「…………社長」
「…………」
「……社長っ」
「…………」
「社長!!」
「うわっ」
 突然の大声に驚き、その男性は椅子から半ばずり落ちた。
「ど、どうしたんだ霧子君。いきなり大声を出さないでくれ」
「いきなりではありません。先ほどからずっと呼んでいるではないですか」
 その男性……社長の気の抜けっぷりに、思わず秘書の井上霧子は大きな溜息を吐いた。
「も、もしかして成瀬君が見つかったのかっ!?」
 社長は突然勢い良く立ち上がり、霧子の前に顔を突き出した。
「いえ、それはまだ」
「そうか……」
 霧子の答えに、風船がしおれるかのようにへなへなと椅子に座り込む社長。
「しっかりしてください社長。成瀬さんの事は確かに心配ですが、他にも仕事が山積みなんですから」
「しかし、もう2週間だぞっ。保科君や辻君の時とは訳が違う」
「それはそうですが、しかし私達は待つしかないのだと保科さんも言っていたではありませんか」
「ぬう……」
 低く呻いて頭を抱え込み、デスクに突っ伏した社長を見て、霧子は再び大きな溜息を吐いた。成瀬唯が置手紙を残し失踪してから2週間。最初は前例もあり、落ち着きを見せていた社長だが、今ではこの調子で全く役に立たない。実質仕事の大部分は霧子がこなすしかない状態であった。
「成瀬さん。早く戻ってきてくれないと、貴方の戻る場所が倒産して無くなってしまうわよ」
 自分のデスクに積み上げられた書類の山の前でまた一つ溜息を吐き、霧子は椅子に腰を下ろすと一人書類と格闘し始めた。

〜〜〜

 小学校の頃、両親が交通事故で死んだ。悲しかった、と思う。あまりに昔過ぎて、良く覚えていない。それから、親戚の家を転々とした。まあぶっちゃけて言えば、たらい回しだ。
 その家の子とケンカする事もしょっちゅうだった。向こうが悪いのに、最後にはオレが悪い事にされて大人に怒られる。それを見て、その子は陰で笑うんだ。それが納得いかなかった。せめて一発殴っておかないと、気が済まなかった。
 だから、体を鍛え始めた。暇さえあれば筋トレしてた。幸い、体は成長してドンドン大きくなっていったから、ケンカをしても絶対に負けなかった。後で大人にみっちり怒られる代わりに、その子をボコボコにしてやった。その内、その子はちょっかいをかけなくなった。ついでに、親の方もビビッて手を上げなくなってきた。
 中学に入ってから、3年間新聞配達をした。自分で金を貯めて、中学を卒業したら一人暮らしをするって決めていた。最後に厄介になっていた家では、ほとんど口を開かなかった。その代わり、向こうも干渉してこない。飯食って、体鍛えて、風呂に入って、寝る。その繰り返し。それで良かった。
 こんなナリだから学校で絡んでくるバカもいたけど、頭を潰したら大人しくなった。グレたりなんだり、そんなくだらねえ事やってる暇はねえんだ。お陰で学校では普通の奴らからもグレた奴らも浮いて、常に一人だった。まあ気楽で良かったけど。
 全ては、一人暮らしを始めるまでの辛抱だと割り切っていた。一人になれば、なんかすげえ楽しいモノが見つかるって、勝手にそう思い込んでいた。
 そうして中学3年間をやり過ごし、念願の一人暮らしを始めた3月。オレはあいつに出会ったんだ……。


「はあ」
 優香は溜息を吐き、頭を掻いた。念願の一人暮らしを始めたはいいが、仕事がなかなか見つからない。並の若い男の倍は働いてやる自信はあるというのに。とりあえず蓄えはあるのでしばらくはもつだろうが、とても幸先の良いスタートとは呼べない状態だった。
「まあ、しゃあねえか」
 優香は気持ちを切り替え、顔を上げた。借りた安アパートは町の外れにある。町中から家のある方へ進むにしたがって車も人もどんどん減っていく。最後には、転々と建つ薄暗い街灯に照らされた道路を歩いているのは優香一人になっていた。
「こりゃ最低でもチャリは買っておいた方がいいな。免許は金かかるし、どうすっかなあ」
 ぶつくさ言いながらしばらく歩いていると、ふと明かりの向こうに、一人の少女の姿が見えた。そのショートカットの少女は俯きながらフラフラとこちら側へ歩いてくる。優香はわざわざ道の右側に寄ったが、しかし少女は顔を上げぬままフラフラと歩き続け、吸い寄せられるように優香の胸にぶつかった。
「オイ、ちゃんと前見て歩けよ」
 体格の良い優香であるから華奢な少女にぶつかられたくらいでどうという事はないが、とはいえ良い気分はしない。ドスを効かせてそう言うと、少女は顔を上げて優香の顔をぼんやりと見つめ、
「お、おいっ」
 気を失い、優香にもたれかかってきた。優香は慌てて抱き止め少女の体を揺り動かしたが、少女は目を閉じたままだった。

「んん……」
 背後で小さく呻く声がして、優香は後ろを振り返った。
「よう。目が覚めたか」
 少女が布団から半身を起こしているのを目で確認すると、再び視線を前に戻す。フライパンの中の肉野菜炒めを大皿に移し、ご飯を茶碗に盛ってちゃぶ台の上に並べる。
 夕食の支度を終えると、いまだぼーっとしている少女の傍らにしゃがみこんで顔を覗き込む。
「急に倒れやがって、びっくりさせんなよ。とりあえず家まで連れてきたけどさ。どこか痛いんなら救急車呼ぶぜ」
 優香の問い掛けに、少女は無言でふるふると首を横に振る。
「もう暗くなっちまったけど、帰るなら送ってってやるぜ。まあ、晩飯済ました後だけどさ」
「行くとこ、あらへん」
「関西弁? 行くとこないって、どういう」
 そこまで言い掛けた所で、キュルルル〜と妙な音が響いた。
「お前もしかして、腹減ってる?」
 少女は自分のお腹を押さえて、コクンと頷いた。
「大したもんじゃなくてよければ、一緒に食うか」
 優香がちゃぶ台を指差すと、少女はまたコクンと頷いた。

