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NOVEL

Un tournesol 〜深き悩み、加えて、新たなる波乱?〜
09

注意) 女装姿

 淡く直輝の唇が蒼衣の唇をついばむ。
 驚いたように固まっている蒼衣に、薄く唇を押し当てながら直輝は内心自分自身に対して自嘲気味に笑った。
 どうにも蒼衣に触れる事が抑えられない。
 今だって、蒼衣の頭を撫でるだけで済ますつもりだった。
 なのに、無意識のうちに背伸びをし、こうして蒼衣の唇に触れてしまう。
 その事に少し呆れながら、それでも、こうして軽く触れるだけでもどこか浮き浮きしてしまう気持ちになる自分自身に直輝は、やはり自分に向けて苦笑するしかない。だが、その苦笑はどこか嬉しげなもので。
 仕方ねーよな、触れてーんだから。
 そう自身を納得させるように胸の内に呟き、直輝は薄くついばんでいたその唇を離そうとする。
 と、その唇が離れる寸前に直輝の鞄の中から携帯電話の着信音が鳴り響き、びくりと二人の体が固まった。しかもバイブレーターと相まって、デフォルトで入っているそのメロディーはけたたましく直輝に早く電話に出ろと責め立てている。
 その煩く鳴り響く携帯電話の音に、直輝は蒼衣から唇を離しながら、なんてタイミングの悪い、と、かかってきた電話に胸の内で悪態を付きながら背中にある鞄を前へと回す。そして、そのサイドポケットのファスナーを下げると中へと手を突っ込み、バイブレーターで震える携帯電話を取りだした。

「……なんだ?」

 サグディスプレイをチラリと見て着信相手が誰か確認した後、直輝は少し不機嫌そうな顔と声で電話に出る。
 その不機嫌そうな顔と声に蒼衣は、誰からなんだろう、と思う。だが、電話中の直輝にそれを聞く事は出来ないし、ましてや、漏れ聞こえる声に聞き耳を立てるのも悪いような気がしてこの至近距離が申し訳なくなる。
 電話の向こうでは相手がしきりに色々と話しかけているのか、小さく音が漏れ聞こえてきた。だが、直輝は憮然とした表情のまま、その音に、あぁ、や、それで?、など相槌だけを何度も打っているだけだ。
 会話らしい会話もなく、相手が一方的に話し、直輝が不機嫌そうに一応の相槌を打つ。
 その応酬が暫く続いた後、直輝がふいに視線を上に向け、一瞬蒼衣の顔を見る。そして、何故か更に機嫌を悪くしたような険しい顔になると、すぐに蒼衣から視線を逸らせて初めて相槌ではない言葉を口にした。

「……だったらどうだっつーんだ。はぁ? ンなん、知らねーよ。俺はもう会わせねーぞ。あぁ? だから、知らねーっつってんだろ。勝手にいじけるなりなんなりしてろよ。お前もつまんねー事にいちいち相手にすんな。……だから、嫌だっつってんだろ!ダメだ。……っ、なんで、そーなるんだよっ!! は……? っ……っ、な、なんでそれを……。……っ、くそっ。」

 低い、苛立ちの様なものを押し殺した声で電話向こうの相手に言い放った言葉に蒼衣の体がびくりと固まる。
 流石にこれは何かヤバい雰囲気だと思い、電話をしている直輝の横を通り抜け、玄関のドアノブに手をかけると小さな声で直輝に、外に出てるね、とだけ言って扉を開けようとした。だが、直輝の手がにゅっと伸びたかと思うと、そのまま蒼衣の手首をしっかりと掴む。驚いた蒼衣が振り返ると、明らかに機嫌が悪くなっている顔の直輝が、出なくてもいい、とでも言うように顔を左右に振った後、おもむろに蒼衣に向けて口を開いた。

「お前に代われってよ。」
「へ? え……? え? 僕、に……?」

 目の前に差し出された直輝の携帯電話と直輝の機嫌の悪そうな顔を数回見返し、蒼衣は困ったような顔をする。
 突然、電話を代われと言われても蒼衣には何がなんだか解らない。そもそも、電話の相手が誰かさえも解らないのだ。

「え……? で、でも……。」
「いいから。お前からきっぱり断ってやれ。」
「え?」

 無理矢理蒼衣に電話を握らせると、直輝を蒼衣の顔を見上げながらとっとと電話に出ろとその視線で蒼衣に強要する。
 その直輝の視線と、言葉に蒼衣はますます困惑した顔になりながらも、握らされた電話を恐る恐る耳にあてた。

「あ、あの……、も、もしもし……?」

 一体誰なんだろう。そんな思いを抱きながら、バクバクする胸を抑えつつそっと電話の向こうの相手に話しかける。
 と。

『あ、蒼衣ちゃん〜? 俺。俺だヨ〜。解る〜?』

 直輝の不機嫌さとは百八十度も真逆の、やたらに軽くて明るい声が蒼衣の名を呼んだ。その声と、その独特のイントネーションに蒼衣は聞き覚えがあり、びっくりした顔をすると、直輝を見た。
 直輝は相変わらず憮然とした顔でイライラと唇を噛んでいる。
 その直輝の表情と、今電話の向こうで話している相手の軽さと明るさがどうにも結びつかず、蒼衣はさっきとはまた色の違う困惑の表情を浮かべた。

「え、えと……、近藤、くん、だよね……? え……? なんで……?」
『そうそう。近藤。解ってくれて嬉しいヨ〜! 突然ごめんネ〜。蒼衣ちゃんの携帯番号知らなかったカラさ〜。直輝に無理言って代わって貰っちゃった。』

 聞き覚えのある声の主の名前を恐る恐る尋ねてみれば、相手、近藤勇は嬉しそうに電話向こうで笑い、そして快活に蒼衣に話しかけて行く。
 そんな勇の声に、言葉に蒼衣は更に困惑を深めて直輝をチラリと見たが、直輝は相変わらず憮然とした表情で腕を組み、なにかしら考えているような素振りで押し黙っていた。
 直輝のその態度に直輝自身も勇のこの行動に戸惑っているのを蒼衣は知る。だから、とりあえず勇がどんな意図でこんな風に直輝に電話をして、更に何故自分に代わるように言い始めたのかを知る為に、電話から聞こえてくる勇の言葉に耳を澄ます。

『あ、でも蒼衣ちゃん。昨日言いそびれちゃったんだけど、その近藤くんってのヤメてネ〜。勇ちゃんが言い難いなら、勇、って呼び捨てでいいヨ。俺達もう友達なんだからサ。堅苦しいのナシで。』

 明るい声で何故直輝の携帯に電話し、蒼衣に変わって貰うかの説明をしていた勇だったが、途中で不意に妙に真剣な声色になったかと思うと、そんな事を言い始める。
 その勇の注文に蒼衣は電話を耳にあてたまま、酷く困った顔をした。そしてそれはそのまま声にも現れる。

「え……、そ、それは、その……、すぐには……。」
『えー、遠慮してんなら気にしなくてイイヨ。俺はもう、蒼衣ちゃん、って呼んでんだカラ。あ、ね、じゃ、せめて、勇くん。これなら、それ程抵抗ないでショ? で、段々慣れたら、勇、って呼んでネ。』
「っ……ぅ、え……、えと……、う……、わ、解った……。」
『やった! ありがとネ〜!』

