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NOVEL

Un tournesol 〜深き悩み、加えて、新たなる波乱?〜
05

注意) 蒼衣に対する罵倒/複雑な感情

 自分のせいで場の雰囲気があまりにも険悪になり、蒼衣はまたいたたまれない気持ちになる。
 相変わらず直輝は勇を睨みつけたまま、ムッと唇を歪めていた。
 流石のこの雰囲気のせいか、それとも直輝の睨みのせいか、さっきまではあんなに饒舌だった勇も今は押し黙っている。
 その事に蒼衣は更に申し訳なさと、いたたまれなさを感じて、どうしよう、と何度も胸の中でその言葉ばかりを反芻していた。
 だが、自分がここで何をどう頑張ったとしてもこの雰囲気は到底変わらない事など良く自分でも解っていた。その自分の不甲斐なさに蒼衣は、直輝の横顔から視線を外すと、少し俯き唇を軽く噛み締める。
 もっと自分が社交的で明るくノリも良ければこんなにもこの場の雰囲気を悪くする事もなかったのに、と考えてますます自分が情けなくなっていった。
 と、そんな蒼衣の心境を呼んだのか、それとも、この重苦しい雰囲気に嫌気がさしたのか、無言だった勇が漸く口を開く。

「あー、そだそだ! まだ順平ちゃんの事紹介してなかったよね! ほら、順平ちゃんも蒼衣ちゃんに自己紹介して。」
「……。」

 勇は直輝の視線に負けた訳ではないがこれ以上直輝の機嫌を損ねてしまうと後が大変そうだったのと、目の前でどんどんと落ち込んでいく蒼衣の姿を見て、このままでは蒼衣に嫌な思いだけを残す事になる、と思いふと思い出した体で、この重い雰囲気を吹き飛ばすように殊更明るくそう言った。
 そして、最初から今までずっと無言でいる順平に話を振る。
 だが、順平はその勇の言葉さえも無視し、相変わらず蒼衣からも視線を外してそっぽを向き続けていた。
 その順平の頑なな態度に蒼衣はまた困ったように眉尻を下げ、勇は呆れたような顔をする。
 そして直輝はその時初めて順平が蒼衣に対して子供じみた態度を取っている事に気がついた。そっぽを向いて蒼衣を見ようともしない順平の態度に蒼衣が困り、だからこそさっきあんなにも自分の態度に対して頑なだった事にも今更ながらに気がつく。
 蒼衣の想いを汲み取ってやれなかった鈍感な自分に気が付き、直輝は心の中で小さく自分自身に対して舌打ちをする。
 そして勇の明るさに乗る訳ではないが、気持ちを入れ替えた。

「おい、順平。」

 思わずそう順平に声をかける。
 流石に直輝に声をかけられると無視するわけにはいかないと思ったのか順平は一応顔の向きは戻す。だが、やはり視線は蒼衣へ向けられる事はなく蒼衣を素通りして直輝へと向いた。

「なんだよ。」

 直輝に勝るとも劣らない不機嫌な声で順平が直輝の呼び掛けに応える。
 あまりに解りやすい態度に直輝は苦笑を深めると、ちらりと蒼衣に視線を送り暗に順平に自己紹介をしろと促す。
 促された順平は、だが、むっと唇を歪めるとまたぷいっと顔を横へと背けた。
 そんな順平の態度に蒼衣はますます身を縮ませてしまう。
 蒼衣としては段々とこの場に居る事自体が申し訳なくなってきていた。
 明らかに蒼衣の事を気に入っていない、話しさえしたくないほど嫌っていると解る順平の態度に、もう何故そんな態度を取られるのかの理由さえもどうでも良くなってくる。
 それは順平の態度に腹を立てての事ではなく、そこまで順平に自分の存在を嫌がられる事が申し訳なくて、更にこの居心地の悪い雰囲気を作り出している原因の一端を自分が担っていると解っているだけに直輝や勇に対しても酷く申し訳ない気持ちになっていた。

