注意) 野外エッチ/女装エッチ(女物浴衣)/いちゃいちゃ
「んっ……、直輝、くん、ダメだよ……っ、こんなトコじゃ、人、来ちゃう……っ。」
首筋に与えられるキスの甘い快感に震えながら、僕はそれでもそう一生懸命直輝くんに訴える。だけど、直輝くんは僕の言葉なんて聞く気はないのか、それとも僕が焦っているのを楽しんでいるのか、くすくすと僕の耳元で笑いながらも僕の首筋や体に与える愛撫を辞めるつもりはないみたいだった。
そんな直輝くんの意地悪に僕は戸惑いながらも、でも、直輝くんにキスされたり触られたりするのはやっぱり心地よくて、どうしても僕の言葉は弱いものになってしまう。
だけど幾ら人気がない神社だっていっても、そんなの絶対なんて確証はない。しかも今日は普通の日ではなくって、一年に一度の花火大会だ。そんな日だからこそ、ひょっとしたら人が来るかもしれないのに……。
「ね、ダメ、だよ……っ。」
もう一度そう直輝くんに止めるようにお願いする。
でもそんな事をいいながら僕の体は、僕の意思とは裏腹に直輝くんの愛撫に震え、弛緩していく。
それは、ひょっとしたら人が来てこんなはしたない姿を見られてしまうかもしれないという緊張感と不安によっていつも以上に動悸が激しくなっているからだ。
そんなだらしない僕の体だけど直輝くんにしてみれば、だからこそきっと扱い易いんだろう。
直輝くんは僕の制止の言葉なんて無視して、勝手に僕の体をその肉厚の手のひらで浴衣の上から少し乱暴に、だけど、丁寧に触っていく。
「っ、ぅん……っ、直輝、く……っっつ。」
浴衣の上から胸を強く弄られ、つめ物越しとは言え思わず甘い声が漏れる。
その事にハッとし、恥ずかしさから慌てて口を手で押さえると、直輝くんの手がそれを剥がした。
「声、出せって。」
しかもそんな無茶なことまで言い始める。
僕はそんな直輝くんの無茶ブリにいい加減慣れたつもりだったけど、家でシてる時なら兎も角、流石にこの状況でそれを受け入れるわけには行かず、精一杯の勇気を振り絞って口を開く。
「……っ、ね、スるんだったら、家、帰ろうよぉ……。こんな所でスるのやっぱりマズいよ……。それに花火始まっちゃうよ……? エッチしてたら花火見れないし、この浴衣だって借り物だから、汚す訳にはいかないし……。」
目の前で僕を悪戯っぽい瞳で見つめている直輝くんの顔を見返しながら、僕はそう精一杯訴える。
すると直輝くんの瞳がスゥーッと細くなった。
普段は眠そうに垂れている瞳なのに、こんな風になった直輝くんの目はちょっと、うぅん、結構怖い。何と言うか有無を言わさない迫力があるし、いつも以上に暴力的な雰囲気になる。
過去に色々と暴力的な事をされて生きてきた僕には、この直輝くんの瞳は、本当に体が固まってしまうくらい怖い。
例え直輝くんが僕自身に手を上げる事はないって、直輝くんの言動から嫌になるくらい解ってても、それでもその暴力的な雰囲気に僕の身についている恐怖が僕の体を勝手に竦みあがらせるのだ。
「な、直輝、くん……?」
思わず震えた声が漏れる。それをしまったと思っても、もう遅い。
直輝くんの瞳の中に一つ、また、ある種暴力的な色が浮かぶ。
直輝くん自身は気がついてないのかもしれないんだけど、直輝くんは多分サドなんだと思う。僕は、僕自身こんな風におどおどしてるし、無理矢理されたりするのを受け入れて生きてたせいか認めたくないけど、多分性癖としてはマゾ……なんだろう。だからか、直輝くんは僕のこのおどおどした態度とか口調とかで、時折こうして酷く暴力的な雰囲気で僕を呑んでしまう事が多い。
……そりゃ、そういう時の直輝くんはまたいつも以上にワイルドで男らしくて凄くて、僕は尚更直輝くんの事、好きになっちゃったりするんだけど……。って、別に惚気たい訳じゃなくて……っ!
そうじゃなくて、こんな状況で、直輝くんのサド心に火が点いたりしたらきっと大変な事になっちゃう。
それだけは、なんとかしないと……!
そう思ってはいても、実際僕に何かできる訳はない。
自分でも情けないけど僕は本当に非力だし、しかも相手は一度はプロにまでなりかけた元ボクサーで、最近の趣味はもっぱら体を鍛えるって人で。元は結構な不良だったって話も聞いたことあるし。
最近では結構対等に話もできるようになってるし、普通の時なら言い返したりもしてるし、おどおどすることもなくなってきてるけど、それでもやっぱりこんな風に直輝くんが暴力的な雰囲気を出している時に、僕は強く言い返したりなかなかできない。
直輝くんを見つめ返しながらも、おろおろしていると直輝くんはそんな僕を見て、またニヤリと不敵に笑う。
「安心しろって。ここは、穴場中の穴場だ。花火はセックスしてても見れるって。……それに、その浴衣、マスターと奥さんはお前へのプレゼントって言ってたから汚しても構わないみたいだぜ?」
喉を低く震わせながら意地悪に笑い、さっき僕が言った言葉の全てを直輝くんに都合のいいように言い返されてしまう。
そんな直輝くんに僕は、もうどう言い返して言いか解らず口を開けたり閉めたりするしか出来なかった。
しかも。
「……それとも蒼衣、俺とスんの嫌なのか?」
そんな言葉を耳に囁かれたら僕はどうしたらいいんだろう。
直輝くんとエッチするのが嫌な訳がない。しかも、ここ三日ばかり互いに忙しくて会えなかったし、エッチ自体もちょっとだけ久々だし。だけど……外でスるのは、恥ずかしいし。人が来ないって言っても、こんなイベントの時に誰も来ない、なんて保障絶対なんてなし……。でも、直輝くんとエッチするの久しぶりだし……。エッチはしたいし……。あうぅ……。
悶々とする体と、外でスるという抵抗感に僕の頭の中がグルグルとする。
そんな風に悶々と悩みながら、僕はどうしてこんな事に、と今更ながらに直輝くんとこんな人の来ない古い神社の裏手に来てしまったのかを思い起こしていた。
今日は、僕達の住む街では毎年恒例の花火大会の日だった。
沿岸部で開かれるこの花火大会は毎年多くの人で賑わい、会場の近辺は屋台などがたくさん出店する。
