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NOVEL

罪悪感 航矢編
〜第四話〜

注意) 過去:盗み聞き

いつから俺はこんな男になったんだろう。

憎しみばかりを募らせるような人間に。

それでも、笑うことができるような人間に。

 楠木、と名乗ったその男所有だと思われる大型の豪華クルーザーに乗せられて、三日後、漸く辿り着いた場所は横浜だった。
 そしてそこからは、港に待機していた黒塗りの高級車に乗せられて揺られる事、更に数時間。
 幾らなんでも尻が痛くなり始めた頃、漸く車は停まった。
 真っ黒なスモークが貼ってある車内からでは今ひとつどこに着いたのか解らなかったが、車から降りて漸くその場所がどこであるか理解した。
 そこは、俺が結婚式を挙げた場所。
 そして渉と一緒に全ての過去を捨て、後にした場所。
 美奈のセッティングしたこの壮大な皮肉に、俺は苦笑をする。
 目の前に聳え立つ豪奢なホテルを複雑な思いと共に見上げていると、いつの間にか隣に立っていた楠木がトントンと俺の肩を叩く。
 視線を隣に移すと、にやりと人の悪い笑みを浮かべた楠木が顎でホテルの入口を指した。

「ほら、お嬢さんがお迎えにいらしたぜ。」

 くつくつと低く笑うそいつに示された場所を見ると、丁度ホテルの回転扉から美奈が側近を従えて出てくるところだった。
 恐らくあらかじめこれ位の時間に俺達が着く事が伝えられていたのだろう。
 美奈は、全く躊躇することなく真っ直ぐこっちに向かって早足に歩いて来ていた。
 それを見て、俺は静かに深く息を吸い込む。心にある迷いを吹き飛ばすために。
 腹の奥に溜めた息を、ゆっくりと暗い感情と共に吐き出す。
 ここからが俺の力量の見せ場だ。
 一つ選択を間違えれば、俺にはもう先がない。
 権力を手にする夢も、野望も潰える。
 そして何より、渉にも本当の意味でもう二度と会えなくなるだろう。
 だから、心を決める。
 どんな苦渋を舐めたとしても、辛酸が待ち受けていたとしても、またあいつをこの手にどんな形にせよ取り戻すまでは、悪魔にでも、何にでも魂を売ってやる。
 築き上げた男としてもプライドも全部捨てて、手にするべく権力と金の前に跪いて見せよう。
 そんな決意を固め、改めて美奈の方を向くと、カッカッカッとヒールの甲高い音を響かせながら美奈は俺に真っ直ぐ向かってくる。
 その形相は思った以上に険しい。
 渉との間に何があったのか、そんな事が容易に想像できるような形相だった。
 恐らく、渉に女としてのプライドを傷つけられた、そんな所だろう。
 それが俺との関係なのか、あいつの持つ男ならざる魅力なのかはこれだけの情報では解らなかったが。
 勿論、俺が男と逃げた事への恨みつらみも、怒りも含まれているだろうが。
 だが恐らくそれは美奈が渉に向けている怒りや憎悪とは比較にならないだろう。
 もし美奈が、今回の事で俺に対して愛想を尽かしている、俺に対して憎悪を燃やしている、というのならば、恐らくこんな搦め手など使わない。
 その場合は、俺をこんな所になど呼び出さず、部下に言付けて三行半を伝えるような女だ。
 そんな女が俺をこんな手間隙をかけてこの場所に呼び寄せたのならば、俺に対しては急に消えた事に対して怒っているだけだ。つまり、俺と別れる気など毛頭ないという事。
 視線を改めて美奈へ向けると、相変わらず苛立ちがそのまま現れたようなヒールの音を甲高く響かせながら彼女は俺に向かってきていた。
 そして、俺のまん前までくると、俺が口を開くより早くその手が俺の頬を引っ叩いた。

「……っ。」

 女の力で殴られてもそう痛いとは思わないが、それでもその衝撃に顔を歪める。
 そんな俺を見て、美奈はわなわなと怒りか、それとも別の感情でか震える唇をギュッと一度噛み締めた。