「おい、順平。」

 隣で体を小さくさせている蒼衣を見て直輝はさっきよりも語気を強めて順平に声をかける。
 その声に少しは反応し、ちらりと直輝へと視線を走らせたがやはり順平は口を開くことなくぷいっとそっぽを向く。
 順平としては自分が何故拗ねているのかの意味を直輝に解って貰いたかった。
 尤もその不満や不平を実際に口にして、直接直輝に伝えなければ伝わらないとは解っている。
 だが、それを口にすれば確実に直輝は烈火のごとく怒り狂うだろう。
 蒼衣が居ない時点で文句を言った時にでさえ、あれだけ不機嫌になったのだ。現在の直輝にしては珍しい“お気に入り”である蒼衣自身を目の前にしてそれを言えば、どうなるかなんて順平にだって良く解る。
 だからこそ順平はまるで子供のように口を尖らせて、蒼衣の存在を徹底的に無視をする事でしか直輝に自分の不満を伝えられなかった。
 大体なんでこんな奴が直輝の滅多にない“お気に入り”ポジションについてやがるんだ、と目の前で所在なさそうに小さくなっている、男らしさの欠片もなさそうな男を横目に睨みつける。
 大体が、今目の前に座っている“日向蒼衣”と言う男自体が、今までの直輝のツレとは全くタイプが違う。
 順平が知る直輝と言う男は、さばさばしていて、確かに短気だが男気に溢れていて、べたべたとした付き合いを好む男ではなかった。そして、今まで直輝の周りに居る“ダチ”と言うのは、自分や勇のようなある意味タイプは違えど皆どこかしら“男らしさ”を感じさせるタイプばかりだ。
 それなのに、と順平は思う。
 そっと視線を蒼衣へと走らせ目の端で確認すると、蒼衣は困ったように眉を下げ勇の自己紹介をしている間に運ばれてきていたコーヒーをちびちびと口に運びながら、相変わらずちらちらと直輝の表情を窺っている。
 その姿からは到底“男らしさ”と言うものが感じられない。
 勇と同じように長身ではあるがその体つきは勇とは違い線が細く頼りなささえも感じる。顔立ちも、太めフレームの黒縁眼鏡と長めの前髪で隠れてはっきりとはわからないが、その鼻筋や口元を見る限りどこか女性的な感じを受けた。肌の色もこの時期もう少し焼けてもいいだろうに、無地のシャツから覗く首筋や腕などがびっくりするくらい白い。
 そして何が一番気に食わないかと言えば、蒼衣のちょっとした仕草が順平としては一番気に食わなかった。
 いちいちちょっとした仕草が妙になよっとしていて、良く言えば丁寧で柔らかい仕草、とも言えるのかもしれないが、順平の目にはその長髪も相まって妙に女性的に見えた。悪い言い方をすれば、オカマ臭い。
 今、コーヒーをちびちびと飲んでいるその仕草さえ、コーヒーカップを両手で覆うように持っている為、どことなく女性的な印象を受け、順平は横目で蒼衣のその姿を見ながら眉根を寄せる。
 一体こんなダサくてオカマみたいな奴のどこがいいんだ、そんな事までつい思ってしまう。
 そんな思いが蒼衣に空気を伝って伝わったのか、蒼衣はますます申し訳なさそうな表情をすると下を向いてしまった。
 目の端で捉えたその蒼衣の行動に順平は更に苛立ちを募らせる。
 と、順平の耳に直輝の声が聞こえてきた。

「……もう、いい。」

 ぼそっと不機嫌そうな声で呟かれたその声に、順平は一瞬どきっとして思わず直輝の方を見る。
 直輝はだが、順平にはチラリと冷たい視線で一瞥をくれた後、隣で小さくなっている蒼衣の腕に手をかけていた。そして蒼衣の体を無理矢理立たせる。

「行こうぜ、蒼衣。」
「っ……で、でも……。」
「あいつは放っとけ。何が気にいらねぇのか知らねぇが、俺がダチだと思ってるお前にンな態度取るような奴、お前が気にする必要はねー。もうお前とも会わせねーから。……悪かったな、嫌な思いさせて。」

 蒼衣の体を通路側へと押し出しながら直輝が店を出る様に促すと、蒼衣はまだ順平の事が気になるのか少し言い淀む。だが、先ほどまでの頑なさは幾分かは消え去り、蒼衣はちらりと視線を順平へと忍ばせながらも、これ以上はここに居ても雰囲気を悪くするばかりだし、と直輝の促しに体を通路へと向け、腰もソファから完全に浮いていた。
 そんな蒼衣に向けて直輝は順平にとって一番聞きたくない言葉をその口に上らせる。
 思わず順平は息を飲み、蒼衣の肩を押している直輝へと視線を向けその横顔をマジマジと見た。 だが、直輝は順平に視線を向ける事はなくただひたすらに蒼衣だけに視線を注いでいて、順平の驚きにも悲しみにも気が付いていないようだった。その事にもまた順平はショックを受ける。
 すると横からすっと手が伸びてきたかと思うと、突然順平の頭をわしゃわしゃと掻き回し始めた。