この街に引っ越してきてから去年までの僕は、特に一緒に行く相手もいなかったから別段行きたいとも思わず、毎年今お世話になっているバイト先「Aube de cafe」で終日バイトに費やしていた。
だけど、今年はひょんな事で知り合った直輝くんと行く事になってしまって。まさか直輝くんが誘ってくれるとは思ってなかっただけに、このお誘いは僕にとって凄く青天の霹靂で。凄く凄く嬉しくて。なんとしてでも行きたくて。
だからバイト先には行く事が決まった翌日にマスターにお願いして早上がり出来るようにシフトを組んで貰ったり、色々と無理を言ってしまった。
そんな迷惑な事を突然言い出した僕なのに、マスターは僕が友達と出掛ける事を凄く喜んでくれて、なんだか申し訳なく思ってしまう。
そもそもマスターにはお世話になりっぱなしだ。
僕がこの街に引っ越してきた当初、僕の事情を知りつつすんなり雇ってくれたし、今では僕の保護者代わりとまで言ってくれてるし、本当にいい人に雇って貰ったなぁ、知り合ったなぁ、とマスターとの出会いと、マスターを紹介してくれた弁護士さんには感謝せずにはいられない。
まぁ、ただ最近は僕が直輝くんの話をすると、それをネタにしょっちゅうセクハラ紛いの言葉とかでからかわれたりするけど……。
ていうか、なんだってこの店の人達はあれだけ“ただの友達”だって強調して伝えてる直輝くんとの事を、あんな風にからかうんだろう。恥ずかしがる僕がいけないのかもしれないけど、それでも、僕の本心は一切しゃべってないっていうのに……。マスターや奥さんって実はエスパーなんだろうか? 人の心とか本心とかが読めるのかな? ……恐ろしい。迂闊な事が言えないよ……。
そんな事を日々思いながらバイトをこなしていると、恐ろしく早く時は過ぎ、漸く楽しみにしていた花火大会の日を迎えた。
初めて友達、と言うか、好きな人と花火大会に行くって事で僕は、もう頭の中がその事で朝から一杯で。お陰でバイト中ずっとそわそわしまくりながら、なんとか失敗もせず接客をこなし、気がつけば後一時間もしたらバイトが終わる時間になっていた。もう少しで終わる、直輝くんと花火、と思うと余計に落ち着かない気持ちになってしまう。
お客さんが来ている時はそれでも意識を逸らせるのだが、今みたいにちょうど人が切れた時なんて本当に落ち着かなくて、そわそわとしながら何度も壁にかけられているアンティークの柱時計を眺めてしまう。
「――蒼衣ちゃん、嬉しいのは解るが、少し落ち着きなって。」
落ち着きなく店の中を歩き、時計を確認する僕にくすくすと笑いながらマスターがグラスを拭きながらそう声をかけてきた。
その言葉に僕は少し顔を赤らめると、マスターに向き直る。
マスターは手に持ったグラスを顔の前に掲げその曇り具合を確認しながら、そのガラス越しに僕を見ていた。
今時流行らない口髭を蓄えた口元を綻ばせ、細い瞳は更に細く笑みの形に細められている。
「だって、花火に友達と出かけるのって、僕本当初めてで……。落ち着かなくて……。」
恥ずかしいけどそう事実を述べると、マスターはまたくすくすと笑った。
「友達、ねぇ……。いい加減誤魔化すのはよして、早くちゃんと付き合ったらどうだ? 直輝くんの事好きなんだろ?」
「っ、だからっ、直輝くんとはただの友達なんですってばっ……っ!! 僕の好きは、だから、友達としての好きで……他意はないって何度も言ってるじゃないですか……っ!!」
たっぷりとからかいの色を含んだ声と視線でまたマスターは僕をからかう。その声も瞳も本当に楽しそうで。
僕はまた顔を真っ赤にすると、ムダだと解りつつも一応の反論を試みてみる。
だけどマスターは、はいはい、と全く取り合おうとせず、青いねー、だの、可愛いねー、だの好き放題言っていた。
すると、そんな僕達の会話が聞こえたのか、カウンターの奥にある厨房からマスターの奥さんが顔を出してきた。
「アナタ、あまり蒼衣ちゃんからかったらダメでしょ。折角の看板娘にヘソ曲げられて辞められでもしたらどうするの。折角掴んだ蒼衣ちゃん目当ての男性客来なくなっちゃうわよ! そんな事になったらこの店の大きな損害よ! 解ってるの?!」
綺麗な顔を少しだけ困ったように歪めながら一応そうマスターを窘める言葉を最初に発してくれたが、何故か二言目にはもうすっかり僕をからかいの対象としてそんな事を言い始める。
そんな奥さんの言葉に僕はまた薄く顔を赤らめた。看板娘ってなんだよ、とか、僕目当ての客なんて居ないよ、とか反論したいことは山積みだけど、何をどう反論してもこの奥さんにはきっと届かないだろう。
それどころか更にマスターと一緒になって僕をからかうに決まっている。
「おぉと、そうだった。そうだった。この店は蒼衣ちゃん目当ての男性客でもってるからなー。あまりご機嫌損ねないようにしないとな。」
だから反論はせず、顔を赤くしながら俯いていたのだが、奥さんの窘めにマスターは豪快に笑い、更にその言葉尻に乗っかる僕をからかう。
奥さんもマスターもどうしてこう、人をからかう事ばかり言うんだろう、僕目当てじゃなくってマスターのコーヒーと奥さんの料理で持ってるに決まってるのに、と思いながら、だけどそれは口にはせず僕はこれ以上二人にからかわれても堪らないので、補充と掃除してきまーす、と言い残しそそくさとカウンターから離れた。
そしてテーブル席の方へと行くと、バイトの時間が終わるまでテーブルを拭いたり、掃除したり、砂糖や紙ナプキンの補充とかをしたりする事にする。
そんな僕にマスターと奥さんは互いに顔を見合わせると、もう一度くすくすと笑い、奥さんは厨房に、マスターはまたグラス磨きの仕事へと戻っていった。
流石に今日は花火大会だけあって夕方ともなるとお客さんの入りはいつも以上にまばらで。しかも今の時間帯、完全にお客さんはゼロだ。
これは掃除や補充に専念できるなと思いながら、僕が色々と動き回っていると、突然カランと音を立てて店の扉が開いた。
その音に反射的に顔を上げ、僕は笑顔を作ると口を開く。
「いらっしゃいませ〜! お一人様で……。」
そこまで言って入ってきたお客さんが固まっているのに気がつき、そして次の瞬間、そのお客さんが誰か僕も気づいてしまった。
そして僕も体も表情も固まる、と言うか、凍り付いてしまう。