「っ、なんで……っ!」

 そして漸く搾り出した言葉はそれだった。
 俺をキツイ瞳で睨み付けながらも、それでも、その瞳の淵には言葉に尽くせない感情が涙の雫となって溜まっている。
 美奈の気の強さとプライドの高さを考えれば、このまま公衆の面前で涙を流す、と言う事はしないだろう。
 それでも、流石に今回の事はこの気の強い女でさえも酷く傷つけ、涙を零しそうになるまで追い詰めていたらしい。
 その事を思い、少しばかり目の前の女が哀れに思えてくる。
 俺の嘘の睦言を信じ、年老いた親の反対を覆し、身分の違いを押し切ってまで結婚という暴挙に出たというのに、今また、俺に酷く裏切られ、傷つけられているのだから。
 しかも、そんな男なんかあっさり見限ればいいモノを、こうしてまた自分の元へと取り戻そうとするとは……。目の前に立つ男の心は、もう、永遠にこの女になど見向きもしないというのに。
 それを思うと、本当に、哀れとしか言いようがない。
 それでも、俺は今からこの女に誠心誠意を込めて偽りを偽りだと見抜かれないように謝罪をしなければいけなかった。
 俺自身の為に。野望の為に。目的の為に。
 ――何よりも、どこに連れ去られてどんな目に遭わされているか解らない、渉の為に。
 目の前で涙を堪えている女を、見る。
 美奈は、まだ何か言葉を言おうとしていたがそれが上手く言葉に出来ないらしく、何度も唇を噛んだり、薄く開いたりしていた。

「――悪かった。」

 そんな美奈に向けて俺は手を伸ばし、その頬に触れながらそう低く呟く。
 すると、美奈は弾かれたように俺を見た。

「お前に悲しい思いをさせて、悪かった。」

 弾かれてあげた顔をそのまま俺は腕の中に閉じ込めると、綺麗に巻いてある髪に鼻先を埋めてそうもう一度謝りの言葉を口にする。
 俺の言葉に俺の腕の中で、美奈はビクリと体を揺らした。
 そして。
 下にだらんと下がっていた美奈の、両手が。
 俺の背中へと回された――。

◆◇◆◇

 喜び勇んでタクシーに乗り、先ほど渉の親父さんから聞き出した住所を告げる。
 簡単な応答の後、タクシーはゆっくりと発進し、夜の街を後にした。
 後ろに流れていくネオンや光の帯をなんとはなしに見やりながら、これから尋ねていく渉の事を考える。
 どんな顔をして会えばいいだろうか。
 何を話そうか。
 そんな事を考え、想像するだけで懐かしさと共に妙な胸の高鳴りを感じていた。
 たかが、数年音信不通になっていた幼馴染と再会するだけだというのに、俺は変な緊張を感じていて。
 自分でも、可笑しな奴だと、苦笑した。
 それでもあいつに久々に会えるかもしれない、という期待は俺の予想以上に俺自身の感情を高ぶらしていたらしい。
 流れすぎていた景色が止まり、タクシーが停まったことにも暫く気がつかなかった。