「っ!?」
「ごめんネ〜、蒼衣ちゃん。コイツってば見かけに寄らず結構な人見知りでさぁ。きっと蒼衣ちゃんがあんまり可愛いから恥ずかしくて緊張してるんだヨ。」
「っ違……っ!」

 驚いて振り返った順平が見たのは、少しだけ申し訳なさそうに眉を八の字に下げて、それでも愛想の良い笑みを浮かべている勇の姿だった。
 しかもその表情のまま勇は順平の態度の代弁を全く順平の意に沿わない言葉で持って伝える。それを慌て否定をしようとした順平の体を後ろから抱きしめる様にして勇は抱き寄せるとさりげなく順平の口をその手で塞ぐ。

「順平ちゃんはネ、直輝とは高校からの付き合いなんダヨ。元々直輝がアマチュアボクサーやってた頃からの『大』が四、五コくらい付く熱烈な直輝ファンなんで、ちょ〜っと直輝ヒイキがドン引きレベルだけど、付き合えばイイ子だから良かったら仲良くしてやってネ? ちなみに順平ちゃん、今こんなチャラ男だけど、実は高校デビューなんだヨー。中坊の頃はすごーく真面目くんだったんだよネー?」

 くすくすと笑いながら腕の中でじたばたともがく順平をモノともせず勇はそう順平の変わりに順平の紹介をする。そしてさりげなく蒼衣に取った態度の説明も織り交ぜた。
 突然の勇の行動と言葉に浮きかけた腰を思わずストンと落とし、蒼衣は目を瞬かせながら順平の説明をする勇を見詰める。
 それに勇はくすっと薄く笑った後、軽くウィンクを蒼衣へと投げた。

「だから、俺は順平ちゃんと蒼衣ちゃんは仲良くなれると思うよ。直輝大好きな所とかそっくりだし、恥ずかしがり屋さんだし、ネ。」

 最後は少しだけ冗談めかしてそう付け加えると勇は腕の中で必死になって勇の言葉を否定しようとしてもがいていた順平の口を漸く解放する。
 口が自由になり改めて何か言い返そうとキッと勇を睨み返すと、勇は普段笑みの形に細められている瞳に違う色を乗せて順平の瞳を見返す。
 その瞳には、いい加減にしないと怒るよ、と言った表情がありありと浮かんでいて順平は文句を言いかけた口を結局噤んでしまった。
 それでも勇が蒼衣に言った言葉の中でどうしても否定しておかなければいけない事があり、順平は一つ小さく息を吐いた後、蒼衣を初めてまともに見る。

「……っ、俺は、べ、別にお前を可愛いとか思ってねーからなっ!! それに恥ずかしがってるワケじゃネーし!!」

 自分でも、何かこれは返し方が可笑しい、とは思ったが、順平はとりあえず真っ先に勇が言った言葉を完全否定する。
 あんな風に勇が言って、直輝に真面目と評されている蒼衣がそれを馬鹿正直に真に受け、自分が蒼衣の事を可愛いから恥ずかしがってそっぽを向いていた、なんて思われたくなかったのだ。
 だが、その返し方が良かったのか悪かったのか、一瞬ポカンと鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした蒼衣が、次の瞬間、口に手を当てて小さくくすくすと笑い声を漏らす。
 それに順平は、改めて自分の返し方がまずったものだったのだと知った。
 しかも蒼衣の隣では直輝まで苦笑に近い笑みを浮かべて、呆れたような表情を順平に向けている。

「やっ、だ、だから……っ、俺はっ、お前の事なんてこれっぽっちも可愛いとか思わねーしっ、大体男に可愛いとかありえねーし!! 後っ! 俺が直輝大好きなのはマジだけどっ、お前と一緒にされたくねーしっ!! 俺の方がファン歴なげーんだからなっ!! ちょっと直輝に構って貰ったからって勘違いすんじゃねーーぞっ!!!」

 蒼衣が何故笑うのか、直輝が何故呆れたような表情をしているのか解らず、順平は更にパニックになって意味不明な言葉を次々に発していく。それを言えば言うほど蒼衣は口に手を当てて、楽しそうにくすくすと笑い、その隣では直輝が苦笑をどんどんと深くしていった。
 そんな二人に順平は更に躍起になって文句を言おうとするが、それは勇に寄って阻まれる。