「? どうしたの、蒼衣ちゃん? 知り合い?」
時が止まったように互いの顔を見つめ返している僕達に、マスターが怪訝な声でそう尋ねた。
その声に僕の体の呪縛が解ける。
「あ、あの……。えと……、直輝、くん、どうして……?」
「……あ、いや、バイトが予想以上に早く終わって、で、近くまで来たからさ、その、暇つぶしもかねてお前のバイト先覗いてみようと思って……。」
とりあえずマスターの質問には答えず、目の前に立ち尽くしている直輝くんにもじもじしながらそう尋ねると、直輝くんも非常に困った様子で頭をぼりぼりと掻きながらそんな風に答える。
そして、直輝くんは僕を上から下までもう一度じっくり見た後、少し苦笑した。
「あー……、その、それって、あの日、お前を助けた時にお前が持ってた服だよな?」
「……う、うん……。」
直輝くんにそう指摘され僕は顔を真っ赤にしながら、もう頷くしかなかった。
あの日、と言うのは、僕と直輝くんが初めて出会い、そして僕から無理矢理直輝くんにエッチを求めエッチした日の事だ。その時の事を思い出すと僕は羞恥心に身を焦がす思いで。
そんな僕に直輝くんは更に苦笑を深めると、今度はいつものような笑みを口元に浮かべる。
「どうりであの日からその服見ないと思った。なるほど、この店の制服だったんだな。つか、バイト先でも女装してるってのも凄いな、お前。趣味を極めてるっつーか、行くとこまで行ってるっつーか。」
くつくつと喉を低く震わせながら顔を近づけると、僕にしか聞こえないような声でそう悪戯っぽく言いながら、直輝くんはもう一度僕の服装と顔を上から下までジロジロと眺めた。
直輝くんのその視線が普段、家の中で見られるよりも尚一層僕の羞恥心を煽り、僕は恥ずかしくて俯いてしまう。もう頭のてっぺんから湯気が出そうな位体中の血が沸騰してて、まともに直輝くんの顔が見れない。
と、突然そんな僕達の後ろからマスターの声が振ってきた。
「おいおい。あんまりウチの看板娘を虐めないでくれよ。えーと……察するに、君は、直輝くん、芹沢直輝くん、だよね?」
直輝くんとも勝るとも劣らない悪戯っぽい口調でマスターはそう僕達に声をかける。その声に僕が振り返るとマスターはちょうどカウンターの中から出てきた所だった。
突然自分の名前を言い当てられ直輝くんは、少し驚いたような顔でマスターを見ている。
だが、マスターが僕の隣に来ていつもするように僕の肩を抱くと、直輝くんの表情に剣呑なものが混じった。
そんな直輝くんにマスターはくつりと笑うと、直輝くんに向けて自分の手を差し出す。
「俺はこの店のマスターをしてる、柳内馨(やないかおる)。マスターって呼んでくれ。よろしく。」
相変わらずどこか人を食ったような憎めない笑顔を直輝くんに向けながらマスターはそう自己紹介をする。
だが直輝くんはムッとした顔のままで、ジロリとマスターを一瞥するだけだ。
そんな直輝くんに僕は少し焦り、直輝くんに代わり口を開く。
「あ、あの、マスター。この人が、えと、友達の芹沢直輝くん。大学で同じ学科なんだ。それと今日花火一緒に行く約束している友達で……。」
「知ってるよ。もう耳タコな位聞いてるじゃん。蒼衣ちゃん彼の話ばっかりするから。」
からかいを多く含んだ声で僕がした直輝くんの紹介をそう一蹴すると、マスターは視線を直輝くんに戻す。
「蒼衣ちゃんはこの店の看板娘兼子供の居ない俺達にとっては娘であり、……大切な息子なんだ。――だから、中途半端な事して泣かしたら許さないよ?」
「っ?!」
そう言いながらマスターは僕の肩を抱いている手に力を込め、更に僕の体を引き寄せると、直輝くんの手を無理矢理握り握手する。だが、最後の言葉は直輝くんに対してまるで牽制するかのように普段は聞いた事もないくらい低い声だった。
そのマスターの声の変わりように僕は驚き隣を見ると、マスターはにっこりと安心させるようにおおらかに笑う。それは僕にも直輝くんにも向けた笑顔で、大抵の人はマスターのこのおおらかな笑顔に脱力したり、安心してしまったりする。そんな妙な魔力と言うか、魅力を持った笑みだった。
「……泣かしませんよ。」
その笑顔に直輝くんも少しばかり心がほぐれたのか、少し視線をうろつかせた後、苦笑をすると直輝くんは自分からマスターの手を握り返しながらそう言い切る。
直輝くんのその『泣かさない』発言に僕は内心凄くドキッとしたんだけど、多分、直輝くんはそんなに深く考えて答えてないような気がするので、僕は赤く染まってしまう顔を直輝くんに見られないように下へ向けた。
そんな僕の耳に直輝くんが続けた言葉が耳に入り、少しびっくりする。
「て言うか、娘であり息子って、蒼衣が男なの知ってるんすか? つか、女装が趣味なのも?」
「な、直輝くん……っ?!」
直輝くんのあまりに直球の質問に僕の方が焦り、そう直輝くんに声をかけるが、すぐにマスターの言葉に遮られてしまった。
「女装が趣味かどうかは当時は知らなかったけど、男だっては知ってたよ。だって蒼衣ちゃんがこの店に初めて来た時は、普段の格好、つまりいつものジミ〜なジーパン、Tシャツっていう男の服装のままだったんだから。」
マスターはそう僕がこの店を最初に訪れた時の事を直輝くんに話した。そのマスターのジミ〜なという言葉に直輝くんが少しだけ苦笑したのがわかり、僕は下を向いたままちょっとだけ唇を尖らせる。だって、別に好きで地味な格好してる訳じゃないのに、その格好を直輝くんに笑われたような気持ちになったのだ。
だが僕のその無言の抗議が直輝くんに届くことはなく、それどころか、マスターは得意そうにつらつらと続けて僕がどうしてこの店で女装をして働き始めたのかを話し始める。
「でも俺は見た瞬間にこの子は磨けばかなりいい線イけるだろうなって解ったんだ。ただちょっとその当時は色々と事情があって男としての蒼衣くんを働かす訳にはいかなくてね。だから、俺の奥さんが女装してみたら、っていいだして、そりゃいいや、って事でこうしてウチの可愛い看板娘が出来上がった訳だ。」
「? なんで男としての蒼衣が働くのがダメだったんすか?」
「っ。」
