一晩だけのはずが、唯が優香の家に居ついてから結局一週間が経とうとしていた。行く所のないという唯をこの寒空の下に放り出すなど出来る優香ではなかった。唯もただ甘えるだけでなく、家事など自分でやれる事は率先して行った。唯の財布にどういう訳か5万円も入っていた事も、片方に寄りかかり過ぎず対等な関係を築くという意味では大きかったのかもしれない。
 唯の記憶を取り戻すという名目で、日中は二人で街中を歩き回った。性格的には似ている所の少ないで二人だったが、孤独という境遇が共感を呼んだのか、不思議と気があった。いつしかお互いに、初めての友人と呼べる存在になっていた。これから先の事を考えると不安のよぎる優香ではあったが、今はこうして二人でいる事の方が大事な気がしていた。

「フッ……フッ……」
 規則正しい息遣いが聞こえる。夕食後、優香は日課の筋トレをしていた。その隣で、唯がなんとなく柔軟をしている。180度足を開き、上半身をベタッと床にくっつける。
「お前、ほんと体柔らかいのな。何かやってたのか。新体操とか。」
 腹筋を続けながら優香が尋ねる。
「さあ。覚えてへんけど。でも、新体操なんてウチの柄やないって。そういうあんたこそ毎日筋トレしてるけど、なんか目指してるもんでもあんの?」
「別に。ただ、いざって時に頼れるのは自分の体だけだからさ。鍛えておいて損は無いだろ」
「ふ〜ん。体もおっきいんやし、せっかくやからその体を活かす仕事でもしたらええんちゃう? 例えば、そうやな……プロレスラーとか」
「プロレスねえ。面白いかもしんねえな」
 唯の言葉を雑談の一部として軽く流しつつ、優香は別の話題を振ってみた。
「そういえばさ。明日、隣町で祭りがあるらしいぜ。今年はサーカスを呼んでパーッとやるんだとよ。なんか、すごいゲストも来るんだとか。行ってみようぜ」
 軽い気持ちで誘った優香だが、唯が表情を曇らせたのに気づいて戸惑った。
「お、おい。なんかマズイ事言ったか、オレ」
「サーカス……」
「嫌ならいいんだぜ、別に。うん、やめとくか」
 慌てて取り繕った優香だが、その袖を唯がキュッと掴んだ。
「……ううん。ウチ、行きたい。行かなあかんような気がする」
「何か思い出しそうなのか」
「うん……まだはっきりせえへんけど。そこに行けば、サーカスを見ればなんか思い出すかもしれへん」
「そっか。じゃあ、行ってみるか。さてと。汗掻いたし、風呂入ってくるわ」
「ウチも一緒に入るわ。背中流したげる」
「バカ、そういう冗談はやめろって」
「ええやん、女同士なんやし。何恥ずかしがってんの」
「うるせえ、オレは一人で入るのが好きなんだよ。だいたいあんな狭い風呂にどうやって二人で入んだよ」
「くっつきあえば入れるって」
「いい加減にしろっての」
 優香は小さな衣装ケースをかき回すと着替えとタオルを引っ張り出し、肩を怒らせてユニットバスの扉の中に消えていった。唯はクスクス笑いながら、乱れた衣装ケースの中身を整頓し始めた。

 翌日。二人は隣町へ出掛けた。隣町といっても歩いていける距離ではなく、駅まで出て電車で3駅。地方の一駅は都会と違い、かなりの移動距離となる。電車の中ではしゃぐ唯を見ていると、優香も心が弾んできた。
「ほえ〜。すごいねぇ」
「あ、ああ」
 電車を下りて駅を出ると、二人は人の多さに圧倒された。思った以上に大規模なお祭りだったようで、近隣の町からもかなりの人が集まっているらしい。駅前の歓迎の立て札と、色とりどりの提灯がいやが上にも期待を掻き立てる。
「おっ、出店や。なあ、たこ焼き買お、たこ焼き」
「わかったから引っ張るなって」
「あん、早う行こ。あ、あっちにお好み焼きもあるで。って、なんで広島風やねん。大阪風はどこやー」
「待て、一人で行くなっつーの」
 二人は片っ端から屋台を覗き、これ以上ないほど祭りを満喫した。優香自身、お祭りの記憶など小学校に上がる前の両親が生きていた頃まで遡らなければならなかった。
「あ〜、楽しかった〜。お祭りってこんなに楽しいもんやったんやな」
 一通り屋台を回り終えた二人は、今はサーカス待ちの列に並んでいる。上機嫌の唯が、りんご飴を頬張りながら満面の笑みを浮かべて言った。頭には子供向けアニメのキャラクターのお面が乗っていた。いったい幾つだよ、とツッコミたくなったが、わざわざ機嫌を損ねる事もないので優香は黙っていた。
「お祭りなんて、よその子が騒いでんのを遠目で見てるだけやったしな、ウチ」
「何か思い出したのか」
「えっ。ウチ、今なにか言うたっけ」
「おいおい」
 はっきりとした自覚はないようだが、確実に何かを思い出しかけているようだ。優香はせっつくのはやめて、正面に広がる大きなテントを見た。このサーカスを見れば、記憶が戻るかもしれない。その時、唯は……。
 なんだか鼻の付け根がツンとして、優香はキュッと指で摘まんだ。