「ハイハイ、ストーーープ! それ以上言うと、順平ちゃんお店の人の視線独り占めでチョーアイドルになっちゃうヨ?」
「は? ……え……?」

 順平の隣でとうとう我慢できなくなった勇が順平の言葉にストップをかけ、更には順平の頭を一度わしゃわしゃと掻き回した後、その頭を店内を見渡すように無理矢理捻った。
 途端に順平の目に飛び込んでくる店内の光景。
 店内に数人居るウェイトレスは皆一様になるべく順平達の方を見ようとはしていなかったが、それぞれ笑いを堪えているように口元が小さくひく付いている。そして、順平達の近くに座っていたその他の客からはちらちらと好奇の視線を向けられ、数人で訪れている客はこの騒ぎを面白がっている表情で互いの表情を見合わせこちらには聞こえない声でこそこそと何かを話している。
 それを見て初めて順平は自分がどれだけ恥ずかしい事を口にして、必死になって見当違いの弁明を蒼衣に対してしていたのだと知った。
 途端に順平はカーッと羞恥心で頭に血が上り、短く刈り上げた項まで真っ赤になる程体中を茹で上げる。
 半ば腰を浮かして力説していたその腰を、ストンとソファに落とすと恥ずかしさといたたまれなさと気まずさに大きな瞳をキョロキョロと動かし、唇を噛む。
 それを見て勇は小さく肩を竦めると、テーブルの端に置いてあった伝票を手にした。

「……とりあえず自己紹介は終わったから、お店出る?」
「そうだな。そうするか、蒼衣。」

 にっこりと柔らかい笑みを浮かべ勇が提案すると直輝が二つ返事で同意を示す。それに蒼衣もコクンと頷いた。

「そうと決まったら、ほら、順平ちゃん出て、出てー。俺がまとめて払っとくから、みんな先に外出てていいヨ?」
「……っ。」

 真っ赤になって俯いてしまっている順平の肩を抱く形で勇はほぼ無理矢理に順平を通路側にへと送りだすと、そのままその脇をすり抜けてさっさとレジへ向けて歩いていく。その後ろを順平は足取りも重くとぼとぼと着いていき、勇の言葉に甘えてそのままカフェの外へと出た。
 途端に夏の日差しと暑さが順平の体を包み込み、その眩しさとじわりと汗が滲み出る感覚に順平は顔を顰める。

「うわ、アッチーッ。」

 そんな順平に後ろから声がかかる。
 さっきまでの不機嫌さはすっかり鳴りを潜めた声で直輝が自動ドアを潜りながら順平と同じように暑さに眉を顰めパタパタと手扇よろしく首筋を仰ぐ。その後ろから蒼衣もまた暑そうに少し顔を顰めて鞄を肩にかけ直しながら店から出てきた。

「本当、外に出ると暑いよね……。」
「まぁ、まだ九月になったばかりだしな。十月までは暑いんじゃねーの?」

 とても自然に直輝の隣に並びさっきまでの緊張の色をなくして直輝に話しかける蒼衣を見て順平はまた言葉に言い表せない苛立ちが胸の中に湧き上がる。しかも直輝も直輝で隣に蒼衣が立つのが当然の様な表情で顔をそちらに向けると、どこか普段とは違うような声のトーンで蒼衣の言葉に返事を返している。
 順平が面白くないと感じるのも致し方ない事かもしれない。
 憮然とした表情で睨みつける様に二人を見ていると、ついっと蒼衣の視線が動いて順平を見た。
 そして、一瞬きょとんとした表情をした後、まるで今まで緊張していたのが嘘のように順平に向けてふわりと微笑んだ。
 突然向けられた好意的な微笑みに、順平はぎくりと体を固める。

「っ、な、なんだよ……っ。」
「えっと……、壬生くんって、直輝くんのファンなんだよね? あの……、も、もし良かったら、その……、直輝くんのボクサー時代の事教えて欲しいな、って思って……。ね、ねぇ、直輝くん、かっこ良かった? 良かったよね?」

 蒼衣の微笑みにたじろぎながらも、元々釣り上がった形の瞳を更に釣り上がらせた状態で蒼衣に向けて好戦的な声で微笑みを向けられた事に対して問う。
 すると蒼衣は小首を傾げると、さっき勇が順平の紹介をした時に使った単語を口に出して確認した後、少しだけ頬を染め、瞳に好奇心を滲ませて直輝のボクサー時代の事を順平に尋ねる。しかも、ずぃっと一歩を踏み出し、背の低い順平の顔を上から覗き込むようにして返事を待っていた。
 一体どんな意図があってそんな事を聞くのか順平には解らず、その上、上から見下ろされありありと顔に不信感と苛立ちをその瞳に滲ませながら蒼衣を睨みつけていると、蒼衣の隣で直輝が小さく呆れたように溜息を吐いた。