「……あぁ、えっとね、その時のバイト募集要項が、女の子、だったんだよ。それも飛び切り可愛い女の子限定、で。」
ぽろりとマスターが迂闊にも零した言葉に直輝くんが反応し、思わず僕はどうしよう、と思い、小さく息を呑む。すると、その反応をマスターがすぐに察したのか適当な理由をでっち上げてくれた。その事に僕は、直輝くんに気がつかれないように、そっと安堵の溜息を零す。
当時の僕は本当に色々と理由があって、素顔を晒して仕事をする訳にはいかなかったんだ。そしてそれはまだ直輝くんに話せないことで……。いつかは話さなきゃ、とは思っているけど、今はまだそれを話して直輝くんに嫌われたくなかった。
そうでなくても僕の生い立ち自体物凄く特殊で、普通ならば考えられない環境だったのだから。
そんな環境で育った上に更にあの事が直輝くんにバレたら、僕はもうどうしていいか解らない。しかもそれが元で直輝くんに嫌われたりなんてしたら、立ち直れないし、もうこの街自体にも居られないかもしれない。……それが自業自得だって、わかってはいても。
今の僕は直輝くんの住むこの街を離れたくはないし、そもそも直輝くんとこんな風に話をしたり、遊んだり、その、エッチ……したりっていう関係を壊したくはない。
だけど僕のその過去が直輝くんに発覚してしまったら、きっと直輝くんは怒るだろうし、僕の事を嫌っちゃうかもしれない。施設での事は僕自身が選んだ生活ではないって解ってるから直輝くんなりに受け止めてくれてるみたいだけど、だけど、この事は僕自身で一度選んでしまって堕ちた道だ。その僕自身が選んでしまった行為を、普通の生活を送る直輝くんが許してくれるはずはない。
だからマスターの吐いた嘘の理由に直輝くんが納得してくれる事を祈るしかなかった。
「へぇ。……それで、女装でねぇ……。」
俯き直輝くんがマスターの嘘を鵜呑みにしてくれる事を祈っている僕の耳に直輝くんの声が聞こえてくる。その直輝くんの声は、疑問を持っているというより呆れているように聞こえた。
だから僕は直輝くんはきっとマスターの吐いた嘘を納得したんだと思い、もう一度ホッと安堵の息を吐く。
ただこの時僕は直輝くんの顔を見るのが怖くて俯いたままだったから、本当は直輝くんがどんな表情をしてマスターの話を聞いていたのかは解らない。
「ふっふっふっ、なかなかにいいアイデアだと思わないかい? 実際蒼衣ちゃんは可愛いし、彼が働き始めてからは蒼衣ちゃん目当てのお客さんも増えたし。」
「へー……。そうなんすか……。」
直輝くんの呆れた声に動じることもなくマスターは僕の隣で何故か胸を張って僕が女装姿で働いて居る事を自慢している。事実無根でもあることを自慢するマスターに僕はなんというか、妙に気恥ずかしい気持ちになり、尚更直輝くんの顔が見れなくなる。
そして直輝くんもまたマスターの態度にもうツッコむ気力もないのか、苦笑を交えた声でおざなりな相槌を打っていた。
「……ただねー、ここだけの話、蒼衣ちゃんが可愛すぎて勘違いした男のお客さんに告白される事も多いんだよね。しつこいお客さんも多いから、早く蒼衣ちゃんを守れるような素敵な恋人ができればいいなぁ、って俺は常々思っ……。」
「ちょ、マスター! 変な事言わないでくださいーーーっ!!」
しかし、続いたマスターの言葉に僕は慌てて顔を上げると言葉を遮った。
だが時すでに遅し。
直輝くんの耳にはばっちりとさっきのマスターの言葉が入ったらしく、少し口元が引き攣っていた。そして視線だけで直輝くんに軽く睨まれる。
うぅ……これじゃまるで僕がマスターに直輝くんと恋人になりたい、とか言ってるみたいじゃんか……っ!! 違う、違うんだよーー!!
そんな事を思いながら内心頭を抱えていると、直輝くんは何を思ったのか突然にっこりと笑った。但し、僕の目にはニヤリとどす黒く笑ったようにしか見えなかったけど。
「そうなんすか。そりゃ蒼衣も大変ですね。……で、マスターが思う蒼衣の恋人ってのはやっぱ女の子ですよね? まさか、男、って事ないとは思いますが……、な〜んかその口ぶりじゃ明確なイメージ像がありそうなんすけど?」
「っつつつ……っ!?!?!?!?」
まさかそんな切り返しを直輝くんがマスターにするとは思わず僕は声にならない悲鳴を上げてしまう。あわあわと直輝くんとマスターの間に入ると僕は、もう半ばパニックになりながらマスターに向けて話しかけた。
「あ、あの、あのあのあのっ、マスターッ! と、とりあえず、直輝くん、席に案内しませんかっ?! ねっ?! こんな入り口で立ち話なんて、他のお客さんが入り難くなっちゃいますよーっ!!」
兎に角この話を切り上げたくてとりあえず思いついた言葉を口にする。
するとマスターは僕のテンパり具合を見てニヤニヤと笑うと、はいはい、と言いながら直輝くんに改めて向き合った。
「あそこ、カウンター席でいいかな?」
「えぇ、構いませんよ。あそこなら落ち着いてマスターと、蒼衣、の話出来そうっスね。」
「ひぅ……っ?!?!」
だが僕のこの言葉は更に僕自身を窮地に陥らしてしまったようで。
直輝くんとマスターの人の悪い笑顔と言葉に僕は喉の奥で引き攣ったような悲鳴をもう一度上げた。しかも直輝くんは意地悪にわざわざ、蒼衣、って言う所だけ強調して言ってる。
これはもうマスターと一緒になって僕の話題を肴にする気満々なのだろう。そして、マスターも直輝くんに対して僕の事をネタにして話をするつもりに違いなかった。
こうなってしまってはもう僕の力ではどうしようもない。
僕はがっくりと肩を落とすと、マスターに促されて直輝くんをカウンター席へと案内する。背の高いスツールに直輝くんが座ると、僕はカウンターの隅に置いてあるグラスに冷水を注いでその前に置いた。
「ぅ〜っ、直輝くん、あんまり変な事マスターに聞かないでよぉ。」
「なにがだ? 別にこれ位普通だろ。友達がどんな風にバイト先で働いてるかとか知りてーじゃん。ま、まさか女装で働いてるとは思いもしなかったから、お陰で余計にお前がどんな風に働いてるのか興味が沸いたけどな。」