『元天才子役、空中ブランコに挑戦!』
 そんな煽りが書いてあるチラシを、二人顔を寄せ合って見る。
「えらい別嬪やなぁ。金髪やし。ハーフやろか」
「さあ。そういや昔テレビで見た事があるような気もするな」
 そうこうしている間に会場内の照明が全て消え、次の瞬間ステージにスポットライトが集中した。今回メインの空中ブランコを担当するという美しい少女が一列に並んだキャストの中央に立ち、優雅に礼をする。まるで映画の中から飛び出してきたようだ。あれで自分と同じ年だというのだから、神様ってヤツは不公平だ。優香はそんな事をぼんやりと考えていた。
 いよいよ開演し、客席の視線はステージに集中する。しかし優香だけは集中できずにいた。隣に座る唯が気になって仕方がなかったのだ。猛獣使いの振るう鞭の音や投げナイフがボードに突き刺さる音に気の毒になるほど怯えて優香の手をギュッと握り締めてくるかと思えば、ピエロが始めたジャグリングに誘われるように、スーパーボールすくいで貰ったいくつかのスーパーボールを小さく器用にジャグリングして見せた。
 そしてステージは最後の演目を迎える。例の金髪の少女がまるで羽衣を纏っているかの様にブランコからブランコへ宙を舞う姿を、唯はうっとりとした表情で見つめていた。その横顔は、優香にはステージ上の少女に負けないくらいに、美しく神秘的に感じられた。

「ああ〜。すごいキレイやったなぁ。ウチもあんな風に、ステージを飛び回れたらなぁ」
 両手を胸の前で組んで、唯はとろけた表情で呟く。
「なあ、唯」
「ん、なに?」
 少し後ろを歩いていた優香の声に振り向く唯。
「お前、昔サーカスにいた事あるんじゃねえか」
「ウチが? サーカスに? なんで?」
「だって、お前……」
 唯は公演中の自分の行動を、全く覚えていないようだった。優香は頬を掻くと、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、なんとなくだよ。わりぃ、オレちょっとトイレ行ってくるわ。この辺で待っててくれ」
「うん」
 そう言うと、優香は簡易トイレの方角へ歩いていった。しかし公演直後という事もあり、ここからでも見て分かるほどトイレの前は長蛇の列が出来ている。これはしばらく時間がかかりそうだと、唯は少しテントの周りをぶらついてみる事にした。無意識に、ポケットの中から引っ張り出したスーパーボールをいくつも宙に放り投げながら。