「お前、それを聞いてどーすんだよ。」

 但し、呆れが向けられたのは蒼衣の方だった。きらきらと好奇心で瞳を輝かせて順平に詰め寄っている蒼衣に向けて呆れたような視線を投げて寄こし、手を伸ばして順平に詰め寄ろうとする蒼衣の腕を掴み行動を止める。
 すると蒼衣はぷうっと頬を膨らませた。

「だって直輝くん全然僕にボクサー時代の事教えてくれないじゃん。写真とかも見せてくれないし……。」
「そりゃお前……、」
「そんなの見なくてもいいヨー。蒼衣ちゃん。」
「こ、近藤くん……?」

 唇を尖らせて蒼衣は順平から直輝に向き直ると、直輝の顔を見下ろしながら不満を口にする。
 それに直輝は少しだけ困ったような苦笑を浮かべ、直輝なりの説明をしようかと口を開きかけたが、途中で会計を済ませてカフェから出てきた勇が話に口を挟んできた。
 直輝の言葉を引き継いだような、ぶった切る様な口調でそう言うと、にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべながら蒼衣に近づく。
 そして、さも当たり前のように蒼衣の肩に腕を回すと、そっとその耳に囁いた。

「直輝の腫れあがった顔とか、蒼衣ちゃんはあんま見たくないデショ?」
「え……?」
「直輝、確かに強かったけど、あの頃はあまり防御をしなかったから結構打たれまくってるんだヨ。だから……。」
「……勇。」

 勇が囁いた意外な言葉と肩に回された腕に蒼衣が驚いた顔で勇の顔を見上げると、勇は少しだけ悪戯っぽく笑い直輝のボクサー時代の説明をしようとする。
 しかし、それは直輝の不機嫌そうな声に阻まれ最後までは蒼衣に伝えられなかった。
 直輝の声に勇が視線を動かすと、さっきまで緩んでいた顔はすっかり不機嫌そうに歪められ、ぶすっと唇をへの字に曲げている直輝の姿がある。
 それを見て勇はひっそりと笑うと、蒼衣の肩から手を外す。

「はいはい。蒼衣ちゃんにはあんまりひっつきませんヨー。」
「っ、誰もンな事言ってねーっ!」

 降参のポーズを取りながら勇がそう言うと直輝の顔にさっと朱が差す。そして、勇の言葉を乱暴な声で否定した。
 だが、その否定が実は肯定の意味が含まれている事を勇はすぐに見抜くと、くすくすと意地悪く笑いながら、うんうん、と頷く。

「解った、解った。そういうコトにしといてあげるヨ。」
「っ、だっ、だから……っ! 違うっつってんじゃねーかっ!!」

 直輝も人並みに他人に対して執着するようになったんだね〜、なんて心の奥で妙な感心をしながら直輝をからかういい口実を見つけた勇はここぞとばかりに直輝の神経を逆なでするように直輝の否定を受け入れると、直輝は更に顔に血を上らせながら勇に食ってかかる。
 そんな直輝に勇は、本当解り易くなったなぁ、なんて場違いな感想を抱きながら、はいはい、と直輝を適当にあしらう。それでも直輝は尚も勇の言葉を否定していたので、ちょっとした意地悪のつもりで直輝に否定の真意を問う。

「じゃあなんで怒ってるんだヨ?」
「……、ボクサー時代の事、蒼衣にあんま言うなよ。」

 途端に直輝は渋い顔になると、蒼衣の隣に立っている勇の腕を取り、蒼衣から少し離れると、勇に対してしか聞こえないような小さめな声で勇が思ってもみなかった回答を口にした。
 あまりに予想外だった直輝の返答に、勇は一瞬きょとんと直輝の顔を見下ろす。
 勇に見下ろされた直輝は、ますます渋い顔をするとチラリと蒼衣の方に視線を走らせる。蒼衣はこの展開にどんな反応をしていいかわからず、かといって少し離れた場所で不機嫌そうにしている順平にまた話しかけに行く事も出来ず、手持ち無沙汰っぽくこちらを見ている。
 そんな蒼衣を目の端で確認した後、直輝は小さく溜息を吐くと勇に対して口を開いた。

「……あいつ、あんま暴力とか、殴り合いとか、そーいうの苦手なんだよ。俺のボクサー時代とか、スポーツじゃなくて、暴力一色だったろーが。」
「……まぁ、そう言う見方もあるかもねぇ。」
「だから、あいつにそーいう話聞かせたくねぇの。つー訳だから、お前もあいつに俺の暴力沙汰の数々言うんじゃねーぞ。」