僕が少しだけ睨みながらそう牽制をすると、直輝くんはしらっとした顔で僕の言葉をかわす。しかも、どこか剣呑な雰囲気を内包した瞳で一瞥されてしまうと、僕はそれ以上直輝くんに文句を言うことはできず仕方なく直輝くんに恨めしそうな瞳を向けて小さな溜息を吐くくらいしかできなかった。
「……何か、頼む?」
「ん〜、そうだな、コーヒー。……と、ほら、あの日お前ん家で喰ったあれ、あのクッキー。ちょっと小腹空いてるからさ。」
「あ……、う、うん。わかった。」
とりあえず直輝くんにオーダーするかどうか聞くと、カウンターに置いてあるメニュー表をぱらぱらめくった後、直輝くんはそんな風に答えた。
だけどクッキーを注文する時に直輝くんが微かに目元を赤くしながら、照れてるようにぶっきら棒に言う姿がなんだか可愛くて僕は少し機嫌を直してひっそりと笑うと、カウンターの中に居るマスターに注文を通した。
するとマスターも嬉しかったのか、ニヤリ、と笑いそのままサイフォンをセットすると、そのフラスコにお湯を居れ、アルコールランプに火を灯す。そして、クッキーを持ってくるように厨房に声をかけた。
「朱里、クッキー一つな。」
「は〜い。」
厨房の中から奥さんの涼やかな声が返ってくると、程なくしてお盆にクッキーが入ったお皿を乗せて厨房から出てくる。
そしてそのままカウンターの中から、直輝くんにクッキーのお皿を手渡しながらにっこりと笑いかけた。
「始めまして。ここの厨房を任されてる柳内朱里(やない あかり)よ。ちなみにこの人の奥さん。」
「あ、……芹沢直輝です。始めまして。」
間近で奥さんに微笑まれ、直輝くんは見惚れたようにボーッとしてしまっている。
そりゃそうだろうな。奥さんは、普段は裏方に徹しているけどかなり綺麗な人だ。しかも胸が大きくてスタイルも良くて、なんというか仕草も表情も全てが色っぽい。僕も初めて奥さんに会った時には見惚れて、目のやり場に困ってめちゃくちゃ緊張したくらいだし。巨乳好きな直輝くんなら尚更奥さんの胸に釘付けになることだろう。女は胸だ、とかいつかも言ってたし……。
そう思ってチラリと直輝くんを見てみると、意外にもそれ程奥さんの胸とかに視線はいっていないみたいだった。
てっきり奥さんのあの胸を見てると思ったのに……、と直輝くんを驚いて見てると僕の視線に気がついたのか、直輝くんは僕の方を向く。
「? なんだ?」
「え……っ、あ、うぅん、なんでもないよ。」
不思議そうな瞳で見返してくる直輝くんに僕は慌てて笑い返す。そんな僕に尚更怪訝そうな瞳を直輝くんは向けてきたので、それに僕はもう一度、なんでもないよ、と笑い返した。
それでも直輝くんが奥さんの胸を見てなかった事がなんだか本当に不思議で僕は小さく首を傾げる。と、突然僕の耳に奥さんの声が聞こえてきた。
「あ、そうそう。蒼衣ちゃん、もう上がっていいわよ。」
その言葉の内容に僕は、慌てて視線を柱時計に向けたが、バイトが終わる時間にはまだ三十分くらいあった。
「え、で、でも……まだ時間来てませんよ?」
「いいのよ。折角お友達がこうして迎えに来てくれたんだもの、待たせちゃ悪いわ。」
「で、でも……。」
奥さんの申し出は嬉しかったが、しかし私用で、しかも遊びに行く予定の事でバイトを早くあがるのはなんだかとても申し訳なく思い言い淀んでいると、奥さんはニッコリと魅力的な笑顔を僕に向ける。
「気にしないで。今日はお店も早く閉める予定だから大丈夫。蒼衣ちゃんの話を聞いてね、私達も久しぶりに夫婦水入らずで花火見に行こうって事になったのよ。ふふ。」
「そうそう。だから気兼ねせずに直輝くんと遊んできなさい。」
ころころと鈴が鳴るように綺麗な声で笑うと、奥さんは僕にウィンクする。その奥さんの言葉に追随するようにマスターもニコニコと笑いながら僕に上がるように進めてきた。しかも奥さんはわざわざカウンターの中から出てくると、ほらほら、と僕の肩を押してカウンターの中へと誘導する。
カウンターの中に入り、厨房の奥まで行くと突き当たりにドアがあった。そのドアを開けるとマスター達の居住区に繋がる二階に上がる階段がある。
その手前まで奥さんは僕の背中を押して連れてくると、先に立ってドアを開けた。
「あ、あの……奥さん、僕……。」
「そうそう、折角の直輝くんとのデートだから浴衣着て行きなさいね。」
「デッ、デートってっ?! ち、違います〜っ!! 僕達は友達で……っ!!」
「んもう、今更照れなくてもいいわよ。」
幾ら雇い主の後押しがあるとは言え、やはり時間より早く上がるのが申し訳なくて声をかけようとすると、奥さんは間髪居れず僕の言葉を遮る。そして、階段の所に置いていた箱を僕の手に押し付けてきた。
奥さんの言葉と押し付けられた箱に僕は驚き、おろおろと奥さんの言葉を否定しようと声を上げるが、奥さんはくすくすと楽しそうに笑うと僕の背中をバンバンと叩いた。
「今の時代、別に男の子同士が恋愛してたって可笑しい事じゃないわよ。……それに、蒼衣ちゃんは解り易いからバレバレなのよね。直輝くんの事大好きですって顔に書いてあるんだもの。」
「っ?! あうぅううう……そんなの書いてないですっ〜〜っ。」
なんというか、奥さんが余りにも爽やかに笑いながら僕の頬をその指で突くものだから僕は余計に焦ってしまい恥ずかしさから顔をまた真っ赤にして、必死になって否定する。だが、そんな僕に奥さんはくすくすと笑いながら、よしよし、と僕の頭をまるで小さい子をあやすかのように撫でてきた。
「ふふふ、もう蒼衣ちゃんったら本当に可愛いんだから。……あーっ、もう本当私が男だったらほっとかないのにぃ……っ! 本当残念っ!」
「お、奥さん……っ、あの、あのっ……っ!! ぼ、僕着替えてきます……っ!!」
頭を撫でるだけでは飽き足らず奥さんは僕の体をギューッと抱きしめると訳のわからない事を口走る。その言葉の内容と押し付けられる奥さんの豊満な胸の感触、そして仄かに香る奥さんの香水の甘い香りに僕は戸惑い、あわあわと顔を真っ赤にしたまま奥さんの体を引き離そうと試みた。頭の中はもうパニックでぐるぐるしていて、なんとか奥さんの体を引き離すと、僕は奥さんから渡された箱を持って逃げるように二階へと上がる。
