにその瞬間、ピシッと顔を衝撃が襲った。
「つっ!」
 一瞬怯んだものの、構わず手を伸ばす。だが指先が届こうかというその刹那。
 ピシッ、ピシッ。
 再び何かが顔を襲い、渡辺は顔を顰める。尚も構わず動こうと思ったが、なんだか鼻の辺りが熱い。無意識に右手で鼻を拭い、何気なく視線をそこに移すと。
「あれ……?」
 右手の甲に、赤い何かが付着していた。
「脇を締めて……コンパクトに……」
 礼子はブツブツと小さく呟いていた。自分のリーチを把握し、倒す為ではなく侵入を拒む為に腕を振るう。真琴に教えられたジャブ気味の掌底が、余計な考えを捨て去った事によりここにきて素直に実践される。
「むっ……このおーっ!」
 バシッ。
「あうっ」
 渡辺が怒声と共に右足を振り上げる。左手でガードはしたものの、その衝撃に礼子はふらついた。
(あ……)
 しかし、礼子に焦りは無かった。これこそが真琴に教えられた展開そのもの。礼子の腕の長さを生かした掌底を嫌がった相手は、その外から攻めようとする。例えば、蹴りで。もちろんいつも同じパターンであるはずはないが、相手が新人と侮っている上に頭に血が昇っている事により、渡辺はその例題通りに礼子を攻めてきた。
「ええいっ」
 なおも渡辺は蹴りを繰り出す。しかし、数日間とはいえ真琴の蹴りを目の当たりにしてきた礼子にとってみれば、普段使い慣れていない渡辺の蹴りは十分に目で追える速度であった。ならば次のパターンは。
(腰を落として……タイミングを計って)
 礼子はもっとも衝撃を逃がす形でその蹴りを防ぎ、そしてそのままその足を掴むと、自らの体を回転させた。
「えーいっ!」
「ひゃああっ?」
 相手の予想外の動きに渡辺は一瞬対処が遅れ、それ故に右足に大きなダメージを負ってリングの上に投げ出された。
「あうぅっ」
 その痛みに思わず悲鳴を上げて、右膝を手で押さえながらリングを転げまわる渡辺。
「やった……」
 あずみに徹底して叩き込まれたドラゴンスクリューのタイミング。この土壇場で、それが見事に決まった。思わずホッとする礼子。だが。
『ぼーっとしないっ!』
「は、はいっ!」
 突如耳に届いた(ような気がした)声に促されるように、礼子は動いた。渡辺の痛めた足を取るとうつ伏せにひっくり返し、その背中に腰を落とすと右膝を思いきり折り曲げる。
「そりゃあーっ」
「くああぁっ」
 悲鳴を上げる渡辺。これでギブアップを取れなければ、もう礼子になす術はない。だから、礼子は足を絞りながら、足首も合わせて極めた。それは幸に身をもって教えられた、ギブアップの取れる逆片エビ固め。こうなってくると、もう実際には片逆エビ固めではないのだが、その辺りの厳密な区分は礼子にもよくわからない。
「んくーーーっ」
 膝と足首に同時に走った耐え難い激痛。それは渡辺の頭の中から、対戦相手の事や今の状況など、あらゆる事柄を一瞬奪い去る。その激痛から逃れようという本能が、彼女自身が自覚する前に動作と言葉で現れた。
「ギ、ギブアップ……」
 弱々しく呻くと、マットを2度叩く。その瞬間、わずかに距離を置いて様子を見守っていたレフェリーが大きく手を交差させ、実況席でゴングがけたたましく打ち鳴らされた。
「あーっと! 渡辺、ギブアップーッ! 10分8秒、片逆エビ固めにより富沢の逆転勝利ぃーっ!」
 ゴングと共に実況席のアナウンサーが絶叫するが、礼子は状況も分からず尚も渡辺の足を必死で極め続ける。レフェリーの制止を受けても意味が分からず渡辺の足を放さなかった礼子だが、リングに上がったセコンドの先輩達を見てようやく力が抜けた。
「やったじゃない、礼子」
 呆けてへたりこんでいる礼子の頭を那月が撫でる。
「最後の攻撃は無駄のないスムーズな連携だった。練習の成果が出たな」
 あずみは結果そのものより、練習の成果を実戦できちんと披露した事を褒めた。そして。
「よく、頑張った」
 真琴は力強く頷く。それを目にした瞬間、礼子は疲労も痛みも全てが吹き飛んでいくような気がした。
『ちょっとアンタッ!』
 突然、背後から大きな声が掛けられた。振り向くとそこには、小川の肩を借りた渡辺が、マイクを握り締めて礼子を睨みつけていた。
『新人だからって優しくしてあげたら調子に乗って〜っ。顔まで叩いてくるなんて信じらんないっ。アンタとはもう一回シングル組まれてるから、その時はギッタンギッタンにしてあげるから、覚悟しなさいっ!』
 言いたい事だけ言って、渡辺は礼子の前にマイクを放り投げた。マイクと周りの先輩達の顔を交互に見るが、誰も動こうとしない。これは礼子に何か喋れという事なのだろう。まさかもうマイクアピールの機会があるとは礼子も思ってはいなかった。
 マイクを拾い上げて立ち上がると、しばし逡巡する。ファンの頃はこういうシーンにも憧れていたのに、いざ自分の番となると何も出てこない。
(えっと、かっこいいセリフ、かっこいいセリフ……)
 必死に頭を回転させ、やっと出てきたセリフは。
『……まだまだだね』
 会場が一瞬シンとなる。
(あ、気持ちいい)
 礼子はしばし、その空気に酔った。しかし。
 ポギャッ。
 いきなり後頭部を那月に叩かれた。
『いったぁ〜っ。何するんですか、那月先輩』
『いきなり何を言い出すのよ貴方はっ』
『えっ、知らないですか。これはリョーマさまの決め台詞で』
『知らないわよ、このおバカッ』
 礼子がマイクを握ったままだった為、この間の抜けたやり取りの一部始終は会場に響き渡ってしまった。すると一部のファンの間で笑いが起きる。熱心なファンは入団当初のプロレス雑誌に載った礼子のプロフィール欄の中に、某テニス漫画が好き、と書かれていた事を思い出したのだった。
 二人のやりとりを一瞬ポカンと見ていた渡辺だったが、礼子に近寄るとマイクを奪い取る。
『なんかよくわかんないけど、アンタが生意気だって事はよ〜くわかったわ。次の試合、覚えてなさいよっ』
 それだけ言うと、渡辺はマイクを投げ捨ててさっさとリングを降りてしまった。慌てて小川が追いかけ、通路を歩きながら小声で話しかける。
「ちょっと智美。貴方……」
「へへ〜。負けちゃったのは悔しいですけど、マイクアピールなんてウチのリングの前の方の試合じゃやる機会ないから、せっかくだし。結構目立ったでしょ、ひかる先輩」
「……ウフフ、貴方らしいわ」
 二人が引き上げていくその背後では、初勝利を上げた新人に送られる拍手の中、礼子がマットの四方に頭を下げていた。