 ひそひそと声を押さえて勇に何故ボクサー時代の話をするなと言ったのかの説明をする。
 その直輝の言葉に勇は意外そうな顔を隠そうともせず直輝に向けると、直輝の不機嫌そうな、それでもどこか薄く不安が覆っている瞳をして勇を見つめ返していた。
 直輝の瞳と表情にまた軽く驚きながらも勇は内心、なるほどね、と納得をする。
 つまり、直輝としてはあの時代の自分の姿と行動を蒼衣に知らせたくはないのだろう。
 すっごくかっこ良かったのになぁ、とそんな事を思いながらも、確かに暴力が苦手な人間には怖い話だろう、と言う直輝の言い分も良く解った。
 しかも蒼衣は確実に多少の暴力に対しても敏感に反応し、普通の人以上に恐れを抱くタイプだと勇の目にも映っている。

「……オーケー。蒼衣ちゃんには直輝の武勇伝は言わないヨ。」

 驚いた顔を引っ込めると勇は滅多にしない真面目な顔になり、直輝の提案を受け入れる。
 その顔と頷きに直輝は、小さくホッと安堵の溜息を吐くと幾分か不機嫌な表情を緩めた。
 勇はそんな直輝を見下ろしながら、この直輝の変化に酷く興味を惹かれる。夏休みに入る前の直輝はここまで他人に対して気を使ったり相手の心情を考えるタイプではなかった。ましてや、彼女だから、とか、親友だから、とかと言った線引きも贔屓も基本しない。誰に対しても、良く言えば平等に接し、悪く言えば誰に対しても気を使わない。だからこそ、モテる癖に恋人になった女の子とはその関係は長続きせず、特別扱いを受けない女の子達は直輝の元を離れて行く。そしてその不平不満をあちこちにばらまくのだが、直輝自身も他人に対しての執着や好意と言ったものが薄いせいか、去っていく女の子は追いかけもしなければ、去っていった瞬間に存在さえどうでもいいものになる。そのせいで女の子達にばらまかれた不平不満が直輝に例え届いたとしても、直輝は機嫌を損ねる事もなければ、その不平不満をばらまいた女の子に対して怒るでもない。強いて反応を返すとすれば、馬鹿みてぇ、と薄く笑うくらいか。
 つまり、直輝にとって相手が自分の事をどう思おうと基本興味のない事なのだ。それは例えば、勇でも、学校の先生でも、親でも兄弟でも、彼女だった人々でも同じ。
 それなのに、と勇は思い、チラリと視線を蒼衣に向けた。
 蒼衣は相変わらず手持ち無沙汰な表情でこちらの話が終わるのを待っているようだ。
 なんであの子にだけは、過去の事知られたくないんだろうねぇ、そんな事を思い、勇はくすりと笑う。
 答えは一つしか勇の頭の中には思い浮かばない。

「ま、とりあえずいつまでも店の前でたむろってても店の邪魔になるから移動しよっか。」

 頭に浮かんだ答えは口にせず、勇はそう直輝にこの話はこれで終わり、とでも言うように移動の提案をする。
 それに直輝は薄く笑うと、くるりと踵を返し蒼衣の元へと歩いていく。
 そして蒼衣に何か一言二言話をすると、今度は順平に声をかけて歩き始めた。
 どこに行くのかも決まってはいなかったが、それでも迷うことなく進む足取りを勇は少し後ろで見ながら、面白くなってきたなー、などと他人事のように思っていた。




 結局あの後、四人で少しだけ本屋や電気量販店をぶらついた後、かなり呆気なく解散となった。
 それと言うもの、順平は終始無言で不機嫌な表情で着いて回り、その事に蒼衣は申し訳なさそうな寂しそうな表情を浮かべて色々と気を使って話しかけてくる勇や直輝の話にも上の空でいた為に、早々に直輝が解散を言いだしたからだ。
 勿論それへの反論は一部を除き全くなく、申し訳なさで長身を縮め、勇と順平にペコンと頭を下げた蒼衣を連れて直輝はさっさと残りの二人に別れを告げ、夕闇に包まれ始めた町の中へと消えた。
 その後ろ姿をまだまだ遊び足りなさそうな、名残惜しそうな瞳で勇は見詰める。
 そんな勇の横で幾分ホッとしたような、だが、どこか納得がいかないような複雑な表情をその童顔に湛えて口を歪めたまま、直輝達が去った方角とは別の方角へ順平は視線を向けていた。
 直輝達の後ろ姿が人ごみに紛れ、見えなくなると勇は漸くそちらから視線を外し隣に立つ小さな陰へと瞳を向ける。
 上から見下ろしてもその雰囲気で順平が納得していない事を感じ取ると、勇は緩く口元を笑みの形に綻ばせると手を伸ばしてわしゃわしゃと順平の頭をいつものように撫でた。