ダダダダダ……ッ、と足音も荒く二階に駆け上がり、居住空間に続くドアを開けると急いでその中へと体を滑り込ませた。
時々奥さんは本当に訳が解らないことを言う。
あんなに綺麗で色っぽいのに、なんというか、普通の女性とは感性がずれているというか、変な人だ。
さっきマスターも言っていたけど、僕に女装でこのお店で働くことを進めたのは本当に奥さんだ。当時の僕は実を言うと女装に対して興味もなにもなかった。ただ生活の糧を得ることに必死で、働かせて貰えるのなら、と奥さんの提案した女装を受け入れただけ。
だけど、奥さんが施してくれた化粧と着せてくれた女性の服装は、僕を本当に別人へと変身させてくれた。
それが妙に快感で、そして、変な安心感が僕を満たしてくれて。お陰で気がつけば僕は奥さんに感化されちゃって立派な女装趣味の変人になってしまった訳だけど。それが良かったのか、悪かったのか……。
ちなみに後で知った事だけど、奥さんはこれはと思った男の子に女装させるのが趣味だったらしい。かく言うマスターも付き合い始めた当初は何度か女装させられたらしい。……マスターの女装姿なんて想像がまったくつかないけど……、て言うかちょっと想像したくないけど。最もマスターは結局奥さんのお眼鏡には叶わなくて、二、三回しただけでそれ以降は女装しなくても良くなったらしく、ホッとしたってマスターは言ってた。
ところでなんで奥さんは男の子を女装させたがるのか聞いてみた事があるんだけど、奥さん曰く、普通の男の子を綺麗に可愛く『女の子』に変身させる事が凄い快感で、しかも変身した男の子が自分の姿を見てびっくりするのが楽しいんだそう。
僕には解るような解らないような……。だけど、はっきりいえる事は、奥さんはマスターに輪をかけて変な人だ、って事だけだ。
つくづく変な人達に雇われちゃったよなぁ。
そんな事をしみじみと思いながら僕は靴を脱いで奥さん達の居住区に入る。そして、玄関を上がってすぐ隣にある部屋のドアを開けた。そこが従業員の更衣室兼休憩所になっている。とは言っても現在の従業員と言うかバイトは僕一人だから、実質僕しかこの部屋は使っていないんだけど。
更衣室に入るとドアの横にある電灯のスイッチを押し部屋を明るくする。
そして、後ろ手でドアを閉めると僕は手に持っていた浴衣の入っている箱を、部屋の中央に設えてあるソファの上に置く。
「……ふぅ。浴衣かぁ……。でも直輝くんは私服なのに僕だけ浴衣ってのもなぁ……どうしよう。」
小さく溜息を吐きながら呟き、とりあえず中身を見てみようと蓋を開けた。だが、箱の中に入っている浴衣を見て僕は小さく声を上げる。
「……これって……っ。」
恐る恐る手を伸ばし浴衣を掴むと箱から取り出してまじまじと見た。
白地に華やかな赤と紫の大きな花柄がプリントしてあるそれは、明らかに女性用の浴衣で。真剣に、どうしよう、と思う。
僕が幾ら女装が趣味で、こうして女装姿で喫茶店でバイトしていたとしても、街中や人の多い場所を女装姿で歩いた事なんて今までした事がなかった。大体この姿で居られるのは、限られた場所、つまりこの喫茶店内と僕の部屋の中だけでしかなかったのだ。
それなのに、奥さんに渡された浴衣はどこをどう見ても女物。
女装姿で直輝くんと花火を見に行けなんて、ほとんど罰ゲームだよ……。
そう思いながら絨毯の敷かれた床の上にへたり込んでいると、更衣室のドアが軽くノックされた。
「蒼衣ちゃん、浴衣着付けられる? 私やろうか?」
そして奥さんの声がドア越しにそう聞こえてくる。
奥さんの声に僕は小さく溜息を吐くと、立ち上がりドアに向かう。
「……あ、あの〜……、浴衣、女物なんですけど……。これ、間違ってますよね……?」
ドアを細く開け、ドアの向こうに居る奥さんにそう控えめに抗議をしてみる。すると、奥さんの手がドアの隙間にかかり、一気にドアを開けられた。
いきなりドアを大きく開けられ、僕が唖然としていると奥さんはにっこりと僕に向けて微笑む。
「間違ってなんてないわよ。折角の直輝くんとのデートなんだから、女装していきなさいよ。そっちの方が人目気にしなくていちゃつけるでしょ? 蒼衣ちゃん美人だからあの浴衣きっと似合うと思うわよ〜。マスターとこの前のお休みの時にはりきって選んだんだからっ!」
「えぇ……っ、そ、そんな事出来ませんよ……っ!! それにデートじゃないって……っ! ていうか、いちゃつくって何なんですかーー?!」
「はいはい。いいから着付けと化粧は私に任せなさい。直輝くんが二度惚れしちゃうくらいとびっきり可愛く仕立ててあげるから。」
にこにこと笑いながら自信満々に言われた奥さんの言葉に僕は必死になって抗議をしたが、奥さんは全く取り合わない。おざなりに僕の抗議に返事をしながら、正にキランッと瞳を光らせて嫌な宣言をした。
奥さんのやる気満々モードに僕はその後も必死になって抵抗し、なんとか私服に着替えようとしたのだが、結局奥さんの勢いと迫力と嬉しそうな顔に負けてしまい僕は渋々女物の浴衣を着る羽目になってしまった。メイド服を脱ぎ、奥さんに任せるままに浴衣を着せられ、その後は一旦仕事モードの化粧をメイク落としで綺麗に落とされ、奥さん曰くデート用の化粧を施された。そして、髪の毛も器用に纏め上げられ、ちゃんと花の髪留めや簪などでヘアアレンジまでされてしまう。
浴衣を着せられた時点で僕はもうなんだか自棄というか、諦めきってしまい、奥さんの言われるがまま、いい玩具として大人しくしていた。
そんな僕を満足そうに、そして凄く楽しそうにキラキラした瞳を細めながら着付けをしたり化粧を施したりする奥さんは本当に生き生きしていて、なんだか怒る気にもならない。と言うか、怒れない。それは奥さんが僕よりかなり年上っていうのもあるけれど、なんと言っても本当に嬉しそうな幸せそうな顔で僕に化粧をしたりヘアアレンジについてあれこれ講釈している姿を見ていると、こんな僕を弄ることで奥さんが嬉しくなるなら、まぁいいか、と言う気持ちになってしまったから。
それにマスターと奥さんには子供が居ない。だからこそ、奥さんにとっては僕は息子と言うか、娘みたいな気持ちでこうして化粧を教えてくれたりしてるんだろうし。
