「な……にするんだよ、ポップ! いきなり殴るなんて酷いじゃないか!!」
「酷いのはてめぇだ、バッカヤロー! おめぇ……おめぇがっ」
怒りのせいなのか、恥ずかしさの為なのか。ポップは赤い顔をさらに赤く染め、身体を震わせた。しゃがみこみ、殴られた箇所を必死で擦る相手をきつく睨みつける。あまりの事に上擦りそうになる声を必死に抑え、言葉を続けた。
「お、お前がおれに……あんな事、すっから……」
ダイは投げかけられた言葉を反芻し、暫くして行き着いた答えに身を強張らせた。瞳が大きく揺らぎ、今にも泣き出しそうな表情になる。みるみる変わってゆく相手の表情に、ポップは慌てた。
「だっ、わ……違う! そーじゃなくて……や、そーなんだけどっ。ちょっとタンマ……お、落ち着けっ」
両手を動かして、涙を浮かべる相手を宥めようと言葉を取り繕う。が、急に身体を動かした為、鋭い痛みがポップの身を襲い、軽く呻いて地面に両手をついた。今度はダイが慌てる番となる。
「ぽ、ポップっ。無理しちゃ駄目だよ!」
「っつ、誰のせいだと……あーまぁいい」
自分の身体を助け起こそうとするダイの頭を引き寄せ、ポップは掌で軽く叩いた。その行為に驚き、身体を硬直させた相手に笑いかける。
「もう怒ってねぇよ……辛いし、痛かったけど男だし。どーってことねぇよ……ただ――」
ポップの体温が上昇する。頬が熱くなるのを自覚し、ダイの顔を直視出来ず、僅かに視線を逸らした。
「ただ、なんでか気になって……」
沈黙が続く。数秒後、耐え切れなくなったポップは、ダイの顔を窺うよう、視線だけを動かした。俯いた相手は微動だにせず、地面を見詰めている。その表情は、実年齢よりも大人びて見えた。
「………分からない」
長い沈黙の後、ダイは一言小さく呟いた。瞬間、ポップの心から何かが抜けてゆく。それは不確かなもので、ポップ自身ですら、その何かを掴めなかった。落胆……その言葉が一番近いかもしれない。けれども、何に対しての落胆なのか、その時のポップには見当も付かなかった。
「……な、なんだ。分かんねぇのかよ……なーんだ、そうか」
不意に笑いが込み上げて来る。衝動のままに笑えば、喉から出てくるのは乾いた笑い声で……なんとなく、今の表情をダイに見られたくなくて、ポップは腕で自分の顔を覆った。
「分からない……ねぇ。こりゃ可笑しいぜ。ははっ、おれぁてっきり嫌われてたんかと――」
「嫌ってなんかない!」
相手の激しい否定に、ポップの笑い声が止まった。顔を隠していた腕を捕られ、覗き込まれる。至近距離の強い眼差しに、ポップは息をする事を忘れて見入った。
「嫌いじゃない……」
そう囁いた唇が近づいてくる。キスされる……反射的にそう思ったポップは身を硬くする。けれども、何時までたっても予想した感触は訪れなかった。ダイの口から吐き出される息が熱い。
「き……嫌いじゃない、なら……」
上擦った声が弱々しく喉からついて出た。続く言葉がどうしても言えず、ポップは一旦口を噤んだ。小さな音をたてて、喉が上下する。
ダイの真剣な眼差しが、無言で続きを促しているように見えて、ポップの心を騒がせた。
恥ずかしさを無理矢理押さえつけ、震えそうになる唇を動かす。
「なら……好き、なのか?」
我ながら、なんて傲慢なのだろう……と、笑いたくなる。『嫌い』ではないのなら『好き』だなんて、まるでガキの言い分ではないか。それでもポップは聞きたかった。ダイの本心を……確かめられずにはいられなかった。
ダイは力なく頭を振る。
「分からないよ……こんな気持ち、初めてで……」
相手の体が離れ、僅かな距離を作る。先ほどまでの強い輝きを放っていた瞳は、すっかりとなりを潜め、弱々しく揺らいでいた。
「ゴメちゃんやじぃちゃん……マァムにだって感じた事ない気持ちなんだよ」
「――姫さん……レオナは?」
「レオナは……」
ダイの瞳が忙しなく動く。本人なりに一生懸命考え、答えをだそうとしているようだった。反射的に尋ねてしまったものの、馬鹿な質問をしてしまったと、今更ながらに後悔したポップは、相手を固定していた視線を心持ち下げる。
「レオナは……似てる、かもしれない……でも、何か違うんだ」