「レイ」
 リングから引き上げ扉を開けた瞬間、礼子に声が掛けられた。
「ユキ先輩。見ててくれたんですか」
 そこには壁に背を預けたラッキー内田が立っていた。
「一応ね。最後、しっかりポイント極められていたじゃない。まあ、頑張った方じゃない」
「あ、ありがとうございますっ」
 ペコリと頭を下げる礼子。
「もっとも、次は向こうも最初から本気で来るだろうから、同じようにはいかないわよ。ならどうすれば良いか、考えておきなさい。それが面白いんだから、プロレスは」
「は、はいっ」
 もう一度頭を下げる礼子の肩をポンと叩くと、幸は真琴の側に近寄ると小声で話しかけた。
「なかなか面白い事になったわね」
「ああ。こんなに早く結果が出るとは。もっとも、毎回こう上手くはいかないだろうけど、少しは自信がついたんじゃないか」
「アナタも少しは肩の荷が下りたんじゃないの」
「……かもな」
 真琴は改めて礼子を見る。激闘の疲れでフラついているにも関わらず、なぜだか数時間前よりもその背中が一回り大きくなったように見えた。

 結局礼子はこのシリーズ1勝を上げただけで、残りは全敗。渡辺の名誉を守る為に言わせて貰うならば、青森での再戦では渡辺が全て受けきった上できっちりと勝利を収めている。
 だがこの日以降、礼子のプロレスにはほんの少しの自信が加わった。富沢礼子はプロレスラーとして、この日ようやく走り始めたのだった。

 続く……


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