そしてもうここまで来ると、反対になんだか自分まで楽しい気持ちになってくる。
直輝くんと出かける事はあってもいつもは男同士として普段の格好で遊びに出てるけど、こうして女装姿で直輝くんと出掛けることなんて当たり前だけど今まで一度としてなかったんだ。直輝くんの前で女装する時は大抵エッチをする時だけだったから、エッチとは関係なく直輝くんの前で女装姿で居られるのがまずとても新鮮だった。しかも、奥さんに何度も何度もデートだといわれてしまうと、なんだか本当にこれからデートをしに行くような気持ちにもなってきて、どんどん胸がドキドキと高鳴り始める。
勿論男同士でデートだなんて、普通に考えて結構気持ち悪い事だって解ってる……。
でもこうして奥さんのお陰でしっかりと化粧もして髪もアップして女物の浴衣を着てたら、ひょっとしたら他の人の目から見ても僕はただ背の高い女の人に見えるかもしれない。だったら、本当に奥さんが言うように人目を気にしないで、直輝くんと並んで歩いてもいいのかも、なんて気持ちになってくる。
そりゃ、どうやったって僕は男だから体の線は普通の女性よりも少し骨太かもしれないけれど……。でも浴衣を着てみて初めて気がついたけど、浴衣って意外に体形を誤魔化せるっぽい。胸にも少し詰め物をしたし、花火は夜からだし、上手くすれば本当に女の子に見えるかも。そんな淡い期待が胸の中に持ち上がってきた。
「よし。いいわよ、出来上がり。」
奥さんが僕の髪を綺麗にセットし終えると、そう満足そうに呟いた。
その声に改めて僕の心臓がどきりと大きく脈打つ。出来上がった、と言う事は、これからこの格好で直輝くんの前に出る、と言う事で。
さっきまで想像していた事が実現になる時間がもう目の前まで来て居る事に、僕はなんだかとても緊張してきた。
それと共に、自分に都合のいい想像ばかりしてたけど、もしこの姿を直輝くんが見て呆れたり、この姿の僕と一緒に花火を見に行くのを嫌がったらどうしよう、という不安が鎌首をもたげてくる。それに、もし直輝くんが一緒に行くのをOKしたとしても、人ごみに出て周りの人が僕が女装してる男だって気がついて、僕だけでなく直輝くんまで奇異の視線に晒される事になってしまったら……。
「……ぁ、ど、どうしよう……っ。」
一度不安になるとどんどんとその不安は僕の胸の中で膨らみ、やっぱりこんな姿では直輝くんの前に出れない、なんて思ってしまい小さくその不安を口にしてしまう。
すると僕の呟きが奥さんに聞こえたらしく、奥さんは僕の前に回ってきた。
「大丈夫よ。今までこの店でだって蒼衣ちゃんが男の子だってお客さんにはばれてないでしょ? ちゃんと女の子に見えるから安心しなさい。それに周りの人は蒼衣ちゃんが思うほど、他人の事は見ていないものよ。」
僕を安心させるように奥さんはにっこりと笑うと、僕の手を取って僕を立ち上がらせる。そして軽く肩を押して、部屋の端に寄せてあった全身を映すことが出来る鏡の前に僕を立たせた。
「ほら、見てみなさい。すっごく可愛いから。」
ふふ……っ、と喜びを押さえきれないような笑い声を奥さんは漏らしながら鏡の中に映る僕の姿を指差す。鏡の中には、恥ずかしさと緊張とで顔を薄っすらと紅潮させた一見女の子に見える自分が映っていて、少しだけドキリとする。
「自信持ってね。大丈夫、浴衣を脱がない限り絶対にバレないから。直輝くんだって喜んでくれるわよ。蒼衣ちゃんの女装癖、認めて受け入れてくれてるんだから。」
耳元で奥さんが呪文を唱えるように何度も何度も大丈夫だと言ってくれる。それは不思議と僕の心の中に浸透していき、恥ずかしさは消えなかったけど、さっきまで胸の中で渦巻いていたどす黒い不安は少し晴れた。
「さ、楽しんでらっしゃい。」
僕の表情の変化を鏡越しに敏感に読み取ったのか、奥さんはウィンクをするとポンポンと僕の肩を優しく叩く。それに後押しされた形で僕は小さく頷くと、緊張で破裂しそうな心臓を抱えて更衣室を後にした。
玄関にはきっと奥さんが用意してくれたらしい浴衣に合わせた下駄が置いてあり、少し躊躇した後僕はそれを履く。すると後ろからまた奥さんが声をかけてきた。
「蒼衣ちゃん、巾着忘れてるわよ。お財布とか入れといてあげたから、どーぞ。」
奥さんの声に振り返り、可愛らしい巾着を受け取る。チラリと奥さんを見ると、奥さんはまたにっこりと微笑んだ。
「あ、あの……ありがとうございます……。」
「ふふ、いいのよ〜。いってらっしゃい。」
「は、はい……いってきます。」
巾着の事や、浴衣の事、そして化粧のことなど諸々の事を含めてお礼を言うと、奥さんは少しくすぐったそうに笑う。そして、ひらひらと手を振って僕を送り出した。
ゆっくりと慣れない下駄で一階まで降り、厨房へと続く扉を開ける。するとマスターが洗い物をしていて、僕が降りて来た事に気がつき顔を上げた。そして、僕を見て一瞬驚いたような顔をする。
「あ、あの……、マスター……。」
目をパチクリと瞬いて固まってしまっているマスターに僕はなんと話しかけていいものか迷い、そして恥ずかしさから下を向きながら、小さな声でマスターに話しかけた。
と、突然マスターは僕に向かって突進してきた。
「蒼衣ちゃん!」
「ひゃ、ひゃぁ……?!」
一気に間合いを詰め寄られ、鼻が触れ合いそうになるくらい間近にマスターが接近してくる。それに驚き裏返った声を思わず出してしまった。
「ぐっじょぶ!」
だが、物凄くいい笑顔でマスターは僕に向けて親指を立ててそう力強く断言され、僕はドキドキする胸を押さえながらどんな反応を返していいものか迷う。そんな僕を見ながらマスターは、なんというか、本当にキラキラとしたいい笑顔で何度も何度も僕に向けて、グッジョブ!と言い続けていた。
「あぅぅ……、あの、その……、あ、ありがとうございます……。」
一体何がグッジョブなのか解らなかったが、なんとなくニュアンスで褒められているのだろうと受け取ると僕はとりあえずそうお礼を言う。
するとマスターがどこか感極まったような大げさな表情をした。
「あ、あの……マスター……?」
マスターの表情に僕は少し驚き、マスターに声をかけると、マスターは僕の肩を優しく抱きしめてきた。そのマスターの行動に更に驚いていると、しみじみとマスターは呟いた。