ダイが身を動かした。気付いたポップが顔を上げると、己の掌を見つめている相手の姿が視界に映る。
「ポップもレオナも……好きだから、傷つけたくないんだっ。でもっ……おれは! ポップを傷つけてしまった!!」
まるで、血を吐きだすかのように放たれた叫び。両の拳を握り締め、激情を堪えるように唇を噛み締める。
ポップは無言で、その姿を見つめていた。その実、胸中では嵐のような感情が渦巻いている。どう言葉で表せばいいのか分からない。ただ、今までダイに対して感じたことのない気持ちが、そこに存在した。
「なぁ、ダイ……」
ポップの口から出た声は、自分でも驚くほどの柔らかさを伴っていた。ダイの体が微かに震える。
「おれだから、あんな事したのか? ……レオナじゃなくて?」
顔を上げたダイの瞳から、涙が一粒零れる。彼は小さく頷いた。
「レオナには……考えた事、ない。それは今も……変わらないよ。でも、ポップを傷つけたいわけじゃない――」
「ダイ」
ポップは腕を伸ばして、ダイの握り締めた拳に触れた。驚き、目を大きく見開いた相手に笑いかける。
「おれは、傷ついてねぇよ」
「う……嘘だ! あ、あんなに血がいっぱいで、お前凄く痛そうだったし、それに……それに、お前は怯えていたじゃないかっ」
首を振り、激しく否定するダイの姿を見て、ポップは胸に小さな痛みを覚える。確かに、あの時ダイに恐怖した。それは彼の本心が見えていなかったから……相手の拳ごと、掌で包み込み、ポップは緩く首を振る。
「あれは……おめぇの気持ちが分からなかったからだ。嫌いなのか、傷つける事が目的でされたのか。おれには理解出来なかった」
けれども、今なら理解出来る。今度は自分が確かめる番だ。
「……なら、確かめてみりゃあいい。おれが傷ついていない事を」
自分の中にある、言葉にならない感情を。ダイがゆっくりと顔を上げる。濡れた瞳が美しくもあり、痛ましくもあった。
「自分が持て余してる気持ちに、ケリつけてみろよ」
名前をつけてやればいい。ポップは首を伸ばして、ダイの目元に口付けた。目尻に浮かぶ涙をすすると、口の中にしょっぱさが広がる。顔を離すと茹蛸のように真っ赤になった相手と目があった。我ながら、顔に似合わない事をしたという気恥ずかしさから、ポップは笑って見せた。
「塩いらず、だな」
「……なんだよ、それ」
涙の跡が濃く残る顔で、ダイが笑顔を浮かべる。厚い雲に覆われていた太陽が、顔を覗かせたような、久しぶりに見たような錯覚を起こす、そんな笑みだった。
「よっしゃ! 善は急げ、だ」
ポップは気持ちを切り替え、履いているズボンに手をかけると、一気に膝上まで下ろした。いきなりの行動に、ダイが面食らったような表情を浮かべる。数秒後、我に返った相手が顔を真っ赤にして毛布を引き寄せ、ポップの膝へ慌ててかけた。
「な、ななな……ポップ! ちょ、どうしたんだよ!?」
「お、周到だな。その毛布は地面に敷いてくれ。ゴツゴツして痛いんだよな」
「そうじゃなくてっ……なんでズボン脱ぐんだよ!」
ポップの姿を直視出来ないのか、ダイは顔ごと明後日に方向を向ける。ズボンを脱ぎ去り、適当に投げ捨てたポップは、仕方なく自分で毛布を地面に敷き、その上に座した。
「脱がなきゃ、出来ねぇだろ。……何をとか、言うなよ?」
恥ずかしくなる気持ちを押さえつけ、目を逸らすダイを軽く睨みつけた。頬の火照りは止められそうもない。
「だ、だから……おれはポップにもう、酷い事は」
「自分の気持ち、確かめたくねぇのかよ」
ポップはダイの頬を両手で捉え、強引に自分の方へと向ける。顔を真っ赤にした相手は、それでも視線だけはポップを見ないようしていた。
「ここでやめちまったら……自覚して、お前がいざ事に及ぼうとしても……おれは、逃げるからな。絶対!」
「ポップ……」
ダイが恐る恐る視線を向けてくる。ポップはにやり、と笑ってみせた。
「このままじゃ、何も始まらねぇぞ? お前も……おれも」
「………い、いいの?」
答える代わりに相手を抱き寄せ、鼻先が触れそうなほど顔を近づけてやる。そっと目を閉じると、唇に柔らかなものがふわり、と降りてきた。
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