「……っ、だから、お前はなんなんだよっ!!」
「ん〜? なんだろうね〜?」

 突然頭を撫でられて順平はびくっと体を固まらせた後、怒ったように怒鳴り、頭にある勇の手を振り払う。
 そんな順平に勇は瞳を細めて微笑むと、プリプリと怒っている順平を見下ろしながら、可愛いなぁ、とそんな事を呑気に思いながら、口を開いた。

「あのサ、直輝が構ってくれなくてサ、寂しいの解るけど、順平ちゃんには俺が居るでショ?」
「……、お前じゃ変わりになるかよ。」
「なんでヨ? 俺も結構喧嘩強いヨー?」
「馬鹿か。」

 くすくすとからかいを含んだ笑い声を忍ばせながら言われた言葉に、順平はむすっと顔を歪めると一刀両断にその言葉をぶった切る。
 言外に、喧嘩じゃ意味ねーんだよ、と言った意味を含ませて、順平は勇に背中を向けて直輝達が去った方向とは反対方向へと歩き始めた。
 順平の冷たく言い放たれた言葉に勇はだが、別段めげた様子もなく口元を軽く綻ばせた後、肩を怒らせて歩く順平の隣にひょいひょいと歩いて追いつく。

「ね、順平ちゃん。順平ちゃんってば。」
「……。」
「蒼衣ちゃんって、可愛かったね〜。」
「……。」
「本当真面目そうな子だし、素直でいい子みたいだし、見てて和むし……、直輝が気に入るのも解るナァ。俺、もっと仲良くなりたいナァ。直輝ばかりに蒼衣ちゃん独占されるのはちょっと面白くないし。ね、順平ちゃんもそう思うデショ? 蒼衣ちゃんいい子だから、また一緒に遊びたいよネ?」

 無言で歩いていく順平の横にぴったりと付け、勇は不機嫌さを前面に押し出している表情で勇の存在を無視して歩く。
 だが勇はそんな順平の機嫌の悪さなど全く気にする事なく順平に話しかける。だが、流石に蒼衣を絶賛するような内容ばかりを隣で聞かされ、更には遊びたいかどうかを順平にまで振ると、順平の足がぴたりと止まり、不機嫌さを通り越した殺気を滲ませた瞳で隣で人の良い笑みを浮かべている勇を見上げた。

「……っ、遊びたくねーよっ!! あんなオカマ野郎となんかっ!!」

 直輝の蒼衣への態度や、勇の蒼衣への態度が次々に脳裏に蘇り、散々我慢していた積もり積もった不満が勇の言葉を引き金になって爆発する。
 にこやかに笑っていた勇の顔が少しだけびっくりした表情になったのを睨みつけながら、順平は今まで抑えていた蒼衣への不満を勇へとぶちまけた。

「大体、なんでお前まであんなキモイオタク男を気に入ってんだよっ!! オカマみてーに無駄にロン毛だしっ、仕草とか妙に女ぽいしっ!! あんななよなよしてる奴が直輝のダチとか可笑しいじゃんっ!! それに、やたらおどおどしやがって……っ! 人見知りだかなんだか知らねーが、おどおど人の顔色ばっか窺いやがるし、その癖、たかだか一カ月程度の付き合いの癖に直輝にはあんな馴れ馴れしくしてやがって、見てて腹立つっ! 大体、あんな奴、普通だったら直輝のダチなんてなれねーじゃんっ! 直輝が気に入る要素なんて全然なかったじゃんっ!! そんな奴がなんで当たり前のように直輝の隣にいるんだよっ! 可笑しいじゃねぇかっ!! 直輝も直輝だよっ! あんなの傍に置いて楽しそうにするなんて、ぜってー可笑しいって! 何かあいつに弱味でも握られてんじゃねーの!? じゃねーと、あんなオカマ野郎を俺達より優遇する意味ワカンネェ!!」
「……それで全部?」
「っ。」

 一息に捲し立てた順平に勇はふぅっと溜息を吐いた後、普段は出さない低く冷たい声を出し、順平の不満がそれで全てかどうかを問う。
 初めて聞く勇の冷たい言葉と、自分を見つめる目の冷たさに順平は小さく息を飲んだ。そして、バツが悪そうに睨みつけていた目を伏せると、勇から視線を逸らす。
 夕暮れにそろそろ包まれる街中は、会社帰りの人間などがごった返しており、道の真ん中で怒鳴っている男と、それを冷ややかに見下ろす男の姿に道行く人も何事かと振り返りながらそれでも通り過ぎて行く。
 そんな人達を勇は軽く視線で流した後、すぐに順平に視線を戻すと言葉に詰まっている順平の腕を有無を言わさず掴んだ。