 蒼衣の戸惑いの声に、勇は明るい口調で、だが半ば強制的に自分の呼び方を蒼衣に押し付ける。その強引さに電話越しとは言え押され、蒼衣は、渋々困った顔をしながらも頷いた。すると、昨日喫茶店で蒼衣が、勇にちゃん付けで呼ばせる事をOKした時のように電話の向こうで、喜びの声を短く発した後、勇は本当に嬉しそうに蒼衣に向けて礼の言葉を述べる。その本当に嬉しそうな声を聞いていると蒼衣としても、まぁこんなに喜んでくれるのなら……、と納得するしかない。
 尤も、確かに勇が言うように、ちゃん付けや、呼び捨てに比べると、まだこちらの方が抵抗もないし、言い易いと言うのはあった。
 だから、少し気恥ずかしいけど、まぁ、いっか、と蒼衣は思う。
 しかしふと視線を直輝へと向けると、直輝は玄関の壁にもたれかかったまま腕組みをして先ほどよりも更に不機嫌な顔で、いつの間にか思考の海から脱出して蒼衣の握っている携帯電話を睨みつけていた。その顔を見て、蒼衣はさっき直輝が言った言葉を思い出す。
 お前からきっぱり断れ。
 確かに直輝はそう言った。
 それはつまり、この事を指し示していたのではないか、と言う事に蒼衣は今更ながらに思い当たりハッとして電話の向こうに、改めて少し時間を下さい、と言おうと口を開きかける。だが、その前に勇の方から蒼衣に話しかけてきた。

『あ、それでサ。話逸れちゃったんだケド。本題ネ。』
「え……? 本、題……?」

 勇に本題と前置きをされ、蒼衣は戸惑った顔で直輝へ視線を送る。すると、直輝の眉がピクリと動き、更にその瞳が険しいものへと変わる。
 そして苛立ったようにその目元をひく付かせた。
 直輝のその態度に、今話をしていた事が先ほどの直輝が言った言葉を指し示す内容ではない事を蒼衣は知る。だから、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 それにしても一体、何なんだろう……本題って。胸の内で小さくそう呟き、なんとなく蒼衣の胸に嫌な予感が湧きあがった。
 ただ勇が蒼衣に電話に代わって欲しい、というだけなら、直輝もこれ程まで機嫌を悪くする事はないだろう。多少、不機嫌そうにしたとしても。電話を代わり、こんな話をするだけならば、それ自体は直輝にも蒼衣にも多少その強引さにびっくりしたりしてもなんら勇と蒼衣が話をする事自体は問題などないのだから。
 と、言う事は今から勇が言う『本題』というのがきっと直輝のこの機嫌の悪さを助長しているのだろう。それもただの話ではなく、何らかの提案に違いない。提案だからこそ、直輝は『断れ』と、蒼衣にあらかじめ伝えたのだ。
 そう、直輝の言葉を理解すると、蒼衣は電話の向こうから聞こえて来る筈の勇の声に耳を澄ます。
 一体どんな提案をされるのだろう。
 勇が言い出しそうな事など、まだ一回しか勇に会った事のない蒼衣には全く想像ができない。
 不安に思いながら、あれこれと考えていた蒼衣の耳に、まるで蒼衣の不安など大した事がないとでも言うような勇の呑気な声が聞こえてくる。

『あのネ、本当突然でゴメンなんだケド、今から会えないカナ〜? 今、俺達、昨日蒼衣ちゃんと初めて会ったカフェの近くに居るんだケド、確か、蒼衣ちゃんってコノ辺に住んでるって昨日言ってたよネ? だからちょっとでもイイんだけど、会えない?』
「へ……、え? 昨日の……? って、え、会うって……っ?! えっ、今から? えぇーーっ?! そ、それはちょっと無理……!」
『え、ナニ? なんでそんな嫌そうに驚くの? てか、俺達と会うの、マジでイヤなの? ……嫌、なんだ……。』

 耳から聞こえた勇の言葉が一瞬蒼衣の耳から脳を通り過ぎた後、改めてはっきりとその意味が頭に入ってくる。そのあまりに突然の勇の提案に蒼衣は大きく目を見開き、思わず大きめの声を出して自分の姿を見下ろしてしまう。今、蒼衣が着ている服は間違いなく女物で。到底、勇達の前に姿を現せるような格好ではない。
 だから、勇と会う事自体は嫌という訳ではなかったが、こんな恰好では会う訳にはいかない、というそんな驚きを込めて思わず大きな声が出た訳だ。
 そして、そんな蒼衣に向けて電話の向こうでは勇がびっくりしたような声を出し、蒼衣の言葉と声に含まれた驚きにショックを受けたのかのようにちょっと困ったような、悲しそうな声を出した。
 それもその筈だ。蒼衣の今現在の状況など知る由もない勇としては、思いもしなかった蒼衣の驚きと拒絶が含まれた声に珍しくショックを受けていた。
 昨日、勇が見た限りでは蒼衣は突然会おうと言っても多少の躊躇はあっても会ってくれそうな雰囲気があったし、そもそも人の誘いをこんな風に拒絶できるタイプにも見えなかった。直輝の友人という位置づけにある勇であれば尚更断るとは思えない。
 だからこそ、こんな風にどこか嫌そうな声で断られる事は想定の範囲外だった。
 その為、勇は自身の想像していた展開とは違うこの蒼衣の反応に、ショックを覚え、普段ならばあまり面に出さない感情を言葉に込めてしまった。
 しまった、とは思ったが、無意識に出てしまった言葉を今さら撤回する訳にはいかない。だから、それ以上は口をつぐみ、勇は蒼衣の出方を待つ。
 そんな勇の声と言葉、それから黙りこくってしまった電話相手に蒼衣は更に困惑を深めた顔でおろおろと視線を彷徨わせ、どうしようかと直輝を見る。
 すると直輝は、断れ、と声なき声で蒼衣にジェスチャーで返答を示した。

「あ、あの……近どぅ……勇、くん……? あの、大きな声出してごめんね……。え、えっと……、その、今日会うのは……その、嫌な訳じゃないんだけど、……その、今日は、ちょっとどうしても都合が悪くて……。」

 直輝の後押しに蒼衣は小さく頷いて同意の意思を示すと、申し訳なさそうな声を出して控えめに勇に対して断りの文句を口にした。
 だが、その途中で勇が言葉を挟む。

『え? でも今日は直輝と一緒に一日中遊ぶんでしょ?』
「え……? え、なんで……そう、思うの……?」
『だって今、直輝と一緒に居るジャン? こうやって直輝に電話変わって貰ったワケだし。それに今日は二人ともバイトないんデショ? んで、今、そうやって一緒に居るってコトはこのまま一日中、二人で遊ぶんデショ? まさかこの時間に一緒に居るのに、このままバイバイするの? しないよネ?』
「……っ、僕、昨日バイトないって、近藤くんに言ったっけ……?」