「着きましたよ。」

 そうタクシーの運転手に言われ、漸くハッとして顔を挙げる。
 乗降用のドアはすでに大きく開かれていて、運転手は俺の方に首を捻じ曲げ、自分の世界に入りきっていた俺を少しだけ怪訝そうに見ていた。
 慌てて尻ポケットから財布を取り出し、提示された金額を払う。
 そしてタクシーを降りた。
 後ろでタクシーが走り去る音を聞きながら、ぐるりとあたりを見渡す。
 そこは、暗闇が覆う住宅街の中にぽつんとある古いアパートだった。
 パッと見てすぐ分る程に薄汚くボロい、二階建ての安アパート。恐らく間取りも1K程度が関の山だろう。そのボロさのせいか、明らかに住んでいる人間も少なそうだった。
 それでも、そこにあいつは住んでいる。
 じっとりと緊張から来る汗で滲んだ手のひらを、一度スーツのズボンで拭くと、俺はあいつの住んでいるであろう部屋へと向けて足を一歩踏み出した。
 高鳴る心臓を落ち着かせようと殊更ゆっくりと歩を進める。
 しかしそれがどれだけ無駄な足掻きだったのか。
 一階にあるその部屋の前までくる頃には、緊張と興奮はピークに達していた。
 そんな自分にもう一度深く苦笑をすると、一回深く深呼吸をする。
 悪い事に手を染めた時でも、中学時代に始めて女を抱いた時にも、こんな緊張も興奮も感じた事などない。
 自分があまりにも不自然に緊張し、興奮している事に俺が今まで無意識の中でどれだけ渉に会いたいと切望してきていたのかを、初めて知る。
 己のその感情に、無様な所は見せられないと一括すると、俺は腹の奥まで空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 それを数回繰り返し、漸く少し気持ちが落ち着いたところでドアの横にある呼び鈴を押そうと手を伸ばした。
 その時だった。
 ドアの隣にある台所と思われる場所から、薄い光と共に、声、が聞こえてきた。しかも、明らかにあいつとは違う、男の、声、が。
 ただ、それだけならば俺はあいつの友達か誰かが訪れてきているだけだと思っただろう。
 だが、その声は俺の良く知る人物の声にそっくりだった。
 何かの聞き間違いかと、耳をそばだてると、低く抑えた声色ではあったが、夜の静寂の中、その声は細く俺の耳に届く。
 やはり、馴染みのある、聞いた事のある声。
 視線をそこへと移すと、窓が薄く開いていることに気がつく。
 心臓が一度、大きく鳴った。
 嫌な胸騒ぎに呼び鈴を押す事を止め、極力音を立てないようにその窓のある場所まで移動する。
 ちょうど俺の顔の位置にある窓に手をかける。しかし、薄く光が漏れている中を覗く事は何故か恐ろしくて出来ず、仕方なく薄く開いている隙間に耳を当てた。

「……凄いね、ココ、ほら、……だよ。」

 また、大きく心臓が跳ね上がる。
 近くで聞き疑惑は確信へと変わる。
 その声は、確実に俺の良く知る人物の声だった。

「イ……よ、も……だいぶココも、慣れ……ね、渉。」

 部分的に聞こえてくるそいつの声が、とうとう渉の名前を口にした瞬間、その声に含まれる粘つきに胸の中が掻き毟られたような痛みを感じた。
 しかも、そいつの声の合間に断続的に聞こえてくる、苦しそうな、でもどこか甘さを含んだような、息遣い。
 恐らくそれは、渉の声だ。
 その部屋の中で何が行われているかが、想像はしたくなかったが、声と息遣いだけでなんとなく想像がつき、筆舌に尽くし難い苦しさと、嫌悪感が胸の中に溢れてくる。
 だが、想像はあくまでも想像にすぎない。
 それが本当に事実なのかは、実際にこの目にするしかなかった。
 俺は意を決すると、耳を押し当てていた薄く開いている窓枠に手をかける。
 そのまま、ゆっくりと、音を立てないよう注意しながら立て付けの悪いソレを覗き込めるくらいまで薄く広げた。
 汗だくになりながら窓を開き、そこに恐る恐る目を近づける。
 薄暗い室内は、だが、台所から続く和室が寝室として使われているらしく、そこから枕もとの照明が遮るものさえない室内全体を淡く照らし出していた。
 そして、俺は決定的な映像を眼にした。

「っ……!」

 その光景を目にした瞬間、まるで突然気道が塞がれたような息苦しさを感じる。
 室内では、漏れ聞こえてきた声と息遣いのままに、男同士が絡み合っていた。
 薄暗い室内に白い裸体がぼんやり浮かび上がり、それを組み敷いている背の高い男の背中には見覚えがあった。
 紛れもなく下になっている男に睦言を囁いているいるのは、俺の良く知る人物だった。
 その光景にまるで首を絞められたような息苦しさに、胸元に手をやり、きっちり締めていたネクタイを緩める。だが、その程度では、この息苦しさは全く直らない。
 そんな俺の耳に容赦なく聞こえてくる、部屋の中の声と、絡み合う男同士の肢体の映像。
 しかも、今まで断続的な息遣いでしかなかったそれが、映像を見たせいか、急に言葉となって俺の耳に届いた。