「っ、何すんだよっ!」
「移動するよ。ここじゃ人目が多いから、言いたい事全部言えないデショ?」

 勇に腕を掴まれ声を荒げたが、勇はそれには頓着することなく半ば順平の体を引きずる形で歩き始める。
 強制的に移動させられる事に、そして、腕を掴まれた事に順平は尚も声を上げるが勇はそれを無視して先を歩いていく。

「っ、だからっ、離せよっ!!」
「ダメ。大人しく着いてくる気、ないデショ?」
「……っ。」

 ずるずると引っ張られ、人の好奇の視線を向けられる事に順平は苛立たしげにまた声を荒げた。
 それに勇は一旦足を止めると、低く、はっきりした声で順平の言葉を拒否する。強い口調で拒否された事に順平はまた小さく息を飲んだ。
 明らかに勇が機嫌を悪くし、怒っているのが解り、順平は勇に引きずられながら唇を噛む。
 どいつもこいつも日向って奴の味方しやがって……、そんな苦い思いが順平の胸の中に溢れ、悔しさで目の前が霞んだ。
 自分でもどうしてここまで蒼衣の事が嫌で嫌で堪らないのかは解らない。そして、どうしてこんなにも自分が嫌な人間になっているのかも。
 順平にも今の自分が、勇や直輝、そして何より蒼衣から見て、とても嫌な人間に見える事など百も承知だった。
 だが、蒼衣の手が直輝に触れたり、直輝が蒼衣に笑顔を見せるのが堪らなく嫌で、不快だった。
 その明らかに異常とも思える負の感情に順平は、更に強く唇を噛む。
 こんなにも他人に対して、嫌だと思う不快感を今まで順平は味わった事がない。だからこそ、初めて自分の中に湧き上がった感情に戸惑いも感じてはいた。だが、その戸惑いも己の中にある理性をも上回る程、直輝の隣に当然のように居る蒼衣の存在が気に入らなかった。
 なんであんな奴が……。そんな負の感情がぐるぐると頭の中を周り、胸のあたりがもやもやと気持ち悪くなる。
 どうしてこんなにも日向蒼衣の存在を受け入れられないのか、そう考えてみても、順平の中でそれの答えは、気に入らない、ただそれだけしか今の段階では導き出せない。 
 そんな思いを抱いている順平を勇は引きずるようにして歩きながら、勇もまた順平のこの行動について考える。
 確かに今までも直輝の新しい友人になる相手には順平は最初は良い顔はしてこなかった。だが、それでもここまでの不平不満や悪意を抱く事はなく、暫くは多少ぎこちなくとも、ある程度の時間が過ぎれば新しく出来た友人とも打ち解け、仲良くなっていく。
 それなのに、何故蒼衣にだけはここまで順平が噛みつくのか。あんなにも敵意を剥き出しにするのか。
 ここまであからさまに直輝の新しい友人に対して不快感を示し、苦手意識を発揮し、相手を咎めるような言葉を口汚く罵る様な事は今まで一度もなかった。
 それなのに、と再度思いながら、本当になんで蒼衣ちゃんにだけ、あんなにも酷い態度とるかねぇ、そう胸の中で呟いた。
 とはいえ、勇にとってその答えは、ある意味明白ではあったのだが、それでもその答えが本当に正しいものかは今の段階では確証が持てない。
 嫉妬。独占欲――大まかに言えばそれらに答えは当てはまる。
 だが、他の“何か”を順平は多分無意識に感じ取っているのだろう。……勇が、あの二人の姿を最初に見た瞬間、感じ取ったように。
 その事を思い、あまりに解りやすいと言えば解りやすい“答え”に勇は、普段はしない皮肉を形作った笑みを唇に浮かべる。
 直輝は罪作りだネ、そんな締めの言葉を頭の中で呟き、勇はすでに抵抗する事を諦めて、無言で勇に着いてくる順平をチラリと見下ろす。
 順平は唇を薄く噛み締めた苦い表情で、俯きながら歩いている。

「……俺の家、行こうか。」
「……。」

 順平の表情に微かな反省の色を見出し、勇は薄く溜息を洩らしながらいつもの柔らかい口調で順平にこれから行く先をそう尋ねた。すると、順平はチラリと勇の顔を見てその表情を確認した後、コクン、と小さく頷く。
 それを見て、勇は緩く笑うと掴んでいた腕を離す。――もう、順平が自分に反抗する気も、逃げる気もないと見て取ったからだ。
 そのまま二人は無言のまま駅の方向へと歩き出した。