 淡々と蒼衣の疑問に答えていく勇の言葉に、その中にあった一文に、蒼衣は自分の耳を疑う。
 確かに、今日はバイトはない。でも、その話を勇にした覚えは蒼衣にはなかった。
 そもそも勇達と居たあの短い時間の間に、そこまでプライベートに関する話題は出なかったし、あの時した話は、本当に当たり障りのない程度だ。勇に聞かれた事を離した程度。それも、全て真正直に答えた訳ではない。
 例えば、家の場所などは流石に細かい住所などを言うのは躊躇われ、直輝達と合流したカフェの近く、と当たらずも遠からずな答え方をしていた。
 バイトの事に関しても、一応はしているとは言ったが、その詳細な業種やどんな場所でしているかは勇には話していないし、勇も蒼衣が全てを素直に答えてくれるとは最初から思っていなかったのか、それ以上深い追求はせずに、そうなんだ〜、で流していてくれていた。
 だから、バイトが今日休みだという話は勇には一切していない。したのは、直輝にだけ。それも勇達から少し離れて二人になった瞬間に会話の流れで軽く話した程度。
 それなのにどうして……、と蒼衣が訝しがっていると、電話の向こうで勇が少しだけ申し訳なさそうな声を出した。

『あ、ゴメンネ。昨日、蒼衣ちゃんが直輝と話してるの、聞こえちゃったんだ。CDショップでサ、明日バイト休みなんだーって、直輝に話してたデショ? 俺、耳良くってサ。煩い所でも、知り合いの声だけ選別できる特殊能力の持ち主ナノ。これ内緒ネ?』

 電話向こうの蒼衣の感情を電話越しに嗅ぎ取った勇が何故今日蒼衣と直輝が遊ぶ予定だったのかの理由を口にした。軽い口調で、悪気なく、まるで冗談を言うように、あはは、と笑いながら昨日、蒼衣と直輝がCDショップでCDを見ながらしていた会話を小耳に挟んだだけだと言うその言葉に蒼衣はまた困ったような顔をして、信じられない、と思った。
 蒼衣と直輝が今日の話をしていたのは、本当にかなり店内放送や有線放送で煩かった店内なのだ。しかも、勇は別段蒼衣達の隣に居た訳でもない。先ほども言ったが、蒼衣が直輝にその話をしたのは勇達と少し離れたその隙間の事だ。あの時の勇は、蒼衣とも直輝とも少し距離を取った場所で確かDVDのパッケージを見ていたような気がする。距離にしても、到底話し声が聞こえる距離には思えない。もし勇の、知り合いの声だけ選別できる特殊能力の持ち主、というその話が本当ならば、一体どれだけの広範囲で知人や友人の声を聞き分け、その内容まで把握しているというのか。
 その事を想像し蒼衣は、少しだけ勇と言う人間が怖くなる。
 と、その蒼衣の雰囲気を電話越しでさえ感づいたのか、勇が更に続けて口を開いた。

『あぁっ、ゴメンっ、ひょっとして怖がらせちゃった?! ヤだなーっ、ジョウダンだよー! 特殊能力っていうのは冗談! ここ笑うところダヨ! 蒼衣ちゃん本当真面目だネ。えっとね、本当の種明かしすると、聞こえてたってのはウソ。本当は、ちょっとかまかけたダケ。俺ネ、あー、……まぁ、これも特殊能力って言えばそうなんだけど、ホンのチョットだけ人の唇が読めるんだよネ。簡単な単語とかそういうのダケだけど……。だから二人の実際の声は聞こえてはないんダ。ただ、二人を見てた時の雰囲気と唇の動きでそう判断したダケ。』
「か、かま、かけ……? 唇、を読んで……? そ、そう、なんだ……。で、でも、なんで……そんなに僕達を、見てた、の……? なにか、そんなに見るほど、僕達、変、だった……?」
『えぇっ?! そんなっ、変だなんて思ってナイヨ!! 本当、ゴメン! すっごくゴメンネ……! 直輝が珍しく本当に楽しそうだったからサ、蒼衣ちゃんと二人っきりだとどんな風な表情をしているのか、どんな話し方をしてるのか、ちょっと気になっちゃってサ……。それで思わずずっと君達を目で追いかけてたんだよネ。で、その途中で、蒼衣ちゃんと直輝が話してるその唇を見てて、それでなんとなく喋っているコト予想したダケ。あっ、でも別に意地悪したいワケじゃないし、怖がらせたいワケでもないからっ。本当、驚かせてごめんネ。もうそんな見ないカラ。』

 勇に種明かしされ、少しだけホッとはするが、それでも、逐一監視され、そして見ていた直輝と蒼衣の唇の動きからここまでの想像を働かせたその行動に蒼衣は勇に対して不信感を募らせる。いや、不信感というよりは、勇の行動の不可解さへの警戒心。
 何故、唇を読むほどそんなにも自分達をつぶさに見ていたのか。
 だがすぐに、自分と直輝の関係を勇に感づかれたのでは、だから、その証拠を掴むために見ていたのでは、という事に思い当たり、蒼衣は不安と不信感と警戒心とがないまぜになった複雑な心境のまま、勇にどうして自分達をそんなにも見ていたのか、という事を恐る恐る尋ねる。
 するとそんな蒼衣の不安の感情を読みとったのか、電話の向こうで慌てたように勇はそれこそ頭を地面につけるような勢いで蒼衣に謝って来た。そして、何故そんな事をしたのかの理由と、もうそんな事はしないという言葉を電話越しに蒼衣に伝える。
 それを聞きながらも、蒼衣は表情を曇らせたまま暫く勇の言葉に返事はしなかった。
 それは一重に、勇の言葉が信じられなかったからだ。
 蒼衣にとって勇は昨日初めて会った人間で。まだ、その人となりというものを把握しきってはいない。最初見た印象では、明るくて、人当たりが良くて、良い人そうで、少々強引な所はあっても人見知りをする蒼衣に気遣ってくれたりと、本当にかなり好印象を抱いた相手だった。それでも、その時から、なにか得体のしれない、まるで虚構を見ているような、そんな不思議な感覚を覚えていた。誰に対しても公平のように見せて、その実、ちらりと冷たい面を見せたり、どこまでが本心なのか、冗談なのか、はたまた思ってもいないただの社交辞令なのか、相手に単に話を会わせているだけなのか、それとも本当に親身になっているのか、勇と話せば話すほどそれは分からなくなりそうな不思議な感覚と、戸惑いを蒼衣に与えている。
 だから、勇がどれ程真剣に電話向こうで、もうしない、と言ったとしても、それが本心からなのか、それともその場を取り繕う為の言葉なのかが今一つ電話だけの声からでは掴みきれなかった。
 しかし、流石に耳元で何度も何度も謝られると、元々人が良い蒼衣は段々と勇の言葉を、謝罪を、信用しないのが悪いような気分になってくる。
 それでもすぐには言葉を発する事は出来ず、ただ押し黙って勇の謝罪の言葉が流れるままにしていた。

『……本当に、ゴメンネ。もう二度とそんなストーカみたいなマネしないカラ。その事も含めて、改めて会って謝りたいんダ。だから、本当無理言ってるって分かるんダケど、ちょっとでもいいんダ。今日これから会ってくれないカナ……? あ! そ、それにネ。俺だけじゃなくて、もう一人、蒼衣ちゃんに謝りたいって子もいるし……。』