「貴方もしつこい人ですね。どうして私が……」
「私にはわかる。君はリングの上こそが一番輝ける場所であるはずなんだ」
 ふと、テントの裏手から話し声がするのに気づいた。唯はなぜかそれが気にかかり、足を止めた。
「ご心配は無用です。私はどこにいても輝いてしまう。それはスターの宿命」
 物陰からそっと覗き込むと、先ほどステージ上を軽やかに舞っていた金髪の少女と、スーツを着た30後半くらいの男性が何事か話していた。男性は必死に何かを訴えているようだが、少女はステージを下りているにもかかわらずオーバーアクションでそれを軽くいなしている。
「そもそも貴方の団体は、この私にふさわしいステージであると言えるのですか?」
「そ、それは……」
「今日こちらへ出演したのは、私の劇団の座長とこちらの団長が懇意にしており、是非にと頭を下げられたから。本来の私は、こんなステージで収まる器ではないのです。それは、貴方の団体とて同じ。この日本でトップであると聞く新女ならまだしも、地方の小さな会場を巡業している貴方の団体が、本当にこの私を輝かせる事ができるとでも?」
 少女の物言いに、なぜだか唯はだんだん腹が立ち始めた。
「立場というものがお分かりいただけたでしょう。では、失礼」
 少女が形だけうやうやしく礼をして、立ち去ろうとしたその時。
「ちょっと待ちぃや」
 唯は思わず物陰から飛び出してしまった。
「っ!? き、君はっ」
 男性が驚きに目を見張る。しかし少女は何を勘違いしたのか、にこやかに笑みを浮かべて唯に近寄ってきた。
「ああ、私のバンビーノ。こんな所にまで迷い込んでしまうほど、私を求めていたのかい。いけない子ウサギだ。けれどその熱意に免じて、一つ願いを聞いてあげよう。なんだい。サインかい。それとも握手かな?」
 どうやら自分のファンと勘違いしたらしく、唯の前にしなやかな右手を差し出す。その洗練された動きに思わず応じてしまいそうになったが、気を取り直すと差し出されたその手をパンとはたいた。
「おっと」
 唯の反応に驚いたのか、少女ははたかれた右手を左手で軽く握る。
「別にあんたのファンとちゃうわ」
「ほう。では何の用かな」
「なんや、さっきから聞いてたら、好き勝手な事をぐちゃぐちゃと。あんた、何様のつもりや」
「フッ。何様もなにも。今日のステージを見て、私がスターであるという事はキミが一番良くわかっているのではないのかな。今日7列目に座っていたバンビーノ」
「なっ?」
 唯は思わず言葉に詰まった。あの薄暗いテントの中にいた観客の顔を覚えているというのか。
「どうして、なんて野暮な事は聞かなくていいよ。私に向けられたキミの熱い視線に気付かないほど私は罪人ではないからね。ただ、残念だけれど私はキミだけの物にはなれないんだ。私は全てのバンビーノ達の恋人であるのだから」
 なんだか頭が痛くなってきた。唯は頭を振って、正面の少女を睨みすえる。
「ウチが言いたいんはそんな事ちゃうわっ。なんでそこのおっちゃんの話、ちゃんと聞いたげへんのや」
「おっちゃん……」
 唯におっちゃん呼ばわりされて、男性は肩を落とした。
「それはそちらの男性に先ほど説明した通りだよ。私はスター。スターにはふさわしいステージが必要なのさ。まあ、キミのようなバンビーノと出会う為に、たまにはこういう小さなステージに上がってみるのも悪くはないけれど」
 そう言って爽やかに笑う少女。しかし。
「ハッ。ちっさいスターやなぁ」
「……なんだって」
 唯がその言葉を笑い飛ばすと、少女の整った眉が初めて顰められた。
「だってそうやろ。結局あんた、おっきい会場用意してもらわんとあかんのやんか。おっちゃんの団体を自分でおっきくしたる、くらいのこと言えへんで何がスターや。ヘソで茶が沸くわ」
「な、なんて無礼なっ」
「ほんまの事やんか。ええか。そこのおっちゃんは、最初は駐車場に何百人かしか集まれへんような人気のない団体を、新女のエースに勝つような選手が出てくるくらいにまでおっきくした人なんやで。見えへんけど。それに比べたら、用意されたステージの中でスターを気取ってるあんたなんか、井の中の蛙もええとこや。カエルやカエル。カエルスターや」
「クッ。こんな屈辱を味わったのは生まれて初めてだ。社長。この少女は貴方の知り合いなのですか。口の利き方を躾け直すべきだ」
「あ、いや、あの」
 社長といわれたスーツの男性は、急に話を振られて口ごもった。
「まったく、不愉快だ。失礼するっ」
 美しい顔を怒りに歪ませ、少女は唯に背を向けた。
「なんや、逃げるんか」
「逃げる、だって」
 しかし、唯の挑発に少女は振り向いてしまう。
「そうやろ。結局自信がないんや。おっちゃんの団体を世界一にしたる、っていう自信がな」
「フン。この私にかかればその程度造作もないさ。けれど、あいにく私は忙しい身でね。小さなステージに関わっている余裕はないんだ」
「早速言い訳かいな」
「言い訳などではないっ」
「ま、別にええけど。スターさんはそら忙しいみたいやからなぁ。けど、一つ教えたるで。プロレスの世界ってのは、キレイなだけではスターにはなられへん。強さと観客を魅了する力、両方を兼ね備えてこそのスターなんや。あんたにそれが出来んのかな」
「出来るとも。この私に出来ない事などありはしない」
 売り言葉に買い言葉。挑発に乗ってきた少女を見て、唯はニヤリと笑った。
「へえ〜。ほな、やって見せてや」
「いいだろう。やって見せようじゃないか。だが、今すぐには無理だ。先程も言ったように、私は忙しい身だからね」
「ふ〜ん。ならええわ、楽しみに待っといたるわ。ちゃんと約束守ってや。スターさん」
「フン。では失礼するっ」
 唯に背を向け、颯爽とその場を立ち去る美しい少女。その背中に唯が声を掛ける。
「あ、もう一つ教えたげるわ。この世界入るんやったら早い方がええで。16でも遅いくらいやからな」
 今度は振り返らず、少女はテントの中に姿を消した。その場には唯と、スーツの男性だけが残された。
「あの」
「うわーっ、やってもうたーっ」
 男性が唯に話しかけたのと、唯が頭を抱えて大声を上げたのはほぼ同時だった。
「ゴメン、おっちゃん。なんやわからんけど、あの子の話聞いてたらウチついカチンときてもうて」
「いや、それはいいんだが」
「ほんまゴメンな。なんでウチこんな、見ず知らずのおっちゃんの話に首突っ込んでもうたんやろ。しかも勢いで言うてもうたから、自分が何言うたかよう覚えてないわ」
「み、見ず知らずって」
「ん?」
 唯はキョトンとして、その男性を見つめた。
「あの……君の名前を、教えてくれるかい」
「ウチ? 成瀬唯やけど」
「成瀬君……本当に、成瀬君なんだね」
「う、うん……え、なんでおっちゃん、ウチの名前、うわっ」
 唯が尋ねるより早く、その体は男性に抱き締められていた。
「な、なんやの」
「良かった。本当に無事で良かった」
 突然抱き締められて戸惑いながらも、唯はそのぬくもりに不思議な懐かしさを感じ、抗う事が出来ずされるがままになっていた。


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