「ぁ……っ、や、だ……、やぁ……っ。」
「やだ、じゃないだろ? イイ、だろ? ほら、渉。イイっていってご覧?」

 明らかな、性的な甘さと苦しさを連想させる、声。言葉。息遣い。
 しかもそれが、俺の良く知った男たちに寄って紡ぎ出されていると思うと、堪らなく苦しくて、痛くて、死にそうだった。
 部屋の中の奴等に気取られぬように、短く息継ぎを繰り返し、ゆっくりと窓から目を離すと、体を折る。そのまま俺は脱力したように窓の下に蹲った。
 その場から早く逃げ出したかったが、体が言う事を聞かない。
 そんな俺に更に追い討ちをかけるように、声が、聞こえた。

「……かず、也……さ、……ぁ、だ、め……っい、く……っ!」

 渉の甘く苦しそうな声が、奴の名を呼び、そして絶頂を訴える。
 あいつの名前が出た事で、頭の中で打ち消していたその事実を改めて叩き込まれたような気がした。
 そして、それと同時に奴に対して言いようのない憎しみが膨れ上がる。
 瞬間、脱力していた体がバネのように跳ね上がり、自分の意思とは関係なくその場から走り始めた。
 何故自分が部屋の中に居るあの男にすぐに怒りと憎しみをぶつけず、全力でその場から逃げたのかは解らない。
 ただ、今までこんなに真剣に走った事などなかった。それ程の全速力で渉のアパートから一気に遠ざかる。遠ざからなければいけないと、そう思っていた。
 漸く俺の足が止まったのは、完全に渉のアパートが見えなくなり、恐らく隣の地区まで来た頃だった。
 目に付いた公園に飛び込み、一目散に設置してあるトイレの中に駆け込む。
 そして、洗面台に手をつくと俺は一気に胃に入っていた内容物をそこにぶちまけた。
 ツンとした匂いが辺りに充満し、それが更に吐き気を誘導する。
 蛇口を勢いよく捻り、ジャージャーと水を流しながら俺はゲェゲェと吐き続けた。
 一体どれくらい吐き続けただろう。
 いい加減、胃液くらいしか出なくなり、それさえももう出なくなった頃、漸く俺は蛇口を締めて水を止めた。
 そのまま水と嘔吐物でぐちゃぐちゃになったスーツを脱ぎ、ネクタイと共に傍に置いてあるゴミ箱に突っ込んだ。
 頭の中にあるのは、チクショウ、という言葉のみ。
 それさえも一体誰に向けて放っている言葉なのか、もう俺には解らなかった。
 ただ、苦しくて、痛くて、辛くて。

「……チクショウ……っ!」

 胸にわだかまる苦しさを吐き出すように、頭を占めていた言葉を口にする。
 それを何度も何度も口にしながら、俺は壁を拳で叩く。
 繰り返し繰り返し何度も叩いている内に、手の甲は裂けて血がにじみ始めていた。
 鈍い痛みが走り、叩きつける壁に俺の血がべっとりと貼りつく。
 何が一体こんなにも悔しいのか。何がこんなにも痛いのか。苦しいのか。
 その理由は何度悪態を呟いても、壁を叩いても、今の俺には全く理解できない事だった。
 ただ、ただ、渉の事を考えると辛かった。痛かった。苦しかった。
 あいつに会うことをずっと心の奥底で、願っていた。漸く消息が解り、会ったら色々な事を話そうと思っていた。そして、あいつに大人になって力を得た俺が、手を差し伸べようと思っていた。
 それがすべて崩れ去り、俺の心にはただ、憎しみとも悲しみともつかない感情だけが溢れかえってしまう。

「……渉……っ!」

 いい加減叩き疲れ、ずるずると汚い公衆便所の床に座り込む。
 そして、小さく口の中であいつの名を叫んだ。
 その言葉は、酷く苦くて痛い想いを俺の胸に刻み込む。