 だが、何度も続く謝罪の後に付け足された言葉に蒼衣の表情に少しだけ変化が訪れる。
 電話向こうに居る人間は勇一人だけだと思っていただけに、もう一人、と言われ、いったい誰が謝りたいって言ってるんだろう……、何を謝りたいんだろう、とそちらに気持ちが動いた。
 だから、少しの戸惑いの後、蒼衣はつぐんでいた唇をゆっくりと解すように動かす。

「……、もう、一人……?」
『うん。って、……あ、あぁーっ! 俺ってば、一番肝心な事言ってなかったネ。ゴメン! あのネ、昨日会ったデショ? 壬生順平ちゃん。彼がネ、蒼衣ちゃんに酷い態度取ったってものすご〜〜〜〜く反省しているカラ、蒼衣ちゃんはもちろんだけど、直輝にも直輝のダチに酷い態度取ったってコト謝りたいんだって。……だから、その、ダメ、かな? 今日は、本当に、会えないカナ? 後に伸ばせば伸ばすダケ、こういのってこじれちゃうし、俺、二人にも仲良くなって貰いたいんだヨ、ネ。だから……、ダメ、かな?』
「……っ、そ、それは……っ、その……。」

 蒼衣が興味を引かれた事に気が付き、そう言えば蒼衣が尚更断りづらくなるのを見越しているのだろうか。勇は順平の名を出し、蒼衣が昨日のあの態度を気にしていた事をさりげなく突く。そして、更には蒼衣の同情を誘うような弱々しい声でもう一度、会えないか、と打診する。
 その声と言葉を聞き、蒼衣はますます困惑を深め、思わずチラリと直輝に助けを求めるような視線を送った。
 その明らかに、どうしよう、と思っている事がありありと浮かんでいる視線に、今までの蒼衣の言葉と態度でどんなやりとりをしていたのかをなんとなく把握していた直輝の目元がぴくぴくと震える。
 そして忌々しそうに唇を歪めたまま壁に預けていた背を離し、蒼衣の傍へ寄ると、その手から携帯電話を奪うとそのまま自身の耳へと押し当てた。

「勇。てめぇ、いい加減にしろよ。蒼衣を上手く丸めこもうとしてるみたいだが、今日はどうやったって無理だからな。大体、てめぇ、かまかけたってどういうことだ? あぁ?! 蒼衣を試すような事して何考えてんだ?! それから、お前、なんで俺達が今日バイトねぇって決めつけてんだよ。どうせお前の事だから昨日、俺達の動向を勝手に観察してたんだろうが、そーいうのヤメロよな。ダチだっつっても、感じわりぃぞ! 大体が、俺達が今日遊ぼうがどうしようがてめぇには関係ねー事だろうが。そもそも最初から今日は無理だっつってるだろーが。それなのにそこまで蒼衣に食い下がるたぁ、どういう事だ、あぁっ?」

 電話向こうで聞こえる勇の言葉を遮るように直輝は、今しがた蒼衣に対して勇が言ったであろうことや、蒼衣が口にした言葉をまとめて勇の態度に対して怒りをあらわにした言葉を一気にまくしたてる。
 そんな直輝の言葉に、勇はどう思ったのか暫く押し黙った。
 だが、少しの沈黙の後、ゆっくりと息を吐き出しながら口を開く。

『……それについては本当に直輝にも蒼衣ちゃんにもスゴク悪いコトをしたと思ってるヨ。でもさ、直輝。さっきも言った通り、順平ちゃんも本気反省してるんだヨ? 昨日あんな対応しちゃって、あんな別れ方したから早く仲直りしたいんダヨ? その気持ちも汲み取ってあげてヨ。直輝だって友達同士がいがみ合ったママじゃ、嫌デショ? 二人を仲良くさせたくないノ?』
「そんなん知るか。あいつのは自業自得だろ。勝手に拗ねてるのもあいつ自身じゃねーか。仲良くするも何も、そんなんは当人同士が決めることだろーが。てめーがしゃしゃり出る幕じゃねぇ。……とにかく、もし蒼衣に会いてぇって言うなら、また日を改めてからにしろ。今日は絶対にダメだ。解ったな。」
『ちょ、なお……っ。』

 勇の必死の言葉にも直輝は耳を貸さず、何か言いかけようとした勇の言葉を最後まで聞く事なく、ブツっと音を立てて携帯電話の通話を切る。
 そして、携帯の電源を落とすと、そのまま鞄のサイドポケットに放り込んだ。

「ったく、あいつも何考えてんだか。」

 吐き出すように苛立ちを込めた声でそう呟いた後、小さく溜息のような息を吐く。
 そんな直輝を蒼衣は相変わらず困ったように見る。その蒼衣の視線に気がついて、直輝が顔を上げた。

「どうした? 蒼衣。」
「ん……、なんか、いいのかな……。」
「お前が気にする必要はねーよ。順平にしても勇にしても、あいつらの自業自得だ。」

 不安を内包した瞳を揺らす蒼衣の顔を覗き込むようにして、蒼衣の不安を直輝は呆れた口調でぶった切ると、しょんぼりと下がっているその肩を元気づけるように軽く叩く。そのままその手は上に上がり、蒼衣の髪を優しく撫でた。

「でも、こんどう……じゃなくて、勇、くん……、本当に申し訳なさそうだったよ? 凄く何回も謝ってくれたし……。」
「あいつはあーいうの得意なんだよ。」

 直輝が触れるその心地よさに多少先ほどまでの不安や、杞憂は癒される。
 それでも蒼衣の耳には、先ほどまで耳元で本当に心から申し訳なさそうに謝っていた勇の声がこびりついて離れない。だから、あんなにも突っぱねてしまった自分が申し訳なくて、謝ってくれた勇を許す事もなく電話を切ってしまった事が気がかりだった。
 しかし、蒼衣のその申し訳なさそうな言葉に、直輝は小さく苦笑して、まるで気にする必要などないとでも言うかのように、そう勇の謝罪が本心からとは言い切れないと断言する。
 その事に蒼衣は驚き、目を丸くして直輝を見下ろした。

「え? 得意って……。」
「謝るのも、取り入るのも、丸めこむのもお手のもので、調子が良いと言うか、要領がいいっつーか、外面がいいっつーか……、ま、今回の事はそれなりにあいつも反省してんだろうが、あいつの殊勝な態度に騙されんな。あいつがあーいう態度取る時はぜってー何か裏があるからな。しかも、それは大抵あいつだけが楽しいと感じる遊びの前触れだ。いい年こいて、あーいう所だけはいつまで経ってもガキっつーか、俺達の中で一番普段は大人びてる癖に悪ふざけがヒデーからな、あいつ。しかも男にだけやたら滅多らベタベタしやがる。だから、蒼衣気をつけろよ。あいつの人当たりの良い顔に騙されんな、マジで。気を許した瞬間にあいつのセクハラの餌食になるぞ。」