「これが娘を彼氏に取られた父親の気分って奴なんだな……。」
「はぁ?!」
うんうん、となにやら一人で大げさに納得しているマスターに僕は怪訝な表情を向け、そして、零された呟きに声が裏返る。
僕の声にマスターは顔を上げ、改めてまじまじと真剣な顔をして僕の顔を見た。
「いいか、蒼衣。もし直輝くん、いやっ、あの男にエッチな事をされそうになったら大声を出すんだぞ! 俺は、いやっ、お父さんはまだキス以上の行為は認めんからな! いいな、蒼衣!」
「へぁ? あの男……? お父さん……? え? マスター? え? 何言ってるんですか? どうしたんですか?」
突然始まったマスターの小芝居に僕はどう反応していいか解らず、マスターが漏らした意味不明の単語を繰り返してしまう。そんな僕にマスターはふっとニヒルに笑うと、何故か、うんうんと一人で頷き始める。
そして、寂しそうに僕の肩をまたポンポンと叩いた。
「そりゃお前ももう子供じゃないからキスだけだなんていわれても納得がいかないだろうがな、蒼衣。お父さんは婚前交渉は許さないからな! 結婚までは清い体でいなさい。いいね?」
「えーと……、とりあえず直輝くんが待っているので僕行きますね。」
なんだかマスターはマスターの世界に入り込んでしまったようなので、僕は小さく困ったように笑うと、嫁入り前の娘を持つ父親に成りきっているマスターにそう声をかけてマスターの腕の中から逃げ出す。
そしてそのまま何も思わずに、厨房から店内へと出た。
「遅くなってごめんね、直輝くん。なんか色々準備に手間取っちゃって。」
「あー、本当遅かったな。なにしてた……。」
マスターの変な行動と言動のお陰で自分がすっかり女物の浴衣姿で居る事さえも忘れてカウンターに座って何が本を読んでいるらしい直輝くんに声をかける。その僕の声に直輝くんは、待ちくたびれたぜ、とでも言うように顔を少し顰めながら僕へと顔を向け口を開きかけたが、途中で何故か止まってしまった。そして、物凄くまじまじと僕の顔と体を見られる。
一瞬なんでそんなに僕を見るんだろう、と思いかけ、僕は漸く自分が女物の浴衣を来てメイクもばっちりしている事を思い出した。
「あっ……、あ、あの、あのっ、こここここれっ、奥さんが……あのっ……っ!」
カァァァ……ッ、と一気に頭まで血が上り、恥ずかしさとどうしようという思いで頭の中がパニックになる。明らかに直輝くんの顔が唖然としていて、僕は自分がどうしようもなく馬鹿な事をしているのだと思い知らされた。
「や、やっぱり嫌だよね……っ! ご、ごめんね……っ! すぐ着替えてくるから……!」
「……え?! あっ、おいっ、蒼衣……!」
パニくったまま僕はそう叫び踵を返そうとする。その僕の後姿に直輝くんの焦っているような声が聞こえてきたが、僕はもう恥ずかしくて恥ずかしくてこの場から逃げ出したくて、急いで厨房の中へと入ろうとした。
だが、いつの間にかマスターが僕の後ろに立っていて、僕は俯いていた為思いっきり顔をマスターの肩にぶつけてしまう。
「っっ……!」
「あぁ、ごめんごめん。大丈夫かい?」
鼻先をぶつけ、その痛みに呻くとマスターが申し訳なさそうな声で謝ってきた。
だけど僕はマスターの言葉に返事をする気にもならず、顔を押さえながらマスターの横をすり抜けようとする。しかし、そんな僕の手首を誰かの手がしっかりと握ってそれ以上僕を先に進ませないようにした。
「マスター、離して下さい。僕、急いで着替えてこなきゃ……。」
てっきりマスターが掴んでいるものだと思い、焦る気持ちのまま振り向いてそう話しかけて僕の言葉は尻すぼみに小さくなった。
だって僕がマスターの手だと思っていた手は、実は直輝くんの手だったから。
しかも僕の視線の先で、直輝くんは手首を掴んだまま少し怒ったような顔をしていた。
「な、直輝くん……、ご、ごめんね。僕、変な格好しちゃって……。」
僕が女装したままだった事に直輝くんが怒っているのだと思い、僕は項垂れるともう一度そう謝る。
すると、直輝くんが盛大に溜息を吐いた。呆れてる、って凄く解るような溜息だ。
その溜息に僕は更に居た堪れなくなり、下唇を噛むと、僕の手首を掴んでいる直輝くんの手をそっと離そうとする。
「急いで着替えてくるから、ごめんけど、もう少しだけ待っててくれる?」
「待てねーよ。」
「っ!」
上目使いに直輝くんを見て、もう少しだけ待ってて貰おうとそう言うと、直輝くんはますますどこか怒ったような表情と口調できっぱりと僕の言葉を却下した。それに僕の胸がズキンと痛む。
やっぱりこんな僕とは花火一緒に行く気にならないんだ、そう思い、僕は少し苦しくて泣きそうになった。
だが、続いた直輝くんの言葉に思わず顔を上げてしまう。
「そのままでいいから、いい加減行こうぜ。」
「……え……?」
直輝くんの言った言葉の意味が理解できず聞き返してしまうと、直輝くんはどこか罰が悪そうな顔になった。
そして、相変わらず不機嫌そうな顔のまま無言で僕の手を引く。
「あ、あの……っ、直輝くん……、いいの……?」
「っ、だから、そのままでいいって言ってんだろっ。いいから四の五の言わず俺について来いっ。」
ずかずかと強引に僕の腕を引っ張って店から出て行こうとする直輝くんの後姿に、戸惑いがちに聞いてみると、直輝くんは怒ったようにそう返事を返してきた。
その直輝くんの態度に僕は少し戸惑ったが、茶色の髪の間から少し垣間見える直輝くんの耳が赤くなっているのに気がつくと、なんだか少し幸せな気持ちに包まれる。それだけで女装姿で街の中を歩く恥ずかしさはなくなり、直輝くんとこうして花火を見に行くことが出来る嬉しさが胸の中を満たした。
そして僕達が店から出る間際にマスターが、楽しんで来いよー、と僕達の背中に声をかけてくれる。その声に僕が振り返ると、マスターはカウンターの中でいつの間にか降りてきていた奥さんと一緒になってニコニコと笑いながら手を振っていて、僕はまたなんとも言えない嬉しさと幸せな気持ちで一杯になりながら、直輝くんに手を引かれるまま花火見物の為に街の中へと出た。