 誰かを招くなど全く考えていなかった為、食器は1つずつしかない。仕方がないので茶碗は少女に渡し、自分のご飯は丼に盛った。割り箸を渡し、お碗が一つしかない為自分のインスタント味噌汁はカップに入れた。
「……うまい」
 野菜炒めを口に入れると、少女はボソッと呟いた。
「そうか」
 適当に切って炒めただけとはいえ、そう言われるのは悪い気はしない。しかし。
「なんや、男の料理って感じがする」
 次の一言に優香は思わず眉を顰めた。
「ウチ、なんかマズイ事言うたかな」
「別に。慣れてっから」
 仏頂面で丼飯をかきこむ優香に、少女は不思議そうな顔をすると、いきなり手を伸ばして優香の胸を突っついた。
「うわっ、な、何すんだっ」
「……ごめん。女やったんやな」
 予想外の弾力を感じた指先を見つめてから、少女はペコンと頭を下げた。
「いいって。慣れてるって言ったろ。いいから早く食えよ。片付かねえ」
「……うん」
 そして二人は食事を再開した。

 いまだぼーっとしている少女があまりにゆっくり食べる為、分量は圧倒的に自分の方が多いのに先に食べ終わってしまった優香は、自分の食器だけ先に下げる。カップだけはすぐに洗い、お湯を沸かしてお茶を淹れた。
「なあ」
 再び少女の向かいに腰を下ろすと、お茶を一口啜ってから話し掛ける。
「行くとこないって言ってたけど、家出か? つまらねえ意地なんて張ってないで、帰った方がいいぜ。親いるんだろ」
「……おらへん」
「あ?」
「親なんておらへん。ウチは一人や。ずっと」
 箸を置いて、少女は黙り込んでしまった。
「……わりぃ」
 優香が謝ると、少女はフルフルと首を横に振った。
「けどよ。じゃあこれからどうするつもりだったんだよ」
「行かなあかんとこがあったような気がする。けど……それがどこか、思い出されへん」
「まさか、記憶喪失ってヤツか」
 優香は思わず頭を掻いた。とんだ拾い物をしてしまった。
「なあ」
 少女が顔を上げて、優香の顔をじっと見つめた。
「今日初めて会った人にこんな事を頼むの、自分でもおかしいって思う。せやけど、他に頼れる人もおらんし。……お願いや。ウチが何か思い出すまで、ここに置いてもらえへんやろか」
「はあ?」
 これは本格的に厄介な事になってきた。
「なんでオレがそこまでしなきゃなんねえんだよ。それに見りゃわかんだろ。オレは一人で生きていくのに精一杯なんだよ。余計な荷物を背負い込む余裕なんてねえんだよ」
「……そか。当たり前やんな。あんたと一緒におったら、なんか思い出せそうな気がしたんやけど……。ゴメン、変なこと言うて。これ食べたら出ていくわ」
 少女はシュンとなって、また野菜炒めに箸をつけた。
「……出てくって、どこに行く気だよ」
 放っておけばいいのに、優香は気になって少女に尋ねてしまう。
「……さあ。わからへん。とりあえず今晩は、寝れそうな屋根のあるとこでも探すわ」
「バ、バカじゃねえのか。このクソ寒いのに外でなんか寝たら、死んじまうぞ」
「せやかて、行くとこあらへんもん。仕方ないやんか」
 少女は諦めきった表情で、そう呟いた。もうすぐ4月とはいえ、北国の夜はまだ寒い。こんな夜に外で一晩過ごすなんて正気の沙汰ではない。朝には冷たくなっているのがオチだ。
「わーったよ。一晩だけ泊めてやる。朝になったら出てけよ」
「……ええの?」
「一晩くらいならどうって事ねえよ。明日の朝、近所で死体が上がったなんていう話を聞かされる方が寝覚めが悪いからな。その代わり、布団はそれ1組しかねえんだ。我慢しろよ」
「……ありがとう。優しいんやね、あんた」
「ふん……」
 人に礼を言われる事などほとんどなかった為、照れ臭くなって優香は鼻を鳴らして顔を背けた。
「そや。ウチ、まだあんたの名前聞いてへんかったわ。ウチは……えと……唯。そう、成瀬唯や。あんたは?」
「……朝比奈」
「あさひな……下は?」
「優香だよ。朝比奈優香」
 あまり名前には触れて欲しくなかったので、優香は早口に吐き捨てた。それなのに。
「……プッ。見た目と違うて、かわいい名前やな」
「うるせえな」
 むくれる優香。だから言いたくなかったのだ。
「なあ、どういう字を書くの」
「うるせえな。もういいだろ」
「知りたいの。なあ、教えてや」
「……『優しい』『香り』だよっ」
 どうせまた似合わないと言うのだろう。そう思い、言い捨ててから顔を背けた優香だが。
「あんたにピッタリや」
「あ?」
「ぶっきらぼうやけど、ホンマはすんごい優しいし。さっきここまで運んでくれてる時、なんか落ち着くええ香りがしててん、あんたの背中」
「……もう、いいから早く食えよ。片付かねえだろっ」
 生まれて初めて名前を褒められ、優香は畳に横になって背を向けた。その耳が赤くなっているのに気づいた唯の口元に笑みがこぼれた。


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