 本人が目の前に居ないにも関わらず律儀に先ほど勇に押し切られた呼び方を慣れない感じで口にした事と、まんまと勇の術中にはまりそうになっている蒼衣に、直輝は小さく苦笑をした後、その苦笑を取り消すと真剣な表情と声で注意を促す。勇と言う男がどれだけ、外面の良い、腹黒い男かを蒼衣に知らせるために。
 直輝としてみればこのまま蒼衣が勇の術中にはまり、あの真剣さにほだされて勇に会いに行こう、と言い出すのは避けたい事だった。
 勇と今の状態で会うのは色々な側面から見て、危険極まりない。
 勿論、蒼衣が今、女装をしているというのもある。
 だがそれ以上に昨日のように改めて自分と蒼衣の関係をつぶさに観察し、友達以上の感情を互いに抱きつつあるのに気がつかれるのが嫌だった。
 それに、事実今蒼衣に言ったような行動を取る勇への危惧もある。
 勇の術中に蒼衣がはまるのも嫌だが、一番の問題は勇がこちらを巻き込んでまで自身の楽しさを優先してしまうかもしれない、その事だった。
 子供のころからずっと一緒に居ただけに、感情を読みとり難い勇であっても、直輝はそれなりにその行動パターンは把握している。
 だから、確実にこれから先も勇は蒼衣に何とかして取り入ろうとするだろう。悪い言い方をするなら、まとわりつき、蒼衣の懐に入り、蒼衣を手懐けようとする筈だ。
 一目見て気にいった相手であるなら尚更。
 そうなってしまえば、確実に今のように蒼衣と二人っきりになるのは難しくなる。
 勇にその気はなくても、結果として直輝と蒼衣の二人の時間を邪魔するようになる。これだけの密度で蒼衣と会っていても、二人の関係は遅々として先に進まないのだ。ここに勇の存在が入ってくれば、それはさらに進まなくなるだろう。
 ……それに関しては、とっとと答えを出せばいい事だと言われてしまえばそれまでだ。だが、何分直輝としては蒼衣との付き合いに対して軽はずみな答えを出したいとは思ってはいない。蒼衣の生い立ちや、今までの経緯を鑑みても、今の友達以上の感情があるかもしれない、というだけの段階で安易に答えを出していいものだとは思えない。
 答えを先延ばしにすればするほど、蒼衣を傷つけてしまうかもしれないという恐れはもちろんある。
 それでも、直輝なりに真剣に考え、蒼衣の過去現在未来の全てを少しでも背負えるようという自信が出来るまでは、蒼衣と二人で自分達の関係を築き、考えていきたいと思っているのだ。
 それに自分と蒼衣の関係に勇が気がつけば、意外にお節介な勇の性格上、――同性愛に対して寛容な場合という条件付きだが――、どうにかして先に進ませようとお節介を焼いてくる可能性も否定できない。また、あまり考えたくない可能性でもあるが、その逆もあるかもしれない。
 つまり、蒼衣を気にいりすぎて勇が自分達の関係に亀裂を入れるように動く可能性もゼロではないのだ。もちろん、直輝としては勇が同性愛の気があるとは思ってはいないが、それでも、自分がそうであったように勇までも蒼衣に心を動かされる可能性もゼロではないのだから。
 そして直輝自身の優柔不断さが招いたこの関係ではあるが、それでも直輝も蒼衣も自分達で考え答えを出したいと思っている。それを、他人に掻き回されたくない、お膳立てをされたくない、最悪壊されたくない、というもの本音だった。
 だから蒼衣には、これ以上勇を信用するなと、さりげなく勇の悪行を織り交ぜて蒼衣に注意喚起をする。それは、蒼衣が勇に心を許し、そのせいで素直な蒼衣の心を勇の悪戯心でかき乱し、弄ばれたくないからだ。
 だから、言葉にも力入る。蒼衣に語る目にも真剣さを帯びる。
 そんな直輝の口から語られる勇の姿に、蒼衣は少しだけ目を丸くして直輝を見た。
 直輝の言葉が表しているのは直輝から見た勇の確かな人となりだろう。悪口すれすれのそれに、だが、蒼衣が感じ取ったのは確かな親しみだった。
 ――直輝の思惑とは裏腹に。
 その言葉の端々から感じる直輝の勇への友情というか、仲の良さゆえの口の悪さに、思わず蒼衣は口元を綻ばせる。

「……勇くんと、本当、仲良いんだねー。」
「はぁ?! 冗談じゃねー! あいつとは腐れ縁だよ。腐れ縁! 小坊の頃からただなんとなく一緒につるんでるだけだ。特別あいつと仲が良い訳じゃねー!」

 蒼衣の微笑みに直輝が怪訝そうに眉を寄せたのを見て、蒼衣が勇との仲の良さを口にすると、直輝は心底嫌そうに顔を顰めた。そして、盛大に蒼衣の言葉を否定する。
 だが蒼衣の目から見てもそれはただの照れ隠しにしか見えず、それがまた可愛く見えて、くすくすと笑ってしまった。

「っ、だから、違うっつってんだろー!」
「何も言ってないよ。……でも、なんだかちょっと羨ましいな。勇くん。」

 くすくすと笑う蒼衣のその笑みをどう取ったのか、直輝が一層顔を険しくして否定の言葉を口にする。それに蒼衣はアハハ、と笑って見せ、その後にちょっとだけ本当に羨ましそうに瞳を細めると小さく呟く。
 蒼衣のその呟きに直輝は顰めていた表情を、少しだけ困ったように変えると、それ以上の否定は口にせずポリポリと頬を指先で掻いた。
 そして何故蒼衣がそんな事を呟いたのかなんとなく解っては居ても、羨ましいと言われたのが勇だった為、つい唇を尖らせて蒼衣に聞いてしまう。

「なんで、あいつが羨ましいんだよ。」
「えー、だって直輝くんにすっごく理解されてるっぽいんだもん。直輝くんがどんなに否定しても、仲、本当に良さそうだし。昔からの友達って良いよね。気兼ねがなくて、良い事も悪い事も共有してて。そんな関係もちょっと羨ましいなぁ。そんな関係を直輝くんと築いてこれた勇くん達がちょっと羨ましいな……って。」
「……そんなん、これから幾らでも築けるだろ。」

 蒼衣がどんな想いでその言葉を口にしているのか直輝には解らなかったが、少しだけ拗ねたような表情を見せた蒼衣に、直輝は口元に苦笑に近い笑みを浮かべながら蒼衣の頭を手荒く撫でた。
 言葉の最後に、俺と、と言うのはあえて付けなかった。
 だが、蒼衣はその言葉にならなかった言葉を読み取ったかのように一瞬大きく驚いたような顔をした後、ふわり、とそれはそれは幸せそうに破顔する。

「えへへ……、そう、かな?」
「当たり前だろ。ま、ただ、俺と勇達が築いたものと、俺とお前が築いたものじゃ、築き上げる形は全然違うもんになりそうだがな。」
「え……?」

 はにかんだような笑顔で、それでも、控えめに尋ねる蒼衣に、したり顔で直輝は頷いた後、意地悪な顔になる。そして、蒼衣の頭をぐいっと引き寄せると、間近になった蒼衣の顔にウィンクをしてみせた。
 その直輝の意地悪な顔と言葉に、一瞬蒼衣は戸惑った表情を浮かべ、瞳に少しばかりの不安を滲ませる。違うもの、という事は、友達としての形ではないという事なのだろう。そうおぼろげに理解をすると、それが蒼衣の中にいつもある、直輝との関係の未来に対しての不安、を大きく揺さぶる。
 だがそんな蒼衣に直輝は一層意地悪な顔をして見せると、半開きになっている蒼衣の唇に自身の唇を押し当てた。
 蒼衣の唇に引かれている口紅とグロスが落ちるのも構わず、深く口付け、まだ口の中に収まったままでいるその舌を吸い出し舌を絡める。突然の直輝のキスに、一瞬だけ蒼衣の体がびくっと震えたが、すぐに目を閉じると、直輝のキスを受け入れた。
 喉の奥を小さく、ん、と甘く鳴らし、直輝に抑えられている頭を自分からも直輝の身長に合わせて下ろし、位置を変えて直輝がキスしやすいようにする。
 互いの舌を絡め合い、角度を変えながら暫く二人はその場で浅く、深く、キスを繰り返す。

「ふ……っ、な? こーいう事はあいつらとは例え冗談でもしねぇだろ? 俺とお前じゃ、勇達とは前提が違うんだしよ。」

 たっぷりと唇を合わせた後、名残惜しそうな吐息を吐きながら唇を離すと、直輝は悪戯っぽく笑いかけながら蒼衣の耳に意味深に囁く。それに蒼衣は微かに頬を染めると、小さな声で恥ずかしそうに、そうだね、と同意を示した。その蒼衣にまた直輝は悪戯っぽく笑いかけた後、もう一度軽く唇を合わせる。

「ん、直輝、くん……。」

 うっとりとした声で蒼衣は直輝の名を呼び、そのキスを受ける。そして、改めて直輝の肩に置いていた手をその首に回して自分の体をぎゅっと直輝に押し付けた。




 強制的に切られた携帯電話を手に握りしめたまま、勇は小さく溜息を吐く。
 恐らくもう一度かけ直した所で、もう直輝は勇からの電話には出ないだろう。それどころか、下手したら電話の電源そのものも切っている可能性もある。
 しまったナ〜直輝、怒らせちゃった〜、と胸の内で小さく呟きながら、これからどうしようか、と思う。
 昨日蒼衣と初めて会ったカフェの前、店と通行人の邪魔にならない位置に立ち、腕組みをするとう〜んと唸る。
 しかし今更ここまで来ておきながらすごすごと諦めて家に帰るなんて、勇の性格上出来ない。
 かといって、流石に直輝達がどこに遊びに行くかまでは完全には予測も出来ず、もう一度勇は、う〜ん、と小さく唸った。
 と、頭を捻っている勇の腕にポンッと誰かが軽く拳で叩く。

「あ、順平ちゃん。」
「なんなんだよ、こんなトコ、呼びだして。」

 叩かれた事に気が付き、視線をそちらへと向けると順平がどこか不貞腐れたような顔で立っていた。その順平の顔を見て勇は、ぱぁっと表情を明るくしたが、しかし、順平に表情同様不貞腐れたような声で呼びだした理由を聞かれると、勇の表情が苦笑めいたものへと変わる。
 そして、いつもはにこにこと細めている目を、薄く開くとくるりと回す。それはまるで、どう説明しようか、と言うような表情で。勇の表情を窺っていた順平の顔がますます不貞腐れたようなものへなった。

「なんなんだよ?」

 改めて先ほどと同じ言葉を勇へとかける。
 すると勇は小さく首を傾げた後、にっこりと順平に笑いかけた。

「ん〜、実はサ。今日はネ、人探しをしようと思って。」

 どこか楽しげな色を乗せて勇はそんな順平にとっては意味が通じない事を言い始める。
 いつも細めている目は更ににんまりと細められ、その唇もどこか悪戯っぽく弧を描いていた。
 順平はその勇の顔を見て、自分がなんだか乗っては行けない誘いに乗ってしまった事を知った。
 朝っぱらから電話が来て、いつもの調子で遊ぼうと言うから思わずなんの疑いもなくこうしてのこのこと勇の前へと来てしまったが、思えば待ち合わせ場所がいつもと違う時点で気が付くべきだった。勇は明らかに何か順平を巻き込んで、順平にとっては楽しくのない、だが、勇にとっては楽しい何らかの“遊び”を思いつき、それに順平を否応なく巻き込もうと考えているに違いない。
 目の前にある勇の笑顔に果てしなく嫌な物を感じながら、一刻も早くこの場所から、勇の前から順平は逃げ出したいと思う。それでもどんな事があってもこんな表情をしている勇の手からは逃げられない事を経験的に知っていた。

「はぁ?! ひ、人探し……? な、なんで、ンなコト……っ。」

 勇の言葉に順平は顔を思いっきり引きつらせながら、強張った声で勇にそれがどういう事なのかと問う。しかも、自分の口から“人探し”と言う単語を出した事で更にその単語に含まれる不穏さをひしひしと感じ戸惑いを含めた目で勇を見上げる。
 そんな順平に勇は、にやりとどこか人の悪い笑みを浮かべると、その表情とは反して妙に浮き浮きとした声で説明を始めた。

「そう、人探し。ルールは簡単。ある人物とある人物がネ、きっと今日、どこかで楽しく遊んでると思うんダ。その二人を探して捕まえるダケ。タイムリミットは、そうだね、陽が落ちるマデ。で、順平ちゃんが俺より先に探しだせたら、俺からちょっとした賞品と夕飯が出まーす。俺が探し当てたら順平ちゃんは明日一日、俺の言う事聞くコト。二人して目当ての人物を日没までに探し出せなかったら、ゲームオーバー。今日は、一緒に夕飯食べて終わり。賞品もなし。夕飯は割り勘。ネ、ほら、楽しそうなゲームデショ? 参加するよネ? OK?」

 OK?、と確認を取っていながらも、勇は順平に文句も拒否もさせるつもりはない。それは、楽しそう、と言った言葉にも現れていた。それにもし拒否したとしても強制的に参加させる事は勇にとって何でもない事だった。例えそれが順平の不評を買ったとしても。
 勿論、順平が本当に嫌だと言うのならば、この場で順平を開放してやってもいい。
 だが順平がそこまで勇の提案したゲームを本気突っぱねる筈がない、という今までの経験則による自信もあった。
 だからこそ、こうして半ば強制的に順平をこのゲームに引きこむつもりで、この事を思いつきで口にしている。
 そしてそれは順平も良く解っている事でもあった。
 今までも勇がこう言いだした時にどれだけ順平が参加を拒否しても結局は良いように丸めこまれ、最終的には乗せられて参加させられていた。
 だからこそ順平は半ば諦めに近い感情を抱きながらも、唇を尖らせて一応の拒否を試みてみる。

「……なんだってンな面倒臭い事、俺がしなきゃなんねーんだよ。」
「順平ちゃん自身が撒いた種だからデショ。」
「はぁっ?!」

 唇を尖らせてそう文句を口にすると、勇はくすりと小さく笑った後、さも当然のように順平自身のせいだと言い切った。
 それに順平は目を剥いて、勇を驚いた顔で見上げる。
 何故、この勇の自分勝手なルールで行われる人探しゲームに巻き込まれる理由が、自分のせいだと言うのだろう。そんな思いを込めて順平は勇を睨みつけた。
 そんな順平に勇はあくまでも人の良い笑みは崩さず、そして、まるで順平の怒る意味が解らない、とでも言うように軽く小首を傾げて順平を見返す。

「順平ちゃんだって、昨日あんなに後悔してたデショ? だから俺がこのゲーム一生懸命考えたんジャン。」
「はぁっ?! 昨日の事と、今日のこの訳わかんねーテメェ勝手なゲームのどこに接点が……っ、ぁ……っ!」
「あ、気がついた? そうだよ。探す二人は、直輝と蒼衣ちゃん。どう? 楽しそうなゲームデショ?」

 いけしゃあしゃあとまるで昨夜からこの事を計画していたかのような事を勇は口にし、更には、順平の為に、と恩を着せる事も忘れない。
 その勇の言葉に順平は眉間に皺を寄せ強い口調で文句を言い始める。だが、その途中に小さく声を挙げると、今度は恨めしそうな顔で勇を睨みつけた。
 順平の視線を平然と受け流しながら、勇は涼しい顔をして直輝と蒼衣の名を出す。そして、ふふ、と軽く笑うと順平に流し眼を送りながら再度、楽しそう、と言う事を強調した。
 勇の思惑を知り、そして、自分自身に拒否権もない事も知ると、順平は奥歯をぎりぎりと噛む。怒ったように眦を釣り上げ、普段でもつり上がっている目を更にきつく釣り上げて勇を睨みつける。
 だが、どんなに順平が睨みつけた所で勇にとっては暖簾に腕押しで、まったくその睨みが効いた事など一度としてなかった。
 それは勇が本気で順平が怒っている訳ではないと言う事を熟知しているからだ。
 どんなに怒ったような顔で睨みつけても、順平が勇の言葉に本気で怒る事はまずない。いや、本気で怒れない、と言った方が適切かもしれないが。
 勇は順平の怒りの境界線を良く熟知している。そのボーダーすれすれの事をしかけて、ある程度の怒りは誘いながらも、それを上手くかわしつつ順平の怒りそのものを最終的に消してしまう。そう
いう術に勇はとても長けていた。だから、いつも順平はその勇の手中に嵌り、本気で怒るに怒れない状態にされてしまう。
 それが解っているだけに順平はむすっと唇を歪めると、勇を睨みつけるの止める。
 どちらにしろ今ここでどんな反論をしたところで、昨日の蒼衣に対する態度を出され、その後の行動についてまで言及され、そこをしつこく責められるのはなるべくなら避けたい。昨夜のような、順平にとっては無駄な口論をまたここで再現したくはなかった。

「……で、どこを探すんだよ。」
「ンー。判んない。」
「はぁああああ……?!?!」

 ぶすっと不貞腐れた表情で、それでも仕方なく、と言った体で渋々勇のゲームを飲んだのだと解る言葉を口にした順平に、勇は瞳を細めると、小首を傾げて思いもよらない言葉を口にする。
 その勇の返答に、順平はまた目を剥いて勇をもう一度驚いたように見上げた。

「さっきサー、直輝に電話して行く場所の探りを入れようとしたんだけどネー。直輝と蒼衣ちゃんが今日遊ぶだろうって事を蒼衣ちゃんにかまかけたのがバレて、直輝怒らしちゃった。で、話を最後まで聞く前に、電話切られちゃった。」

 テヘッとデカイ図体の男がしても全く可愛くもなんともない仕草をして、勇は順平に肩をすくめて見せる。
 それに順平は目を見開いたまま、声を裏返らせて驚きの声を上げ、まじまじと勇の顔を見つめた。

「って、それでどうやってあの二人探せっつーんだよっ!! こんな街中でたった二人を捜すとか狂気の沙汰じゃねーか!!」
「そうなんだよネー。そこが今回のゲームの唯一の失敗点。」

 ゲームとしてのそもそも基本部分が出来あがってない事を順平が責めると、勇は困ったように眉を下げ、困ったネ、とまるで他人事のように呟く。
 そんな勇に順平は、やってられねーとでも言うように盛大に溜息を吐いて、それ以上の文句を言う気もなくすと勇に背中を向けた。そしてそのまま歩き始める。

「あ、ちょっと待ってヨ。順平ちゃん。」
「……。」

 慌てて後を追いかけてくる勇を横目で見ながらも、順平は何も言わずに歩いていく。
 まさかいつも抜かりがない勇がそんな失態を犯し、当ても全くないゲームに自分を付き合わせようとする勇の態度に順平は呆れきっていた。
 このままそんなゲームの事など有耶無耶にしてとっとと昼飯でも食べに行きたい、と順平は思う。
 だが、その横に追いつき、勇が並ぶと口を開いた。

「でもネー、蒼衣ちゃんと一緒だと思うから、ある程度は絞り込めるような気もするんだよネー。」
「……どれくらいの範囲にだよ?」

 唇に指をあてたポーズで話す勇に、順平は呆れたような視線を向けながらそれでも一応勇に尋ねる。
 すると、勇は順平を見下ろしてにっこりと笑った。

「そうだネ。絞りに絞って、奏町の映画館通り辺りじゃないカナ?」
「……なんでそー思うんだよ。」
「ンー? ただの勘。それに、昨日蒼衣ちゃんがCDショップで映画のポスター見て、行きたそうな顔してたから、カナ?」
「……ふーん。」

 やたらにピンポイントの町名を出し、更に、その街にある施設のある通りの名前まで出した勇に、順平はじっとりとした視線を送りその根拠を尋ねた。
 順平の質問と、視線を勇は受けなら、それでも全くそれを気にせず、小首を傾げるとそう答える。そのあまりにも適当な推測に、順平はうすら笑いを浮かべると、視線を勇から逸らした。 
 そんなピンポイントに居る訳ねーじゃねーか、とでも言いたげな表情を浮かべている順平の横顔をチラリと勇は見下ろすと、ひょいっと眉を上げ、口を開く。

「じゃあさ、順平ちゃんはあの二人ならどこに遊びに行くと思う? 今回、あの二人の居場所を聞き出せなかった俺の失態もあるし、順平ちゃんが予想した場所に最初に探しに行こうヨ。そこを……えーと、そうだね、三時間程探して見つからなかったら、俺の予想の場所行こう。それならオアイコだよネ?」
「……。」

 勇の言葉に内心、どこがおあいこだ、と悪態を吐きながらも、勇に反論をしても上手く言い負かされてしまう事が解っているだけにそれは口にはしなかった。
 その代わりに、思考を直輝と蒼衣が遊んでいそうな場所、と言う提案に飛ばす。
 あの蒼衣と直輝が遊ぶ場所なんて、順平には皆目見当もつかない。そもそも、直輝一人ならまだ何となく行きそうな所は解るかもしれないが、蒼衣とは昨日が初対面の上、結局蒼衣と大して会話をしていない。蒼衣の趣味趣向と言うものがほとんど解っていない状況で、この勇の提案は順平にとってかなり難しいものだった。それになにより、順平は勇とは違い相手の人となりを見極め、その上で、その人が行きそうな場所を予測するという事が酷く苦手だった。
 歩きながら、それでも考えているふりをして、腕を組み、う〜ん、と唸る。
 しかし考える事に集中すればする程歩く足取りは鈍くなり、結局道の真ん中に佇んでしまう結果となった。

「……順平ちゃん?」

 立ち止まってしまった順平に少しの間気がつかず、数歩先に行った所で漸く勇が振り返り順平の名を呼ぶ。
 その声に軽く顔を上げたが返事はあえてしなかった。
 そのまま順平は通行人をよけながら道の端に寄ると、そこに置いてあった自動販売機の前に立つ。

「何? 喉乾いた?」
「……ん、まぁ。」

 のんびりとした口調で声をかけながら近づいてくる勇を横目に見た後、視線を自動販売機へと戻す。そしてジーンズの尻ポケットに突っこんでいた財布を取り出すと、小銭を出し自販機の投入口へと投入していく。

「何飲むの?」
「コーラ。」
「ふ〜ん? あ、俺もなんか買おうっと。」

 チャリン、チャリン、ピッ、ゴトンッ、と言う一連の音を響かせて順平がコーラを買うと、勇もいそいそと財布を取り出して順平と同じようにお金を入れ、ボタンを押す。ゴトンッ、と音がして取り出したそれは、結局順平と同じものだった。
 そのまま自販機の横に寄ると二人でプルタブを引き、コーラを仲良く飲む。
 暫くそうして冷たいジュースで喉を潤した後、不意に勇が口を開いた。

「で、直輝達が行きそうな場所、見当ついた?」
「……無理。」
「えー?」
「ンなもん、俺が解る訳ねーだろ。大体、俺がそーいうの見当つけれると思ってんのかお前。」

 自分自身で言ってても情けない事ではあるが、不貞腐れたような顔で自分の想像力のなさを口にした順平に、勇は少しだけ苦笑の混じった笑みを向ける。
 だが、それには特に同意も反論もしなかった。
 その代わりに、コーラを持っていない方の手を持ち上げると順平の頭をポン、ポンと優しく撫でる。

「っ、だからっ、そーいうのヤメロ!」
「じゃあさ、もし、順平ちゃんだったらどうする?」
「はぁあ……っ?」

 かいぐりかいぐりとまるで子供を撫でるような手つきで、綺麗にセットしてあった順平の頭を撫でる勇に順平がまた眦を釣り上げて文句を言う。だが勇はその文句は丸っと無視したかと思うと、突然そんな事を聞いてきた。思わず順平の声が荒れた感じに裏返る。

「だから、順平ちゃんだったらこーいう場合、どこに遊びに行く?」
「こーいう場合ってのはどんなだよ。」
「ンー……、例えば、他の友達にはなるべく見つかりたくない。だけど、でも、蒼衣ちゃんとはがっつり遊びたい。そんな時にどこに行ったら俺達とは会わないと思う? 会わないようにどこに行こうと思う?」

 コーラの缶を口元にあてたまま勇は順平を見下ろしながら先ほどの言葉の意味を説明をした。
 その説明を、ふーん、と半分真剣に、半分聞き流しながら順平は勇にぐちゃぐちゃに掻き回された髪型を直す。
 だが、勇が蒼衣の名を出すと、髪を弄る手を止めて見上げる形で勇を睨みつけた。

「……なんで俺があいつと遊ばなきゃならねーんだよ。」
「なんで例えで言った事にそんなに噛みつくのカナ?」

 目に見えて不機嫌になった順平に、勇は小さく肩を竦めると呆れたような視線を順平に向ける。
 そして、緩くふぅっと溜息を吐くと順平がまた噛みつく前に口を開いた。

「あのサ、順平ちゃん。昨日も俺言ったヨネ? 蒼衣ちゃんに対して先入観だけでそんな風に嫌うの良くないヨ、って。昨日はそれ納得したんじゃないノ?」

 少しばかり怒ったような色を込めて勇がそう言うと、順平はムッとした表情で唇を歪めたままプイッとそっぽを向く。
 確かに、昨日、順平は勇の言葉に納得をした素振りを見せた。
 だが、それもこれもあまりにもしつこく勇が蒼衣の事を擁護するようなことばかり言い、蒼衣自身をちゃんと見てから判断しろ、と言い続けた事に辟易したからだ。本音を言うならば、順平は全く勇の言葉に納得はしていないし、蒼衣の事を先入観で嫌って何が悪いと思っていた。
 そして、なんで俺があんな男女と仲良くしなきゃならないんだ、俺から歩み寄らなきゃならないんだ、そんな事知るか、そんな風にも未だ思っている。
 だからと言って、それをまた勇に伝えるのもまた面倒臭い展開になると思い、順平はただただ不満を現した顔で勇から顔ごと視線を背ける事で表す。
 そんな思っている事がありありと現れている順平の態度に勇は内心、やれやれ、と思いながらも、これ以上また昨日のように順平を諭すのも時間の無駄、とばかりに一度溜息を吐いた後、それ以上の追及はせずにまた話を戻す。

「……とりあえず、蒼衣ちゃんと遊ぶっていう設定が嫌なら、新しく出来たすっごく好きな彼女と出かけるなら、順平ちゃんはどこに行く?」
「……蒼衣の変わりがなんで新しく出来た彼女なんだよ。」
「そんな小さい事気にしない。はい、順平ちゃんならどこ行くの? 早く答えて。時間なくなっちゃうヨ。」

 意外と小さい事をぐちぐちとこだわり、突っ込みを入れる順平に勇は呆れた視線を送りながら左腕に撒いた時計をチラリと見て珍しく苛立ったように語気を強めた。
 時間は勇と順平が落ち合ってからすでに一時間近く経過している。
 このままでは直輝と蒼衣を探す場所を決めるだけでもまだまだ時間がかかりそうだ。そうなれば、二人を捜す時間も減り、最終的には二人と合流する事もままならない。
 勇としては出来れば今日中に二人にどうしても会っておきたかったのだ。そして、改めて二人の関係を観察しておきたい。それに、蒼衣を最初に見た時に、どこかで見た事があると言うデ・ジャヴュの正体も、感覚が薄れてしまう前に突きとめておきたかった。だから、多少強引とは言えこんな手段を取る。
 最悪、直輝の家に押しかけて帰ってくるまで待ってもいいとは思ってはいる。だが、それでは蒼衣とは会えないかもしれないし、そもそもどの時間に帰ってくるのかは勇にも予測がつかなかった。

「……南町……。」
「なるほどね。あそこなら確かに映画も観れるし、買い物しようと思ったらそこそこ店もあるし、何より俺達の行動範囲外だもんね。順平ちゃんにしちゃ百点満点な予測ジャン。」

 ぼそりと不機嫌そうに呟いた順平の言葉に勇はまるで、盲点を突かれた、とでも言うようにポンッと手を打つと、先ほどの苛立ちも呆れも忘れたようににこにこと笑う。そして、順平にとっては非常に嬉しくない褒め言葉を口にして、また順平の頭をがしがしと撫でた。
 頭をぐしゃぐしゃに撫でまくる勇に順平は嫌そうな顔をしながら、その手をのけようと手を伸ばす。だが、その手は勇の手にがっしりと掴まれると、そのまま引っ張られた。

「さっ、行くヨ! 順平ちゃん!」
「ぅわっ……っ! ちょっ、引っ張るなよっ! ちょっ!? 勇っ!!」

 順平の腕を握り締めたまま先頭を切って走りだした勇に体ごと引きずられる形になり、順平は焦ったような声を出して勇に制止を求める。
 しかし順平の声など聞こえていないかのように勇は嬉々とした足取りで、駅に向けて走っていった。